奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

文字の大きさ
59 / 172

59

 ――同日、夕刻。

 モントレー伯爵邸の執務室に、一通の書簡が届けられた。

 封を切った執事が、内容を読み取り、わずかに言葉を詰まらせる。顔色が悪くなっていた。
 その様子に、モーリスは苛立ちを隠さず声をかける。

「何だ。はっきり言え」

「……ベルヌー法律事務所からです」

 その名を聞いた瞬間、モーリスの眉が跳ね上がった。

「ふん、忌々しい。内容は、何て書いてある」

 執事は一度、深く息を吸ってから続けた。

「アデル・ドルン男爵令嬢の代理人として、財産不正移譲および関連契約に関する正式な民事訴訟を提起した、との通知でございます」

 室内の空気が、はっきりと変わった。

「……訴訟、だと?」

 モーリスは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「待て。聞き取り調査は、まだ途中だろう」
「はい。しかし――」

「話し合いで済む話だ。なぜ、いきなり裁判になる!」

 言葉は強く、怒りを含んでいたが、声の奥に滲む焦りは隠せていなかった。

「書面によれば……」

 執事は、視線を落としたまま読み上げる。

「『これ以上の事実隠蔽、証拠散逸を防ぐため、
 司法の場での整理が必要と判断した』と」

「……くそっ。生意気な」

 吐き捨てるように言いながら、モーリスは机に手をついた。

 ――

 それは、噂や圧力では覆せない場所だ。
 証拠が必要で、記録が残り、逃げ道がない。

「誰が……決めた」

 問いは、分かっていて口にしたものだった。

「アデル様ご本人の意思と、明記されています」

 その一言が、決定打だった。

 モーリスの脳裏に浮かんだのは、聞き取り調査の場で見た、あの静かな眼差し。

 泣きもせず、怒りも露わにせず、
 ただ、事実だけを積み上げていた女。

(……あの娘が)

 胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。

「……訴えられたのは、私か」

「現時点では、被告はモーリス・モントレー伯爵。および、関係した金融機関となっております」

「……ルイは?」

 思わず口を突いて出た名だった。

「次期当主ルイ様の名は、書面にはございません」

 それを聞いて、安堵したのか、別の感情なのか、モーリス自身にも分からなかった。

 だが、一つだけははっきりしていた。

 もう、後戻りはできない。

 助言だった。
 命じていない。
 善意だった。

 そうした言い訳は、法廷では意味を持たない。

 モーリスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「……弁護士を呼べ」

 声は低く、掠れていた。

「今すぐだ。最優先でだ」

 執事が頭を下げ、部屋を出て行く。

 扉が閉まったあと、
 モーリスは一人、天井を見上げた。

(……アデル…)

