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モントレー伯爵邸。
モーリスの執務室から、抑えきれない怒声が廊下まで響いていた。
「どういうことだ!あの男は、なぜあんな証言をした!」
机を叩く鈍い音が、扉越しに伝わる。
「あなた……裁判に負けてしまうの? この伯爵家はどうなるの?土地の投機で、大きなお金が入るって言っていたじゃない!」
ヴァレリアの声は、すでに涙を含んでいた。焦りと恐怖がそのまま言葉になっている。
「黙れ!何も知らない者が口を挟むな!」
モーリスの怒声が、室内に跳ね返る。
怒りは収まらない。
「銀行まで引きずり出されて……次は何を出されるかわからん!」
「ああ……そんな……ドレスも宝石も新調したばかりなのに……」
「うるさい! 私は家を守ろうとしただけだ!」
言葉はもはや理屈になっていない。
ただ、追い詰められた男の叫びだった。
取り乱した声が、廊下まで漏れ出ている。
その少し離れた場所に、リゼットは立っていた。青ざめた顔で扉を見つめ、小さく声をかける。
「失礼いたします。お父様……お母様……」
返事はない。
リゼットは一度だけ目を閉じ、深く息を吸ってから、扉を静かに開けた。
「今は、お二人とも冷静ではありませんわ」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「このままでは、邸中が不安になります。どうか、少し落ち着いてください」
ヴァレリアは振り向くと、リゼットに縋りついた。
「リゼット……どうしましょう……」
「お母様、まだ裁判は終わっておりませんわ」
優しい声音だった。
娘として、新妻として、家族を気遣う言葉に聞こえる。
だが、その瞳の奥には、ほんの一瞬だけ、冷たい光がよぎっていた。
それはすぐに消え、儚げな表情に戻る。
その一部始終を、廊下の角から見ていた男がいる。
ルイだった。
執務室の扉の前までは来たが、入らない。
中から漏れる声を、表情を変えずに聞いていた。怒号も、泣き声も、縋る声も。すべてを、そのまま受け止めている。
(……完全に崩れている)
そう判断したあと、ルイはわずかに視線を落とした。
感情は浮かばない。
ただ、状況だけを見ている目だった。
踵を返し、自室へと戻っていく。
その背中は、ひどく静かだった。
*
ルイの執務室。
扉を閉めた瞬間、外の喧騒が嘘のように途切れた。静寂が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
ルイは机の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……いるだろう」
低く落とした声が、静まり返った室内に溶ける。
次の瞬間、カーテンがごくわずかに揺れた。風ではない。
「ああ」
影の奥から、ノクスの声が返る。
姿は見えない。だが、確かにそこにいる気配だけがある。
「黒幕は、モーリスを切るだろうな」
ルイは机に指先を置いたまま、視線を上げない。
「ああ。血も涙もないやつだからな」
ノクスの返答は淡々としている。
「ヤツが動く。裁判が終わったら、確実に」
「ルイはどうするんだ?」
問いかけに、ルイの口元がわずかに緩んだ。
「……お前は、わかっているだろう?」
「まぁな」
短い間のあと、ノクスが続ける。
「……少しだけ、残念だな」
「情でも湧いたか?」
ルイの声は、わずかに皮肉を含んでいた。
「まさか。そこまでの思い入れはないさ」
それでも、どこか含みのある言い方だった。室内に短い沈黙が落ちる。
「とりあえず、裁判が終わってからだな」
「ああ。やつらの動きを見ておく」
その言葉を最後に、気配が消えた。
本当に、最初から誰もいなかったかのように。
ルイはゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
外では、夜の気配が邸を包んでいる。
しばらくその景色を見つめたあと、視線を落とし、自分の手のひらを見た。
細く、白い指。
何も持っていないようで、すべてを握れる手。
ゆっくりと、指を折り曲げる。
強く、強く、握りしめた。
(……ようやく)
長く待ち続けた時が、動き出そうとしていた。
***
ベルヌー法律事務所。
応接卓の上に、簡単な軽食が並んでいた。焼きたてのパン、温かなスープ、切り分けられた果物。リセラが手早く整えたものだ。
事務所の空気は、これまでとは明らかに違っていた。
重苦しさはない。
代わりに、確かな手応えがある。
「法廷の様子、聞きましたよ」
マティアスが顔をほころばせながら言う。
「もう、向こうは反論の余地がないとか」
ロイクは椅子に腰を下ろし、パンを手に取りながら低く応じた。
「そうだな。証人二人で、あそこまで崩れるとは思わなかった」
