奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ――現在。

 モントレー伯爵家の執務室は、昼間だというのに重苦しい空気に沈んでいた。

 モーリスは机に肘をつき、積み上げられた書類を睨みつけている。

 同じ行を、何度も読み返していることに、本人だけが気づいていなかった。

「……訴える、だと……」

 低く呟いた声は、乾いていた。

 ベルヌー法律事務所からの通知。
 財産移譲に関する聞き取り調査。
 法的措置を視野に入れているという、あの一文。

 胸の奥で、嫌な音がした。

(馬鹿な……。負けるはずがない)

 そう思おうとしても、思考が追いつかない。

 これまで、“自分は正しい側にいる”
 “法も理屈も、こちらを守る”そう信じてきた。

 だが、今回は違う。

 銀行。
 署名。
 郵送。
 本人確認なし。

 一つひとつは些細でも、積み上げられれば致命的だ。

 モーリスは、無意識に指先で机を叩いた。
 規則的だった音が、次第に乱れる。

(もし……裁判になり、敗訴したら?)

 考えたくないはずの思考が、容赦なく入り込む。

 爵位。
 立場。
 築き上げてきた“伯爵としての威厳”。
 すべてが、音を立てて崩れる。

「……いや、まだだ」

 小さく首を振る。
 問題は、それだけではない。

 机の端に置かれた地図。
 赤鉛筆で薄く引かれた、あの線。

 旧領寄りの土地。
 表向きは整っているが、触れられたくない場所。

(まさか……)

 喉が、ひくりと鳴った。

 ベルヌーは、なぜそこを拾った?
 なぜ、あの区域を“管理されている土地”として把握している?

 偶然にしては、出来すぎている。

(……アデルの仕業だな…)

 ハロルド。
 ジェイコブ。
 街道沿いの商会。
 測量関係者。

 点だったものが、線になり、面になろうとしている。

 モーリスは、立ち上がり、部屋を歩いた。
 数歩進んでは止まり、また向きを変える。

「違う……。私は、主導していない」

 誰にともなく、言い訳のように口をつく。

「助言を受けただけだ……そうだ、私は選んだだけだ」

 だが、その言葉は、自分自身に向けたものだった。

 もし、“助言”の出どころが明るみに出たら?
 もし、“誰が考えたのか”を問われたら?

 思考が、そこで止まる。

「……くそ……」

 額に、じっとりと汗が滲んだ。


 *

 ――同じ頃。

 モントレー伯爵家の回廊を、ルイは静かに歩いていた。

 屋敷の空気が、微妙に変わっている。
 それは声や物音ではなく、使用人たちの動き方に現れていた。

 足取りが早い。
 視線が合うと、わずかに緊張が走る。
 報告が増え、言葉が短くなる。

(……義父上が、揺れている)

 確信に近い感覚だった。

 かつての義父は、もっと計算高く、慎重な男だった。焦りを表に出すことはなかった。

 だからこそ、今の変化が異様だった。

 ベルヌー法律事務所で聞き取り調査を受けて戻ってから、モーリスの様子は明らかに変わっていた。

ということだな)

 ルイは足を止め、窓の外に目を向ける。
 中庭では庭師が黙々と作業を続けている。
 表向きは、何も変わらない日常だった。

 だが、屋敷の中だけが、妙に息を詰めている。

「…ルイ様」

 背後から声をかけられ、ルイは足を止めて振り返った。執事が、いつになく慎重な面持ちで立っている。

「伯爵様が、先ほどから執務室にお籠もりで……」

 言葉を濁したその言い方だけで、平常ではないことは伝わってきた。

「何か、困り事でも?」

「いいえ。今のところ、具体的な指示や叱責があるわけではございません。ただ……」

 執事は一度、言葉を切り、視線を伏せる。

「この状況が続くようですと、周囲の執務に差し障りが出かねないかと。使用人たちも、少し落ち着きを失っております」

 屋敷の空気が、静かに歪んでいる。
 ルイはそれを、すでに感じ取っていた。

「……冷静に話せる状況ではない、ということか」

「……はい。左様でございます」

 執事の声には、長年仕えてきた者だからこその遠慮と、わずかな不安が滲んでいた。

 ルイは、穏やかながらも迷いのない口調で告げる。

「義父上が落ち着くまで控えよう。急ぎの執務や判断が必要な案件は、私に回して構わない」

 執事は一瞬だけ逡巡したが、やがて深く頭を下げた。

「かしこまりました」

 その背が遠ざかり、回廊に再び静けさが戻る。

 ルイは歩き出した。
 だが、その歩幅は、先ほどよりもわずかに小さくなっていた。

(……法的措置)

 ベルヌー法律事務所で耳にした言葉が、脳裏をよぎる。

 あの場で見せた義父の態度。
 表に出ていたのは怒りと尊大さだったが、その奥には、隠しきれない動揺が確かにあった。

 ルイは無意識のうちに拳を握りしめる。

(知らなかった、では済まない)

 自分が直接関与していなくとも、モントレー家の名の下で起きた出来事は、最終的に当主に近い立場にある者の責任になる。

 その理屈は、十分に理解している。
 だが――。

(……義父上は、何を隠している)

 財産移譲。
 土地の件。
 そして、ここ最近の不可解な動き。

 一つ一つは小さく見えても、繋がり始めれば無視できない。点は、すでに線になりつつあった。

 それを、義父だけが見ていないふりをしている。

(先代からの遺産……の個人資産)

 ルイは静かに息を吐いた。
 瞳を閉じると、ベルヌー事務所で交わされた言葉や、揺れない眼差しが思い出される。

「……遅すぎる」

 それは、誰に向けた言葉でもなかった。

 感情を挟めば、判断は鈍る。
 今は、動かない。
 だが、目を逸らすこともしない。

 ルイは自室の前で立ち止まり、声を落とした。

「……ノクス。いるか」

 壁の向こうで、かすかな音が返る。
 否定ではない。応答だった。

「今回の裏取りが、少し遅いのではないか」

 短い沈黙。
 それから、壁を軽く叩く音がする。
 否定の合図だった。

「分かった。許可する。続きを聞かせてくれ」

 返事はない。
 だが、ルイは確信していた。

 すでに歯車は回り始めている。
 止める段階は、とうに過ぎていた。

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