 頭の中で、問いが渦を巻く。

 自分は、守ろうとしただけだ。
 家を、地位を、未来を。

 それなのに。

 裁判を起こしたのは、他でもない。
 目覚めたばかりの、姪だった。

 ――その瞬間。

 モーリスは、ようやく気づき始めていた。

 これは、交渉ではない。
 脅しでもない。

 戦いの段階が、変わったのだ。




 モントレー伯爵邸の執務室に、ルイは急遽、呼ばれていた。

 扉を開けると、室内の空気は重かった。
 机に広げられた書類。
 乱れたままの羽根ペン。
 そして、椅子に深く腰を沈めたモーリスの背中。

「ああ、ルイか…」

 振り返らずに投げられた声は、普段より低い。

「座ってくれ」

 ルイは無言で従い、向かいの椅子に腰を下ろした。視線は机上の書類に向いたままだ。

「……ベルヌーから、正式な通知が来た」

 モーリスはようやく顔を上げた。

「アデルが……裁判を起こした」

 その言葉を、ルイは一拍置いて受け取った。
 表情は、変わらない。

「民事訴訟だ。財産移譲と、その周辺契約すべてについてだそうだ」

 怒鳴るでもなく、苛立ちを爆発させるでもない。
 だが、声の端に焦りが滲んでいる。

「聞き取り調査の段階で止まると思っていた。
 だが、あの女は……法廷を選んだ」

 ルイは静かに問い返した。

「被告は……義父上ですか?」

 その冷静な確認に、モーリスの眉がわずかに動く。

「……ああ、私だ。あと、銀行も含まれている。
 お前の名は、出ていない」

「そうですか」

 それだけだった。

 何の感情ものせない、ただ事実を整理するような声だった。

「ルイ」

 モーリスが、苛立ちを抑えきれずに呼びかける。

「お前は、何とも思わないのか。に訴えられたんだぞ。くそっ。身内を訴えるなんてな…!モントレー家に楯突くなんてな」

「身内を訴えるですか…」

 ルイは淡々と言葉を発する。

「訴えられるを作ったのは義父上ですよね?」

 その言葉に、室内の空気がさらに張り詰めた。

「……ルイ…お前まで、私に楯突く気か?元妻と繋がっているのか?」

「私がは事実を整理しているだけです。元妻と繋がっていないのは義父上ならばわかるでしょう」

 ルイは視線を上げ、初めてモーリスを正面から見た。

「裁判を起こしたということは、相手は、感情ではなく、証拠で勝つ準備が整ったという意味です」

 モーリスは、無意識に歯を噛みしめる。

「ベルヌーは……手強い」

「ええ」

 短い肯定だった。

「彼の手腕は、法曹界でも一目を置かれてます」

 一瞬だけ、言葉を選ぶ間があった。

「そういう人間を敵に回したということです」

 それは評価でも、擁護でもなかった。
 単なる事実確認だった。

 モーリスは、苛立ちを隠そうともせず、机を叩いた。

「だからこそ、だ!お前にも動いてもらう必要がある。家のために、事を穏便に――」

「できません」

 即答だった。
 その声音に、迷いはなかった。

「今、私が動けば、責任の線が次期当主に近づきます。それは、この家にとって、不利になるでしょう」

「……お前…保身か」

「危機管理です」

 ルイは静かに言った。

「義父上は、法廷で戦うことになる。私は、その結果を受け止める立場に留まります」

 沈黙が落ちる。
 モーリスは、しばらくルイを睨んでいたが、やがて視線を逸らした。

「……好きにしろ」

 吐き捨てるような声だった。
 ルイは立ち上がり、一礼する。

「失礼します」

 扉に手をかける直前、モーリスが低く言った。

「……お前は、冷たいな」

 ルイは振り返らなかった。

「いいえ」

 静かな声で、それだけを返す。

「私は、を見ているだけです」

 扉が閉まる。
 廊下に出たルイは、足を止めずに歩き出した。胸の内に、迷いはなかった。

(……裁判という選択をしたか)

 その判断の重さを、彼は正確に理解している。

 感情を断ち切り、
 逃げ道を塞ぎ、
 真っ直ぐに、正面から。

 ――ようやく、確信が形になった。
 ルイの歩みは、乱れなかった。

あなたにおすすめの小説

真実の愛の裏側

藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。 男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――? ※ 他サイトにも投稿しています。

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした

ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?  ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

【完結】愛する人のために

月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。 けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。 『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』 このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。 三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。 ※他サイトでも投稿しております。

(完)妹の子供を養女にしたら・・・・・・

青空一夏
恋愛
私はダーシー・オークリー女伯爵。愛する夫との間に子供はいない。なんとかできるように努力はしてきたがどうやら私の身体に原因があるようだった。 「養女を迎えようと思うわ・・・・・・」 私の言葉に夫は私の妹のアイリスのお腹の子どもがいいと言う。私達はその産まれてきた子供を養女に迎えたが・・・・・・ 異世界中世ヨーロッパ風のゆるふわ設定。ざまぁ。魔獣がいる世界。

【結婚式当日に捨てられました】身代わりの役目は不要だと姉を選んだ王子は、隣国皇帝が私を国ごと奪いに来てから後悔しても手遅れです。

唯崎りいち
恋愛
結婚式当日、私は“替え玉”として捨てられた。 本物の姉が戻ってきたから、もう必要ないのだと。 けれど—— 私こそが、誰も知らなかった“本物の価値”を持っていた。 世界でただ一人、すべてを癒す力。 そして、その価値を知るただ一人の人が、皇帝となって私を迎えに来る。 これは、すべてを失った少女が、本当に必要とされる場所へ辿り着く物語。