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裁判当日の朝。
アデルは、まだ薄暗い部屋の中で、すでに身支度を終えていた。
リセラが起き出すよりも、ずっと早い時間だった。
「おはようございます、お嬢様。もう起きてたんだべか。……あんまり寝られなかっただか?」
衝立の陰から顔を覗かせたリセラは、まだ寝巻姿のままだった。
少し乱れた髪を押さえながら、心配そうに目を細める。
一方、アデルはすでに外出着に着替えていた。落ち着いた色合いのグレーのワンピース。
髪もきちんとまとめられ、余計な飾りは何もない。
「おはよう、リセラ。少し早く目が覚めただけよ。ちゃんと眠れたわ」
穏やかな声だった。
無理をしている様子はない。
「それなら、よかっただ……。すんません、すぐ支度しますだ」
「いいのよ。急がなくて。まだ時間は早いわ」
「いんや。こういう日は、ちゃんと食べないと体がもたないべさ。朝の市場で、少し買い足してきます」
そう言って、慌てて身なりを整えたリセラは、外套を手に取り、扉へ向かった。
そのときだった。
控えめなノックの音が、室内に響いた。
「私だ」
扉の向こうから聞こえた声に、リセラが一瞬だけ動きを止める。
「……メガネ先生?」
そっと扉を開けると、そこに立っていたのはクロードだった。
まだ朝の冷気をまとった外套姿で、手には紙袋を提げている。クロードは軽く会釈し、紙袋を差し出した。
「朝早くにすまない。君たち、朝食はまだだろう?」
アデルも扉の近くへ歩み寄った。
「先生……わざわざ、これを?」
「散歩がてら、パン屋に寄っただけだ」
紙袋の中には、焼きたての香りを残したパンがいくつも入っていた。
素朴なものから甘いものまで、選び方に迷いがない。
「ありがとうございます。先生は、もう召し上がりましたか?よろしければ、ご一緒に…コーヒーを淹れます」
「いや、私は店で済ませてきた。君たちで食べなさい」
リセラが、ほっとしたように息を吐く。
「助かりますだ。ちょうど、買いに出ようとしてたところだったんだぁ」
「それなら良かった」
クロードは一拍置いて、静かに言葉を添えた。
「……今日は、大事な日だからな」
アデルは、まっすぐに頷いた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます。気持ちは落ち着いています。先生、今日はよろしくお願いいたします」
「出発は十時だ。それまで、まだ時間は十分にある。ゆっくり過ごしなさい」
それだけ言い残し、クロードは廊下へと下がった。
扉が閉まると、部屋には再び朝の静けさが戻る。
リセラは紙袋を抱えながら、ぽつりと呟いた。
「……みんな、気にかけてくれてるんだなぁ」
「ええ」
アデルは小さく微笑んだ。
胸の奥にある緊張は、確かに消えてはいない。
けれど、その重みを一人で抱え込む必要は、もうなかった。
静かに、裁判の朝が動き出していた。
*
裁判所へ向かう馬車の中は、静かだった。
車輪が石畳を刻む音だけが、一定のリズムで響いている。窓の外では、朝の街がゆっくりと流れていった。
アデルは背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねて座っていた。
視線は正面に向けたまま、何かを考えている様子はない。
向かいに座るリセラは、何度か口を開きかけては、結局何も言わずに閉じている。
ロイクは御者の横に立ち、外の様子を警戒するように見渡していた。
クロードは書類鞄を膝に置き、内容を確認するでもなく、ただ静かに目を伏せている。
誰もが、それぞれの思考の中にいた。
不安はあった。
恐れも、迷いも、確かにある。
だが、アデルはそれらを言葉にしなかった。
この馬車の中で吐き出せば、覚悟が揺らぐ気がしていたからだ。
(大丈夫)
決断は、もう済んでいる。
馬車が減速し、やがて止まる。
御者が扉を開けた。
「到着しました」
アデルは静かに立ち上がり、外套を整える。
朝の空気が、思ったよりも冷たく感じられた。
裁判所の建物は、重く、揺るがない佇まいでそこにあった。これから起こることを、すでに知っているかのように。
*
法廷前の廊下は、思いのほか広く、静かだった。
高い天井。
淡い石の壁。
足音が、必要以上に響く。
アデルたちは、案内された待機場所へ向かって歩いていた。
その途中――。
向かいの廊下から、傍聴する一団が現れる。
先頭に立っていたのは、ルイだった。
黒を基調とした装い。
背筋を伸ばし、無駄のない歩き方。
表情には、何の感情も浮かんでいない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、視線が重なった。
ルイの目は、静かだった。
驚きも、動揺も、拒絶もない。
ただ、全てを見ている目だった。
アデルも、目を逸らさなかった。
言葉は交わさない。
頷きも、会釈もない。
(……ルイ…)
すれ違う瞬間、ルイの歩みは一切乱れなかった。
彼は振り返らず、そのまま廊下の奥へと消えていく。
リセラが、思わず小さく息を吸った。
「……今の……」
「ええ……」
アデルは、短く答えた。
ロイクは一瞬だけルイの背中を見送り、すぐに視線を前へ戻す。クロードも何も言わなかった。
法廷の扉が、すぐそこにある。
重い扉の前で、アデルは立ち止まった。
深呼吸はしない。拳も握らない。
ただ、静かに立つ。
ここから先は、感情ではなく、事実の時間だ。
裁判所の鐘が、低く鳴り響いた。
扉が開かれ、アデルは、一歩、前へ踏み出した。