クロードは書類の束を整え、端を揃えながら淡々と続ける。
「まだ終わってはいない。だが、被告側は“攻める材料”を失っている。ここからは守るしかない」
「守るって顔、してなかったべよ」
リセラがスープを配りながら口を挟む。
「ありゃあ、完全に崩れてた顔だ。見てるこっちが心配になるくらいに」
ロイクが小さく笑う。
「リセラは、法廷でも遠慮がないな」
「遠慮してたら、勝てるものも勝てなくなるべさ」
そう言って、アデルの前に皿をそっと置く。
「お嬢様、食べねぇとだめだ。力つけねぇと」
「ありがとう、リセラ」
アデルはスプーンを手に取り、静かに口に運ぶ。温かさが、胸の奥にゆっくりと広がっていく。
「お嬢様、何の問題もないべさ。勝てるべ」
リセラはまっすぐな目で言った。
アデルは、小さく微笑む。
「ええ……きっと、取り戻せるわ」
その声に迷いはなかった。
ロイクが頷き、クロードも静かに視線を上げる。
「次で、流れは決まる」
断定ではないが、確信に近い響きだった。クラリスも小さく頷く。
「裁判官の印象も、被告側にはかなり厳しくなっているわ」
「ああ。あいつらは、自分で墓穴を掘ったな」
ロイクが呟く。
リセラが、少し言いにくそうにロイクへ視線を向けた。
「ロイク様は……その、ご実家のこと、大丈夫だべか」
「俺は十五で家を出た。もう関係ない」
「ロイク……」
アデルが気遣うように視線を向けると、ロイクは静かに笑った。
「アデルの敵は、俺の敵だ。遠慮なくやってくれ」
その言葉に、場の空気が和らぐ。
「法廷で、遠慮なく進めるさ」
クロードが淡々と応じる。
リセラはふっと笑い、アデルは皆の顔を順に見た。
クロード。ロイク。リセラ。マティアス。クラリス。
自分の味方でいてくれる人たち。
「私、思っていたより怖くないんです」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
「怖くない?」
ロイクが聞き返す。
「ええ。法廷に立つことも、証言を聞くことも。一人だったら、きっとこんなふうには思えなかった」
リセラの目が、また潤む。
「お嬢様……」
「みんながいるから、前を向けているの」
アデルは穏やかに言った。
クロードは何も言わない。ただ、わずかに視線を落とし、湯気の立つカップに手を添えた。
この戦いは、終盤に入っている。
全員が、それを理解していた。
だが――
誰よりも静かに、別の終わりを待っている者がいることを、まだ誰も知らなかった。
モーリスの執務室から、抑えきれない怒声が廊下まで響いていた。
「どういうことだ!あの男は、なぜあんな証言をした!」
机を叩く鈍い音が、扉越しに伝わる。
「あなた……裁判に負けてしまうの? この伯爵家はどうなるの?土地の投機で、大きなお金が入るって言っていたじゃない!」
ヴァレリアの声は、すでに涙を含んでいた。焦りと恐怖がそのまま言葉になっている。
「黙れ!何も知らない者が口を挟むな!」
モーリスの怒声が、室内に跳ね返る。
怒りは収まらない。
「銀行まで引きずり出されて……次は何を出されるかわからん!」
「ああ……そんな……ドレスも宝石も新調したばかりなのに……」
「うるさい! 私は家を守ろうとしただけだ!」
言葉はもはや理屈になっていない。
ただ、追い詰められた男の叫びだった。
取り乱した声が、廊下まで漏れ出ている。
その少し離れた場所に、リゼットは立っていた。青ざめた顔で扉を見つめ、小さく声をかける。
「失礼いたします。お父様……お母様……」
返事はない。
リゼットは一度だけ目を閉じ、深く息を吸ってから、扉を静かに開けた。
「今は、お二人とも冷静ではありませんわ」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「このままでは、邸中が不安になります。どうか、少し落ち着いてください」
ヴァレリアは振り向くと、リゼットに縋りついた。
「リゼット……どうしましょう……」
「お母様、まだ裁判は終わっておりませんわ」
優しい声音だった。
娘として、新妻として、家族を気遣う言葉に聞こえる。
だが、その瞳の奥には、ほんの一瞬だけ、冷たい光がよぎっていた。
それはすぐに消え、儚げな表情に戻る。
その一部始終を、廊下の角から見ていた男がいる。
ルイだった。
執務室の扉の前までは来たが、入らない。
中から漏れる声を、表情を変えずに聞いていた。怒号も、泣き声も、縋る声も。すべてを、そのまま受け止めている。
(……完全に崩れている)
そう判断したあと、ルイはわずかに視線を落とした。
感情は浮かばない。
ただ、状況だけを見ている目だった。
踵を返し、自室へと戻っていく。
その背中は、ひどく静かだった。
*
ルイの執務室。
