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夜更け。
ベルヌー法律事務所の明かりは、まだ消えていなかった。
資料を綴じた紐をゆっくりとほどき、アデルは最後の書類を閉じる。
「お嬢様、もう終わるべか?」
リセラは、マティアスから頼まれた資料を手早くまとめている。
「ええ。私は終わったわ。リセラは?」
「わだすは、まだ残ってるんだぁ」
「あら、手伝うわよ?」
「いんや、お嬢様。先に部屋に戻って、夕食を済ませてきてけろ」
手を止めずにそう言うリセラに、アデルは小さく笑った。
「……じゃあ、リセラの分も持って戻るわね」
「そんな、お嬢様。わだすのことは気にしないでください」
アデルは軽く頷き、椅子から立ち上がった。
事務所を出て、屋根裏へと続く内階段をゆっくり上っていく。
階段を上りながら、今日までの裁判を思い返していた。
判決は、ほぼ決まっている。
個人の財産は取り戻せる。
そう分かっているのに、胸の奥は妙に静まり返っていた。
(……終わるのね)
長かった戦いが、ようやく終わる。
そう思った瞬間、言葉にできない感覚が胸いっぱいに広がった。
「アデル嬢」
背後から声がかかる。
振り向くと、三階の扉が開き、クロードが顔を出していた。
「まだ仕事だったのか?」
ラフに羽織ったシャツの袖を無造作にまくり、首元のボタンを一つ外したクロードが、眼鏡越しに穏やかな灰色の瞳を向けた。
いつもの法廷の顔とは違い、どこか肩の力が抜けた表情だった。
「はい。リセラと資料を綴じていました。私は終わったのですが、リセラがまだ」
アデルが答えると、クロードは扉から出て歩み寄ってくる。
「そうか。二人とも、無理はするな」
「はい」
一礼するアデルを見て、クロードはふっと目を細めた。
「……落ち着かないのではないか?」
「え…?」
「判決の前は、誰でもそうなる。勝てると分かっていても、心はまだ戦っているから」
その言葉が、不思議と胸に落ちた。
「クロード先生は、いつも落ち着いていらっしゃるのに…」
「私の場合は、職業柄だ」
そう言いながら、少しだけ視線を逸らす。
「……本当は、アデル嬢以上に落ち着いていないかもしれない」
アデルは目を瞬かせた。
「私以上に?」
「ああ。君の未来がかかっている裁判だから」
仕事の範囲を、ほんの少しだけ越えた言葉だった。
二人の間に沈黙が落ちる。
けれど気まずさはなく、むしろ心地よい静けさだった。
クロードは窓の外を見やる。
「少し、外の空気を吸わないか」
二人は並んで建物の裏庭に出た。
夜風が、静かに頬を撫で、月明かりだけが庭を照らしている。
アデルは深く息を吸った。
「ここに来た日を、思い出します」
「銀行の支店で、支店長を追い詰めた日だな」
「ええ」
小さく笑う。
「先生に出会わなければ、私はまだ、何も知らないままだったかもしれません」
クロードは答えない。
ただ、真っ直ぐにアデルを見つめている。
「不安でした。でも……あの日から、私の人生は動き始めた気がします」
「それは、君が動いたからだ」
即座に返る言葉。
「私は、きっかけを示しただけだ」
アデルは首を横に振る。
「違います。先生がいなければ、私は立ち上がれませんでした」
その言葉に、クロードの指先がわずかに動いた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……君は、強い」
「強くなんて、ありません」
「強い人間ほど、自分を強いと思わないものだ」
しばらく、二人は並んで月を見上げていた。アデルは、そっと呟く。
「私、眠りから覚めたときは…戸惑って、ショックも受けたけれど……今は、必要な試練だったと思えるのです」
「試練、か」
「はい。あの事故がなければ、先生や、マティアスさん、クラリスさんにも出会えませんでした」
「……そうだな」
