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モントレー伯爵邸の夜は、異様なほど静まり返っていた。
リゼットの私室。
机の前に座った彼女は、書き終えた封書をゆっくりと折りたたむ。
赤い封蝋を落とす手つきに、ためらいはない。
(……お父様は、もう使えない)
その結論に、迷いはなかった。
今日の裁判で、はっきりした。
モーリスは追い詰められている。
焦りも、怒りも、恐怖も、すべて顔に出てしまっていた。
あれでは駒として役に立たない。
守るどころか、足を引っぱるだけだ。
思えば、父ほど扱いやすい人間はいなかった。
プライドが高く、短気で、視野が狭い。
自尊心をくすぐれば、いくらでも思い通りに動いた。
だが、愚かすぎるのは問題だった。
(愚かだと、必ずボロが出る)
(……切るしかない)
その決断を下せる自分に、リゼットはかすかな微笑みを浮かべた。
封書を机に置き、立ち上がる。
足音を立てず、廊下を進み、モーリスの執務室の前に立った。
「お父様。私です」
声色を整え、気遣わしげな響きを乗せる。
扉が開くのを待つあいだに、表情もすっかり作り替えた。
「リゼット……」
扉の向こうに現れたモーリスの顔色は、見るに堪えなかった。
目は落ち窪み、焦燥がそのまま表に出ている。
「ああ……リゼット……」
弱々しい声に、リゼットはすぐに駆け寄った。
父の手を両手で包み込む。
「お父様、もう無理なさらないで」
瞳を潤ませ、声を震わせる。
「裁判のことは、もうルイ様にお任せしましょう?」
モーリスが、ゆっくりと顔を上げる。
「ルイに……?」
「ええ。ルイ様は冷静ですし、法廷のことにもお詳しい。何より、伯爵家の婿ですもの」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「お父様は、しばらく領地で静養なさっては? お身体も、限界でしょう」
「……静養?」
「ええ。伯爵家を守るために動いてこられたのですから。今は、信頼できる方に任せて休むべきですわ」
その声音は、どこまでも優しかった。
だが、瞳の奥は静かに冷えている。
(表に出るのは、ルイでいい)
(矢面に立つのは、もうお父様ではない)
モーリスは、その優しさに縋るように頷いた。
「……そうだな……。伯爵家は、お前たち夫婦に任せた方が良いかもしれん」
リゼットは、穏やかに微笑んだ。
「ええ。お父様、安心なさって。すべて、うまくいきますわ」
その言葉に、何の根拠もないことを、彼女自身だけが知っている。
だが――
うまくいかせるつもりだった。
*
廊下の暗がりに、気配を溶かすように立つ影があった。
ノクスだった。
灯りの届かない壁際に身を寄せ、わずかに開いた扉の隙間から漏れる声を拾っている。
リゼットの柔らかな声音と、弱りきったモーリスの返答。
表情は動かない。
だが、耳は一言も逃さない。
(動いたな)
迷いのない判断だった。
父を気遣う娘の顔。
その裏で、駒を切る決断を平然と下せる女。
ノクスは静かに踵を返す。
足音も立てず、影のまま廊下を滑るように進み、ルイの執務室へ入った。
「……珍しいな。呼ぶ前に現れるとは」
執務机に腰掛け、書類に目を落としていたルイが、視線も向けずに声を掛ける。
カーテンがわずかに揺れ、空気が変わる。
ノクスが姿を現した。
「ああ。ヤツは、いよいよモーリスを切る」
ルイの指先が、紙の上で止まる。
「やはりな」
口元に、ごくかすかな笑みが浮かぶ。
「当主を私に譲らせ、モーリスを領地へ退かせるつもりだろうな」
「……領地に、無事に着けるかな?」
ノクスの低い声に、わずかな含みがあった。
「………」
短い沈黙が落ちる。
ルイは答えない。
「領地に辿り着かせてやっても良いけど」
肩をすくめて、ノクスは軽い口調で言う。
ルイは静かに首を振る。
「余計なことはするな。ヤツに気づかれてしまう」
「…ああ、そうだな。静かに偵察しておくさ」
その言葉だけを残し、ノクスの気配は消えた。本当に、最初からいなかったかのように。
ルイは一人、手元に視線を落とす。
自分の手のひらを見つめ、ゆっくりと握りしめた。
(ようやく……)
盤面は整いつつある。
あとは、誰が最初に落ちるかだけだった。
***
廊下の奥、灯りの届かない暗がり。
ノクスは、壁に背を預けたまま、しばらく動かなかった。
モーリス達のやり取りは、すべて聞いている。
扉越しに漏れる声。
震えた父の声と、静かな娘の声。
優しい声音。
整えられた言葉。
そして、その奥に潜む冷えた意図。
(……早いな)
モーリスが崩れるのを待つと思っていた。
だが、あの女は違った。
崩れる前に、切る。
しかも、笑顔で。
ノクスは、ゆっくりと視線を廊下の奥へ向けた。
夜の邸は静まり返っている。
だが、静かすぎた。
使用人の動きが、どこかぎこちない。
足音が、妙に少ない。
馬番の姿も見えない。
(空気が変わっているな)
嵐の前の静けさではない。
嵐を起こす前の、整えられた静寂だ。
ノクスは、わずかに口元を歪めた。
(……動く)
それは確信だった。
裁判が終わるのを、待つ気はない。
あの女は、もう次を見ている。
廊下の窓から外を見る。
夜の庭。
馬車置き場。
人の気配が、ない。
ほんの僅かな違和感。
だが、裏で生きてきたノクスには、それで十分だった。
(……領地まで、辿り着けないな)
踵を返す。