扉を閉めた瞬間、外の喧騒が嘘のように途切れた。静寂が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
ルイは机の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……いるだろう」
低く落とした声が、静まり返った室内に溶ける。
次の瞬間、カーテンがごくわずかに揺れた。風ではない。
「ああ」
影の奥から、ノクスの声が返る。
姿は見えない。だが、確かにそこにいる気配だけがある。
「黒幕は、モーリスを切るだろうな」
ルイは机に指先を置いたまま、視線を上げない。
「ああ。血も涙もないやつだからな」
ノクスの返答は淡々としている。
「ヤツが動く。裁判が終わったら、確実に」
「ルイはどうするんだ?」
問いかけに、ルイの口元がわずかに緩んだ。
「……お前は、わかっているだろう?」
「まぁな」
短い間のあと、ノクスが続ける。
「……少しだけ、残念だな」
「情でも湧いたか?」
ルイの声は、わずかに皮肉を含んでいた。
「まさか。そこまでの思い入れはないさ」
それでも、どこか含みのある言い方だった。室内に短い沈黙が落ちる。
「とりあえず、裁判が終わってからだな」
「ああ。やつらの動きを見ておく」
その言葉を最後に、気配が消えた。
本当に、最初から誰もいなかったかのように。
ルイはゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
外では、夜の気配が邸を包んでいる。
しばらくその景色を見つめたあと、視線を落とし、自分の手のひらを見た。
細く、白い指。
何も持っていないようで、すべてを握れる手。
ゆっくりと、指を折り曲げる。
強く、強く、握りしめた。
(……ようやく)
長く待ち続けた時が、動き出そうとしていた。
***
ベルヌー法律事務所。
応接卓の上に、簡単な軽食が並んでいた。焼きたてのパン、温かなスープ、切り分けられた果物。リセラが手早く整えたものだ。
事務所の空気は、これまでとは明らかに違っていた。
重苦しさはない。
代わりに、確かな手応えがある。
「法廷の様子、聞きましたよ」
マティアスが顔をほころばせながら言う。
「もう、向こうは反論の余地がないとか」
ロイクは椅子に腰を下ろし、パンを手に取りながら低く応じた。
「そうだな。証人二人で、あそこまで崩れるとは思わなかった」
クロードは書類の束を整え、端を揃えながら淡々と続ける。
「まだ終わってはいない。だが、被告側は“攻める材料”を失っている。ここからは守るしかない」
「守るって顔、してなかったべよ」
リセラがスープを配りながら口を挟む。
「ありゃあ、完全に崩れてた顔だ。見てるこっちが心配になるくらいに」
ロイクが小さく笑う。
「リセラは、法廷でも遠慮がないな」
「遠慮してたら、勝てるものも勝てなくなるべさ」
そう言って、アデルの前に皿をそっと置く。
「お嬢様、食べねぇとだめだ。力つけねぇと」
「ありがとう、リセラ」
アデルはスプーンを手に取り、静かに口に運ぶ。温かさが、胸の奥にゆっくりと広がっていく。
「お嬢様、何の問題もないべさ。勝てるべ」
リセラはまっすぐな目で言った。
アデルは、小さく微笑む。
「ええ……きっと、取り戻せるわ」
その声に迷いはなかった。
ロイクが頷き、クロードも静かに視線を上げる。
「次で、流れは決まる」
断定ではないが、確信に近い響きだった。クラリスも小さく頷く。
「裁判官の印象も、被告側にはかなり厳しくなっているわ」
「ああ。あいつらは、自分で墓穴を掘ったな」
ロイクが呟く。
リセラが、少し言いにくそうにロイクへ視線を向けた。
「ロイク様は……その、ご実家のこと、大丈夫だべか」
「俺は十五で家を出た。もう関係ない」
「ロイク……」
アデルが気遣うように視線を向けると、ロイクは静かに笑った。
「アデルの敵は、俺の敵だ。遠慮なくやってくれ」
その言葉に、場の空気が和らぐ。
「法廷で、遠慮なく進めるさ」
クロードが淡々と応じる。
リセラはふっと笑い、アデルは皆の顔を順に見た。
クロード。ロイク。リセラ。マティアス。クラリス。
自分の味方でいてくれる人たち。
「私、思っていたより怖くないんです」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
「怖くない?」
ロイクが聞き返す。
「ええ。法廷に立つことも、証言を聞くことも。一人だったら、きっとこんなふうには思えなかった」
リセラの目が、また潤む。
「お嬢様……」
「みんながいるから、前を向けているの」
アデルは穏やかに言った。
クロードは何も言わない。ただ、わずかに視線を落とし、湯気の立つカップに手を添えた。
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