アデルは、まだ薄暗い部屋の中で、すでに身支度を終えていた。
リセラが起き出すよりも、ずっと早い時間だった。
「おはようございます、お嬢様。もう起きてたんだべか。……あんまり寝られなかっただか?」
衝立の陰から顔を覗かせたリセラは、まだ寝巻姿のままだった。
少し乱れた髪を押さえながら、心配そうに目を細める。
一方、アデルはすでに外出着に着替えていた。落ち着いた色合いのグレーのワンピース。
髪もきちんとまとめられ、余計な飾りは何もない。
「おはよう、リセラ。少し早く目が覚めただけよ。ちゃんと眠れたわ」
穏やかな声だった。
無理をしている様子はない。
「それなら、よかっただ……。すんません、すぐ支度しますだ」
「いいのよ。急がなくて。まだ時間は早いわ」
「いんや。こういう日は、ちゃんと食べないと体がもたないべさ。朝の市場で、少し買い足してきます」
そう言って、慌てて身なりを整えたリセラは、外套を手に取り、扉へ向かった。
そのときだった。
控えめなノックの音が、室内に響いた。
「私だ」
扉の向こうから聞こえた声に、リセラが一瞬だけ動きを止める。
「……メガネ先生?」
そっと扉を開けると、そこに立っていたのはクロードだった。
まだ朝の冷気をまとった外套姿で、手には紙袋を提げている。クロードは軽く会釈し、紙袋を差し出した。
「朝早くにすまない。君たち、朝食はまだだろう?」
アデルも扉の近くへ歩み寄った。
「先生……わざわざ、これを?」
「散歩がてら、パン屋に寄っただけだ」
紙袋の中には、焼きたての香りを残したパンがいくつも入っていた。
素朴なものから甘いものまで、選び方に迷いがない。
「ありがとうございます。先生は、もう召し上がりましたか?よろしければ、ご一緒に…コーヒーを淹れます」
「いや、私は店で済ませてきた。君たちで食べなさい」
リセラが、ほっとしたように息を吐く。
「助かりますだ。ちょうど、買いに出ようとしてたところだったんだぁ」
「それなら良かった」
クロードは一拍置いて、静かに言葉を添えた。
「……今日は、大事な日だからな」
アデルは、まっすぐに頷いた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます。気持ちは落ち着いています。先生、今日はよろしくお願いいたします」
「出発は十時だ。それまで、まだ時間は十分にある。ゆっくり過ごしなさい」
それだけ言い残し、クロードは廊下へと下がった。
扉が閉まると、部屋には再び朝の静けさが戻る。
リセラは紙袋を抱えながら、ぽつりと呟いた。
「……みんな、気にかけてくれてるんだなぁ」
「ええ」
アデルは小さく微笑んだ。
胸の奥にある緊張は、確かに消えてはいない。
けれど、その重みを一人で抱え込む必要は、もうなかった。
静かに、裁判の朝が動き出していた。
*
裁判所へ向かう馬車の中は、静かだった。
車輪が石畳を刻む音だけが、一定のリズムで響いている。窓の外では、朝の街がゆっくりと流れていった。
アデルは背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねて座っていた。
視線は正面に向けたまま、何かを考えている様子はない。
向かいに座るリセラは、何度か口を開きかけては、結局何も言わずに閉じている。
ロイクは御者の横に立ち、外の様子を警戒するように見渡していた。
クロードは書類鞄を膝に置き、内容を確認するでもなく、ただ静かに目を伏せている。
誰もが、それぞれの思考の中にいた。
不安はあった。
恐れも、迷いも、確かにある。
だが、アデルはそれらを言葉にしなかった。
この馬車の中で吐き出せば、覚悟が揺らぐ気がしていたからだ。
(大丈夫)
決断は、もう済んでいる。
馬車が減速し、やがて止まる。
御者が扉を開けた。
「到着しました」
アデルは静かに立ち上がり、外套を整える。
朝の空気が、思ったよりも冷たく感じられた。
裁判所の建物は、重く、揺るがない佇まいでそこにあった。これから起こることを、すでに知っているかのように。
*
法廷前の廊下は、思いのほか広く、静かだった。
高い天井。
淡い石の壁。
足音が、必要以上に響く。
アデルたちは、案内された待機場所へ向かって歩いていた。
その途中――。
向かいの廊下から、傍聴する一団が現れる。
先頭に立っていたのは、ルイだった。
黒を基調とした装い。
背筋を伸ばし、無駄のない歩き方。
表情には、何の感情も浮かんでいない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、視線が重なった。
ルイの目は、静かだった。
驚きも、動揺も、拒絶もない。
ただ、全てを見ている目だった。
アデルも、目を逸らさなかった。
言葉は交わさない。
頷きも、会釈もない。
(……ルイ…)
すれ違う瞬間、ルイの歩みは一切乱れなかった。
彼は振り返らず、そのまま廊下の奥へと消えていく。
リセラが、思わず小さく息を吸った。
「……今の……」
「ええ……」
アデルは、短く答えた。
ロイクは一瞬だけルイの背中を見送り、すぐに視線を前へ戻す。クロードも何も言わなかった。
法廷の扉が、すぐそこにある。
重い扉の前で、アデルは立ち止まった。
深呼吸はしない。拳も握らない。
ただ、静かに立つ。
ここから先は、感情ではなく、事実の時間だ。
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扉が開かれ、アデルは、一歩、前へ踏み出した。
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