奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 法廷は、張りつめた静けさに包まれていた。

 高い天井。
 淡い光を反射する石壁。
 整然と並ぶ席の一つ一つが、すでに役割を与えられているかのようだった。

 その空間に、私的な感情の入り込む余地はない。

 原告席に、アデルは座っていた。
姿勢は揺るがず、指先まで整えられている。
 正面を見据えるその眼差しには、緊張よりも覚悟が宿っていた。

 眠っている間に奪われたものを、取り戻すためにここにいる。その事実だけが、彼女を支えていた。

 隣にはクロードが立つ。
 手にした書類は武器のように整えられ、視線は裁判官へまっすぐに据えられている。
 その表情に私情はなく、ただ法と事実のみを拠り所にする者の冷徹な静けさがあった。

 一方、被告席。

 モーリスは椅子に深く腰を沈め、正面を睨むように見据えていた。  

 表情は強張り、奥歯を噛みしめるたびに顎の筋が浮き出る。  
 膝の上に置いた指先は落ち着きなく動き、無意識に布地をつまんでいる。

 落ち着いているように装ってはいるが、その全身から滲むのは余裕ではなく焦りだった。

 その少し後方、傍聴席の端にルイは座っていた。

 背もたれに軽く身を預け、足を組み、法廷全体を静かに見渡している。  

 視線を泳がせることも、誰かを探すこともない。  
 ただ、起きていることを一つずつ観察するように眺めていた。

 その横顔には緊張も苛立ちも浮かばず、場の空気から一歩引いた静かな冷静さがあった。  
 同じ場にいながら、背負っている温度がまるで違っていた。
 

 やがて裁判官が入廷し、全員が立ち上がる。

「着席してください」

 淡々とした声が響く。
 それだけで、この場が私的な争いではなく、法の場であることが明確になった。

「本件は、原告――ドルン男爵令嬢アデルによる、財産不正管理および不正名義変更に関する訴訟である」

 正式な肩書きが告げられた瞬間、空気がわずかに引き締まる。
 モーリスの肩が、ほんの一瞬だけ強張った。

「まず、原告側より請求の趣旨を述べてください」

 クロードが立ち上がる。

「本件は、感情を争う裁判ではありません」

 静かな声だった。
 だが、その言葉は法廷の隅々まで行き渡った。

「原告は、昏睡状態にあった期間中、本人の意思確認なく行われた財産管理および名義変更について、無効確認と原状回復を求めます」

 一語一句、迷いがない。

「また、その過程において提出された郵送委任状、ならびに一部証言に、重大な不整合が存在することを立証いたします」

 傍聴席に、わずかなざわめきが走る。

 裁判官は短く頷いた。

「被告側、認否を」

 モーリスの弁護士が立ち上がり、慎重に言葉を選びながら口を開く。

「被告は、不正の意図を否認します。当時は混乱した状況下にあり、家族の利益を考えた結果の行動でした」

 その説明を、ルイは黙って聞いていた。

 視線だけが、被告席から原告席へと、ゆっくりと移る。

 アデルは俯かなかった。

 被害者であることを盾にも、逃げ道にもしていない。
 ただ、原告として、ここに立っている。

 裁判官が告げる。

「では、証拠の提出に移ります」

 クロードが、一通の書類を差し出した。

「まず、銀行記録です。被告が主張する“本人同意”を裏付ける来店記録は存在しません」

 法廷の空気が、確実に変わった。

 モーリスの指が、ぴくりと動く。
 傍聴席のルイは、その微細な変化を見逃さなかった。

 ざわめきが、先ほどよりも明確になる。

「一時的な管理であった、との主張は想定しています」

 クロードは続ける。

「しかし、管理とは、所有権の侵害を正当化する理由にはなりません」

 視線を落とさず、淡々と告げる。

「本件で争うのは、善意か悪意かではありません。法に基づく正当性の有無です」

 その言葉が、重く法廷に落ちた。

 アデルは、静かにそれを聞いていた。
 胸の奥で小さく揺れるものを感じながらも、表情は崩さない。

 ここでは、涙も怒りも必要ない。
 必要なのは、事実だけだった。

 裁判官の木槌が、静かに鳴る。

「本件は、慎重な審理を要する。次回期日までに、追加資料を提出してください」

 開廷初日は、それだけで終わった。

 傍聴席のルイは、そのまま席に留まっていた。
 視線は法廷の中央に向けられ、クロードの声を一言も逃していない。

(……来たな)

 冒頭陳述を聞いた瞬間、確信に近い感覚が胸に落ちた。

 これは形式的な裁判では終わらない。
 調停でも、和解でもない。

 一つずつ切り分け、逃げ場を塞ぐ。
 そのやり方だ。

 原告席のアデルに、ちらりと目を向ける。
 彼女は、こちらを見ない。

 だが、その姿勢だけで分かる。
 もう、引き返す気はない。

(……遅かったな)

 誰に向けた言葉でもなかった。

 被告席へ視線を移す。
 モーリスの横顔が見える。

 硬直した表情。
 強張った肩。

 自覚していないわけではない。
 だが、理解していない。

 自分が、どこで一線を越えたのかを。

 クロードの声が、再び法廷に響く。

「証拠は、順を追って提出します。銀行記録、委任状、関係者の証言。そのいずれもが、偶然では説明できません」

 ルイは、ゆっくりと目を伏せた。

(もう、戻れない)

 誰にとっても、だ。

 アデルは守られている。
 法に、事実に、そして自分自身の覚悟に。

 そして、モーリスは――。

 ルイは、わずかに息を吐いた。
 表情は、最後まで変わらなかった。

 だが、この裁判が終わる頃には、すべてが表に出る。

 それだけは、確信していた。












 
 
 
 

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