奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 第二回口頭弁論の日。

 前回よりも、法廷の空気は重かった。

 傍聴席の数が増えている。
 貴族社会は、噂の広がりが早い。

 原告席に座るアデルは、今日も背筋を伸ばしていた。深い紺色のワンピースに身を包み、指先は静かに重ねられている。

 もう震えはない。
 視線は、まっすぐ前を向いていた。

 その隣に立つクロードは、数通の資料を整えている。

 一方、被告席。

 モーリスは前回よりも明らかに顔色が悪い。目の下には薄い隈が浮かび、落ち着きなく指を組み替えている。

 弁護士が何か囁くが、上の空だった。

 そして傍聴席。
 ルイは前回と同じ位置に座っている。

 姿勢も、表情も変わらない。
 ただ、法廷の流れを読む目だけが、わずかに鋭い。

 裁判官が入廷する。

「原告側、追加証拠の提出があると聞いています」

 クロードが立ち上がる。

「はい。本日は二点、提出いたします」

 一通目の書類を差し出す。

「銀行側の内部照会記録です」

 ざわめきが走る。

「委任状が提出された当日、被告本人は来店していない。
また、委任者であるエドモン伯爵への直接確認が行われていないことが明記されています」

 被告側弁護士が立ち上がる。

「異議あり。銀行側の事務処理の不備を、被告の責任とするのは早計です」

 クロードは静かに返す。

「事務不備であれば、来店記録が存在しない理由にはなりません」

 裁判官が頷く。

「続けてください」

「二点目。被告側と銀行担当者との通信履歴です」

 新たな資料が提出される。

「ここには、名義変更を急がせる文面が残っています。
 通常の手続きを省略するよう圧をかけた記録です」

 弁護士が食い下がる。

「それは業務上の催促に過ぎません」

「ええ。しかしその“催促”は、委任者の意思確認が取れていない状態で行われています」

 静寂が落ちる。
 クロードは続ける。

「さらに、銀行職員の供述書を提出いたします。
『被告が直接来店し、強い口調で即時処理を求めた』とあります」

 モーリスの喉が小さく鳴る。
 弁護士の表情がわずかに強張る。

「供述は一方的なものです。証人尋問を経なければ信頼性は限定的です」

「もちろん、次回で明らかになります」

 クロードの声は淡々としていた。

「これらは偶然では説明できません。一連の行為には明確な意思が存在します」

 裁判官がモーリスを見る。

「被告、反論はありますか」

 弁護士が代わりに立つ。

「被告は当時、家族を守るため焦っていたと主張しています。悪意はありません」

 その言葉は弱い。
 モーリスは口を開きかけて、閉じた。
 その様子を、アデルはただ静かに見ていた。

 裁判官の声が響く。

「本件は重要審理に移行します。次回、銀行職員の証人尋問を行います」

 木槌が鳴る。
 風向きは、明らかに変わっていた。




 裁判所からの帰りの馬車内で、モーリスの弁護士・ヴィクトルが口を開く。

「銀行記録と職員供述が揃った以上、計画性の否定は難しくなりました」

 モーリスは歯を食いしばった。

「……なら、どうする」

「証言の“補強”が必要です」

「……銀行側の証言を揺らせと?」

 弁護士は否定しない。
 沈黙が肯定だった。

「当時の銀行担当者に接触しろ。慎重に対応するんだ。」

「……かしこまりました」

 外の景色に視線を向けながら、モーリスの拳は固く握りしめらていた。


***

 夜は更けていた。
 宿の廊下は静まり返り、外から聞こえるのは遠い馬車の軋みと風の音だけだった。

 王都中央銀行の支店長、グラシアン・ハウゼンは、部屋の中を行ったり来たりしながら、何度も机の上の封筒へ視線を落としていた。

 封筒は上質な紙で、宛名は万年筆の端正な筆跡だった。差出人も明記されている。

「被告代理人 ヴィクトル・ラザール法律事務所」

 正式な名義の手紙だった。
 封蝋こそないが、王都の法務関係者が使う独特の簡潔さがある。

 こういう書式の手紙が届くとき、内容は「お願い」でも「連絡」でもない。こちらの発言の方向を、先に決めに来る。

 グラシアンは封を切り、文面を追った。

【証人尋問に備え、当時の状況をより正確に想起していただきたく存じます。

なお、当時の被告は家内の混乱の中で判断を迫られており、通常の意思決定とは異なる状態だった可能性があります。

証言に際しては、その点も含め、貴職の認識を整理のうえ、ご協力いただければ幸甚です。】

 言葉は丁寧だったが、視線が止まった箇所は一つだった。

――混乱の中で判断を迫られていた可能性。

 グラシアンは紙を置き、深く息を吐いた。自分が言うべき言葉を、先に相手が用意している。

(「混乱していた」と言え、ということか)

 あの日のことは、忘れようがない。
 昏睡状態の令嬢の名義に関する手続きだった。
 通常なら、支店長が自分の印鑑を押す前に、直系尊属の確認や本店照会を挟む。そうしなかったのは、自分の判断だった。

 ただ、判断に至った理由は、帳簿の理屈では片づかない。

 モーリスは落ち着いていた。
 声は荒れていなかったが、言葉の強さが常識を越えていた。
 疑問を差し挟む余地を与えずに、手続きを「今すぐ」進めろと迫った。立場の圧が、手の甲に触れるように伝わってきた。

 冷静に追い返すべきだった。
 だが、支店長という肩書きは、貴族の怒りを真正面から受け止める盾にはならない。
 部下を巻き込むことも怖かった。
 結局、自分は「最終確認」の名のもとに、責任を背負う形で押し通してしまった。

 グラシアンは額に手を当てる。

 明日、証言台に立つ。
 そこで一度でも言葉を誤れば、銀行内部の不備として切り捨てられる可能性がある。
 逆に、被告側の思惑に沿えば、今度は法廷で矛盾を突かれる。

 さらに、書簡の末尾には、控えめに釘が刺してあった。

【本件は世間の注目が高く、銀行の管理体制についても議論が及ぶ可能性があります。貴職のご経歴に傷がつかぬよう、慎重にご対応ください。】

 脅しとは書いていない。だが、意味は十分だった。

――銀行が責められてもいいのか。
――あなたの椅子が揺れてもいいのか。

 グラシアンが椅子に腰を下ろした、そのときだった。

 窓の外で、微かに布が擦れるような音がした。足音ではない。人が立ち止まった気配だけが、短く残る。

 思わず呼吸を止める。

 数秒後、気配は遠ざかった。
 誰かが覗いていたのか、それとも通りすがっただけなのか、確かめる勇気は出なかった。だが胸の内に残った感覚だけは、はっきりしている。

(……見られている)

 この手紙は「相談」ではない。
 まして「協力依頼」でもない。

 明日、どんな言葉を選ぶかを、こちらが迷う前に決めさせるためのものだ。

 グラシアンは机の上の手紙を、ゆっくりと折り直した。
 破り捨てることもできたが、それはできなかった。破っても状況は変わらない。むしろ「届いた」という事実だけが残る。

 彼は灯りを落とし、ベッドに腰を下ろした。
 目を閉じても、明日の法廷と、あの男の低い声が頭から離れない。

「今すぐ処理しろ」

 眠れない夜が、静かに続いていった。



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