「リセラと一緒に街で働くことも、きっとありませんでした」
アデルは、じっとクロードの瞳を見つめた。
「人の縁とは、尊いものですね」
その横顔を見つめながら、クロードは静かに言う。
「ああ。尊いものでもあり……不思議なものでもある」
「不思議、ですか?」
アデルが少し首を傾げる。
「君と出会えたことが、奇跡のように思える」
その言葉の意味に、アデルはまだ気づかない。クロードは視線を落とし、すぐに戻す。
「君の人生は、また始まる。そのとき、後悔しない選択ができるよう、私は最後までそばにいる」
アデルの胸が、わずかに波打つ。
「……ありがとうございます」
その笑顔に、クロードは目を細めた。
この夜は、静かだった。
だが確実に、二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
「いけない。私、リセラに夕食を運ぶところでした」
「まだ、食べていないのか?」
クロードは少し驚いたように言う。
「では、運ぶのを手伝おう」
「そんな、大丈夫です」
「私のお茶の腕前を知っているだろう?」
わずかに口角を上げる。
「残業をさせてしまっているんだ。お茶くらい淹れさせてほしい」
アデルは思わず笑って、頷いた。
二人は並んで事務所へ戻っていった。
「お嬢様!……あ、メガネ先生!」
髪を少し乱しながら、夢中で資料を綴じていたリセラのもとへ、アデルとクロードが湯気の立つ盆を運んできた。
「階段で先生とお会いしたの。夕食を運ぶのを手伝ってくださったのよ」
「まぁ……ありがてぇことですだ」
ほっとしたように、リセラの頬がゆるむ。
「さあ、二人とも。手を止めて、まずは温かいものを食べよう。私はその間に、とっておきのお茶を淹れよう」
「えっ、メガネ先生が!?」
恐縮して目を丸くするリセラに、アデルはくすりと笑いかける。
慌ただしく、張り詰めていたはずの夜が、
いつの間にか、やわらかな灯りに包まれていく。
アデルはその変化を、胸の奥で静かに感じていた。
ベルヌー法律事務所の明かりは、まだ消えていなかった。
資料を綴じた紐をゆっくりとほどき、アデルは最後の書類を閉じる。
「お嬢様、もう終わるべか?」
リセラは、マティアスから頼まれた資料を手早くまとめている。
「ええ。私は終わったわ。リセラは?」
「わだすは、まだ残ってるんだぁ」
「あら、手伝うわよ?」
「いんや、お嬢様。先に部屋に戻って、夕食を済ませてきてけろ」
手を止めずにそう言うリセラに、アデルは小さく笑った。
「……じゃあ、リセラの分も持って戻るわね」
「そんな、お嬢様。わだすのことは気にしないでください」
アデルは軽く頷き、椅子から立ち上がった。
事務所を出て、屋根裏へと続く内階段をゆっくり上っていく。
階段を上りながら、今日までの裁判を思い返していた。
判決は、ほぼ決まっている。
個人の財産は取り戻せる。
そう分かっているのに、胸の奥は妙に静まり返っていた。
(……終わるのね)
長かった戦いが、ようやく終わる。
そう思った瞬間、言葉にできない感覚が胸いっぱいに広がった。
「アデル嬢」
背後から声がかかる。
振り向くと、三階の扉が開き、クロードが顔を出していた。
「まだ仕事だったのか?」
ラフに羽織ったシャツの袖を無造作にまくり、首元のボタンを一つ外したクロードが、眼鏡越しに穏やかな灰色の瞳を向けた。
いつもの法廷の顔とは違い、どこか肩の力が抜けた表情だった。
「はい。リセラと資料を綴じていました。私は終わったのですが、リセラがまだ」
アデルが答えると、クロードは扉から出て歩み寄ってくる。
「そうか。二人とも、無理はするな」
「はい」
一礼するアデルを見て、クロードはふっと目を細めた。
「……落ち着かないのではないか?」
「え…?」
「判決の前は、誰でもそうなる。勝てると分かっていても、心はまだ戦っているから」