今夜、盤面が動き始めたことをノクスも確信していた。
リゼットの私室。
机の前に座った彼女は、書き終えた封書をゆっくりと折りたたむ。
赤い封蝋を落とす手つきに、ためらいはない。
(……お父様は、もう使えない)
その結論に、迷いはなかった。
今日の裁判で、はっきりした。
モーリスは追い詰められている。
焦りも、怒りも、恐怖も、すべて顔に出てしまっていた。
あれでは駒として役に立たない。
守るどころか、足を引っぱるだけだ。
思えば、父ほど扱いやすい人間はいなかった。
プライドが高く、短気で、視野が狭い。
自尊心をくすぐれば、いくらでも思い通りに動いた。
だが、愚かすぎるのは問題だった。
(愚かだと、必ずボロが出る)
(……切るしかない)
その決断を下せる自分に、リゼットはかすかな微笑みを浮かべた。
封書を机に置き、立ち上がる。
足音を立てず、廊下を進み、モーリスの執務室の前に立った。
「お父様。私です」
声色を整え、気遣わしげな響きを乗せる。
扉が開くのを待つあいだに、表情もすっかり作り替えた。
「リゼット……」
扉の向こうに現れたモーリスの顔色は、見るに堪えなかった。
目は落ち窪み、焦燥がそのまま表に出ている。
「ああ……リゼット……」
弱々しい声に、リゼットはすぐに駆け寄った。
父の手を両手で包み込む。
「お父様、もう無理なさらないで」
瞳を潤ませ、声を震わせる。
「裁判のことは、もうルイ様にお任せしましょう?」
モーリスが、ゆっくりと顔を上げる。
「ルイに……?」
「ええ。ルイ様は冷静ですし、法廷のことにもお詳しい。何より、伯爵家の婿ですもの」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「お父様は、しばらく領地で静養なさっては? お身体も、限界でしょう」
「……静養?」
「ええ。伯爵家を守るために動いてこられたのですから。今は、信頼できる方に任せて休むべきですわ」
その声音は、どこまでも優しかった。
だが、瞳の奥は静かに冷えている。
(表に出るのは、ルイでいい)
(矢面に立つのは、もうお父様ではない)
モーリスは、その優しさに縋るように頷いた。
「……そうだな……。伯爵家は、お前たち夫婦に任せた方が良いかもしれん」
リゼットは、穏やかに微笑んだ。
「ええ。お父様、安心なさって。すべて、うまくいきますわ」
その言葉に、何の根拠もないことを、彼女自身だけが知っている。
だが――
うまくいかせるつもりだった。
*
廊下の暗がりに、気配を溶かすように立つ影があった。
ノクスだった。
灯りの届かない壁際に身を寄せ、わずかに開いた扉の隙間から漏れる声を拾っている。
リゼットの柔らかな声音と、弱りきったモーリスの返答。
表情は動かない。
だが、耳は一言も逃さない。
(動いたな)
迷いのない判断だった。
父を気遣う娘の顔。
その裏で、駒を切る決断を平然と下せる女。
ノクスは静かに踵を返す。
足音も立てず、影のまま廊下を滑るように進み、ルイの執務室へ入った。
「……珍しいな。呼ぶ前に現れるとは」
執務机に腰掛け、書類に目を落としていたルイが、視線も向けずに声を掛ける。
カーテンがわずかに揺れ、空気が変わる。
ノクスが姿を現した。
「ああ。ヤツは、いよいよモーリスを切る」
ルイの指先が、紙の上で止まる。
「やはりな」
口元に、ごくかすかな笑みが浮かぶ。
「当主を私に譲らせ、モーリスを領地へ退かせるつもりだろうな」
「……領地に、無事に着けるかな?」
ノクスの低い声に、わずかな含みがあった。
「………」
短い沈黙が落ちる。
ルイは答えない。
「領地に辿り着かせてやっても良いけど」
肩をすくめて、ノクスは軽い口調で言う。
ルイは静かに首を振る。
「余計なことはするな。ヤツに気づかれてしまう」
「…ああ、そうだな。静かに偵察しておくさ」
その言葉だけを残し、ノクスの気配は消えた。本当に、最初からいなかったかのように。
ルイは一人、手元に視線を落とす。
自分の手のひらを見つめ、ゆっくりと握りしめた。
(ようやく……)
盤面は整いつつある。
あとは、誰が最初に落ちるかだけだった。
***
廊下の奥、灯りの届かない暗がり。
ノクスは、壁に背を預けたまま、しばらく動かなかった。
モーリス達のやり取りは、すべて聞いている。
扉越しに漏れる声。
震えた父の声と、静かな娘の声。
優しい声音。
整えられた言葉。
そして、その奥に潜む冷えた意図。
(……早いな)
モーリスが崩れるのを待つと思っていた。
だが、あの女は違った。
崩れる前に、切る。
しかも、笑顔で。
ノクスは、ゆっくりと視線を廊下の奥へ向けた。
夜の邸は静まり返っている。
だが、静かすぎた。
使用人の動きが、どこかぎこちない。
足音が、妙に少ない。
馬番の姿も見えない。
(空気が変わっているな)
嵐の前の静けさではない。
嵐を起こす前の、整えられた静寂だ。
ノクスは、わずかに口元を歪めた。
(……動く)
それは確信だった。
裁判が終わるのを、待つ気はない。
あの女は、もう次を見ている。
廊下の窓から外を見る。
夜の庭。
馬車置き場。
人の気配が、ない。
ほんの僅かな違和感。
だが、裏で生きてきたノクスには、それで十分だった。
(……領地まで、辿り着けないな)
踵を返す。
今夜、盤面が動き始めたことをノクスも確信していた。
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