奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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  裁判から戻ったモーリスは、明らかに機嫌が悪かった。

「忌々しい……あの小娘め……!」

 外套を肩から乱暴に外し、執事が差し出した手を払いのける。

「旦那様、本日の結果について――」
「聞きたくない!」

 鋭い声が飛んだ。

「弁護士は何の役にも立っていない!あれでは私が責められているようなものだ!」

 顔は赤く、目は血走り、こめかみがひくひくと動いている。

「しばらく一人にしてくれ。誰も取り次ぐな。急ぎの用件はルイに回せ!」

 執事は頭を下げるしかなかった。

 重い足音が廊下に響き、モーリスはそのまま執務室へ消えた。
 扉が強く閉まる音が、屋敷の空気を震わせる。

 その様子を、離れた柱の陰からリゼットは見ていた。

 胸元で両手を組み、かすかに唇を噛む。

(……お父様…思ったより、追い詰められているわ…)

 浮かべる表情は、心配そうな娘のものだった。

「お父様……」

 小さく呟き、すぐに身を翻す。
 向かう先は決まっていた。





 ルイの執務室の前で、リゼットは一度深呼吸をした。それから、控えめに扉を叩く。

「ルイ様……少し、よろしいでしょうか」

「ああ、リゼット。入っておいで」

 柔らかく穏やかな声だった。

 中に入ると、ルイは侍従に外套を預けたところだった。動きは落ち着いており、裁判帰りの疲れを感じさせない。

 彼は視線だけを向ける。

「急に、どうしたんだい?」

「…お忙しいところ、ごめんなさい」

 リゼットは遠慮がちにソファへ腰掛ける。

「裁判から戻られてから、お父様がとても荒れていらして……」
「……そうか」
「裁判で、何かあったのでしょうか」
「特別なことはないよ。想定していた流れだ」

 あまりに静かな返答に、リゼットは一瞬だけ戸惑う。

「想定内、ですか……?」
「ああ、リゼットが気にすることじゃない」

 やわらかな声だが、線を引くような響きがある。

 リゼットは視線を落とす。

「伯爵家は……大丈夫なのでしょうか」
「……心配する気持ちはわかるけど…すぐに何かが起きるわけじゃない」

 ルイは立ち上がり、ゆっくりと彼女の隣へ来る。

「法廷は感情では動かない。証拠で動くからね」

 穏やかな説明だった。

「だから、怯える必要はないよ」

「もし……負けてしまったら……?」

 リゼットがか細い声で呟く。
 ルイは微笑む。

「裁判は始まったばかりだ。悪い未来ばかり想像すると、邸の空気まで沈む」

 そして自然な動作で、彼女の手を取る。

「ああ、君には笑顔の方が似合う。私の妻には、笑っていてほしい」

「ルイ様……」

 傍から見れば、申し分のない夫婦のやり取りだった。リゼットは小さく頷き、控えめに微笑む。

「……ルイ様がそうおっしゃるなら」

 儚げな微笑みを浮かべてから、そっと言葉を続ける。

「本当は、もう少しお話ししていたいのですが……」

「私もだよ」

 ルイは穏やかに返す。

「だが、午前中は裁判で時間を取られたから、執務が滞っていてね。義父上の分まで処理しないといけない」

 軽く肩をすくめる仕草は自然で、愚痴というほどでもない現実の共有だった。

 リゼットは申し訳なさそうに視線を落とす。

「……お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」

 ルイはやわらかく首を振る。

「君が不安になるのは当然だからね」

 そのまま自然な動作で、彼女をそっと抱き寄せた。リゼットも抵抗せず、静かに身を預ける。

 温度だけを分け合うような、穏やかな抱擁だった。

 ――その瞬間。

 ほんの一瞬だけ、リゼットの瞳の奥が光った。

 だがそれは、次の瞬間には消えていた。