その言葉が、不思議と胸に落ちた。
「クロード先生は、いつも落ち着いていらっしゃるのに…」
「私の場合は、職業柄だ」
そう言いながら、少しだけ視線を逸らす。
「……本当は、アデル嬢以上に落ち着いていないかもしれない」
アデルは目を瞬かせた。
「私以上に?」
「ああ。君の未来がかかっている裁判だから」
仕事の範囲を、ほんの少しだけ越えた言葉だった。
二人の間に沈黙が落ちる。
けれど気まずさはなく、むしろ心地よい静けさだった。
クロードは窓の外を見やる。
「少し、外の空気を吸わないか」
二人は並んで建物の裏庭に出た。
夜風が、静かに頬を撫で、月明かりだけが庭を照らしている。
アデルは深く息を吸った。
「ここに来た日を、思い出します」
「銀行の支店で、支店長を追い詰めた日だな」
「ええ」
小さく笑う。
「先生に出会わなければ、私はまだ、何も知らないままだったかもしれません」
クロードは答えない。
ただ、真っ直ぐにアデルを見つめている。
「不安でした。でも……あの日から、私の人生は動き始めた気がします」
「それは、君が動いたからだ」
即座に返る言葉。
「私は、きっかけを示しただけだ」
アデルは首を横に振る。
「違います。先生がいなければ、私は立ち上がれませんでした」
その言葉に、クロードの指先がわずかに動いた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……君は、強い」
「強くなんて、ありません」
「強い人間ほど、自分を強いと思わないものだ」
しばらく、二人は並んで月を見上げていた。アデルは、そっと呟く。
「私、眠りから覚めたときは…戸惑って、ショックも受けたけれど……今は、必要な試練だったと思えるのです」
「試練、か」
「はい。あの事故がなければ、先生や、マティアスさん、クラリスさんにも出会えませんでした」
「……そうだな」
「リセラと一緒に街で働くことも、きっとありませんでした」
アデルは、じっとクロードの瞳を見つめた。
「人の縁とは、尊いものですね」
その横顔を見つめながら、クロードは静かに言う。
「ああ。尊いものでもあり……不思議なものでもある」
「不思議、ですか?」
アデルが少し首を傾げる。
「君と出会えたことが、奇跡のように思える」
その言葉の意味に、アデルはまだ気づかない。クロードは視線を落とし、すぐに戻す。
「君の人生は、また始まる。そのとき、後悔しない選択ができるよう、私は最後までそばにいる」
アデルの胸が、わずかに波打つ。
「……ありがとうございます」
その笑顔に、クロードは目を細めた。
この夜は、静かだった。
だが確実に、二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
「いけない。私、リセラに夕食を運ぶところでした」
「まだ、食べていないのか?」
クロードは少し驚いたように言う。
「では、運ぶのを手伝おう」
「そんな、大丈夫です」
「私のお茶の腕前を知っているだろう?」
わずかに口角を上げる。
「残業をさせてしまっているんだ。お茶くらい淹れさせてほしい」
アデルは思わず笑って、頷いた。
二人は並んで事務所へ戻っていった。
「お嬢様!……あ、メガネ先生!」
髪を少し乱しながら、夢中で資料を綴じていたリセラのもとへ、アデルとクロードが湯気の立つ盆を運んできた。
「階段で先生とお会いしたの。夕食を運ぶのを手伝ってくださったのよ」
「まぁ……ありがてぇことですだ」
ほっとしたように、リセラの頬がゆるむ。
「さあ、二人とも。手を止めて、まずは温かいものを食べよう。私はその間に、とっておきのお茶を淹れよう」
「えっ、メガネ先生が!?」
恐縮して目を丸くするリセラに、アデルはくすりと笑いかける。
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