 身体が離れる頃には、いつもの儚げな表情に戻っている。

「……ルイ様とお話できて、安心しました」

 やわらかな声だった。
 ルイは微笑みを返すだけで、それ以上は何も言わない。

 やがてリゼットは静かに一礼し、音を立てないように退室した。





 扉が閉まってから、しばらくの間、ルイは机に向かったまま動かなかった。

 ペン先だけが紙の上を滑る。けれど、文字はほとんど進んでいない。

「……もういい」

 ぽつりと呟く。その声は、誰かに向けたものだった。
 次の瞬間、室内の空気がわずかに揺れ、カーテンがごく微かに動いた。

「最初から気づいていたくせに」

 低い声が部屋の奥から返る。
 いつの間にか、壁際に一人の男が立っていた。

「ノクス……」

 ルイが小さく名を呼ぶ。

 ノクスは、ぱっと見ではルイと見分けがつかなかった。

 背丈も体格も近く、立ち姿までよく似ている。声もまた同じ質で、抑えれば区別がつきにくい。

 ただ、近づけば違いがはっきりする。
ノクスの瞳は光を抑え、感情を奥に沈めたまま相手を射抜く。

 柔らかく整ったルイの美貌とは対照的に、その眼差しには夜の刃のような鋭さがあった。

 髪はルイよりわずかに色味が落ち、艶も控えめで、光よりも影をまとっているように見える。

 何より、気配の置き方が違う。そこに立っていても目に残らず、気づいた時にはすでに近い。

「気づいてはいたが、確証が欲しかった」

 ルイは視線を上げないまま答えた。

「で?」

 短い問いに、ノクスは肩をすくめる。

「まず一つ。モーリス伯爵は書類を燃やした」

 ペン先が止まる。

「昨夜。暖炉でな。控えの一部と、日付が噛み合わない写しだ」

「……やはりな」

 驚きはない。ノクスは淡々と続ける。

「それだけじゃない。土地絡みの仲介人にも接触してる。証言を“整える”つもりらしい」

 ルイは、ゆっくりと椅子に背を預けた。

「自分から泥沼に入っていくとはな」

「追い詰められた人間は、たいていそうだ」

 ノクスは言い切る。

「面白いのはここからだ。モーリスは、自分が主導したと思っていない」

 ルイの視線が、初めてノクスに向く。

「……では、どう思ってる?」

「“を受けた”と思っている」

か……」

は、うまく隠れている」

 ノクスが小さく笑う。

「だが、かなり近いところにいる。お前も、そこまでは読めているだろう?」

 ルイは目を細めるだけで、肯定も否定もしない。

「ああ。狡猾な人間ヤツだ」

 二人の間に、短い沈黙が落ちた。
 先に口を開いたのはルイだった。

「続けろ。ただし慎重に。今はここまでだ。深追いすれば警戒される」

「わかってるさ。ヘマはしない」

 ノクスは軽く肩をすくめるような調子で返す。
 ルイは視線を向けないまま言った。

「……人間らしくなったな」

「どういう意味だ?」

「お前と初めて会った時を思い出していた」

 一瞬だけ、ノクスの目が細まる。
 ルイは静かに笑った。

「酒場の裏で倒れていた頃は、手負いの獣みたいだった」

 空気がわずかに張りつめる。
 ノクスの指先が、かすかに動いた。

「……獣扱いか。それを拾ってやったって言いたいのか?」

「拾った覚えはないな」

「俺も拾われた覚えはない」

 ノクスは小さく笑う。

「相変わらずだな」

「お前もな」

 次の瞬間、ノクスの気配が消えた。
 本当に、最初からいなかったかのように。

 ルイは窓の外へ視線を向けたまま、低く呟く。

「……あの夜、選んだのはお前だ」

 返事はない。
 それでも、どこかで聞いていると分かっていた。

 月明かりだけが、中庭を静かに照らしている。

 ルイは机に向き直り、指先で軽く天板を叩いた。

「……なるほど」

 誰に聞かせるでもない声だった。

 駒は、ほぼ出揃った。
 あとは、誰が最初に崩れるかだけだった。

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