奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

文字の大きさ
73 / 173

73

 早朝。
 モントレー伯爵邸は、息を潜めたような静けさに包まれていた。

 誰も大きな声を出さない。
 廊下を歩く使用人たちの足音さえ、絨毯に吸われるように消えていく。

 嵐の前というより――
 すでに嵐が通り過ぎたあとのような、奇妙な静寂だった。

 執務室では、モーリスが一人、椅子に沈み込んでいた。

 机の上に広げられた書簡。弁護士から届いたものだ。

――「判決は、ほぼ覆りません」

 その一文を、何度も何度も読み返している。

「……私は、家を守っただけだ」

 掠れた声は、もはや誰に向けたものでもない。

守る。守る。守る。

 その言葉を繰り返すたびに、自分が何を壊してきたのかが、逆にはっきりと浮かび上がる。

 指先が、震えた。
 そこへ、扉が静かに叩かれる。

「旦那様。ご準備はよろしくて?」

 妻のヴァレリアだった。
 すでに旅装に身を包み、落ち着かない様子で立っている。

「ああ……もう準備はできている」

 モーリスも、あとは外套を羽織るだけだった。

「領地でしばらく過ごせば、ほとぼりも冷めますわ。その間はリゼットとルイに任せましょう」

「……そうだな」

 ここ数日、裁判の噂は貴族社会を駆け巡っていた。

 ヴァレリアは夫人会で針の筵だった。
 今回の領地行きは、彼女にとっても社交界から離れる良い口実になっていた。

 再び扉がノックされる。
 そこに立っていたのは、リゼットだった。

「お父様、お母様。領地では、どうかお身体を休めてください」

 両手で父の手を包み、涙を滲ませる。

「裁判のことなど忘れて、ゆっくりなさってくださいね」

 モーリスは、ゆっくりと顔を上げる。

「ああ……ありがとう、リゼット」

「伯爵家のことは、心配なさらなくて大丈夫ですから」

 声音はどこまでも優しい。
 だが、一瞬だけ、瞳が凍るように冷たくなった。

 モーリスは、その言葉にすがるように頷いた。

「……ああ、頼んだぞ」

 リゼットは微笑む。

「ええ、お父様、お母様。安心なさって。すべて、うまくいきますわ」

 その言葉に、何の根拠もないことを、彼女だけが知っていた。





 モーリス夫妻は、玄関に用意された馬車へと向かった。

 見送りには執事や侍女頭、使用人たち、そしてルイとリゼットが並んでいる。

「ルイ……伯爵家とリゼットのことを、よろしくな」

「義父上達が戻られるまで、しっかりと伯爵家を守ります」

 ルイはまっすぐに視線を返す。
 モーリスは、その視線を見つめ返し、ふっと息を吐いた。

「いや……そろそろ、私は引退を考えている。戻ったら、お前たち夫婦に爵位を譲ろうと思っているんだ」

「義父上……?」

「……帰ったら話そう。頼んだからな」

 ルイの肩を軽く叩き、モーリスは馬車へ乗り込む。

「お母様、道中お気をつけて」
「ええ、リゼット。あなたもルイと仲良くね」

 ヴァレリアとリゼットは軽く抱き合う。
 見送るリゼットの姿は、涙ぐんでいた。

 やがて馬車は門を出て、ゆっくりと街道へ向かっていった。





 執務室に戻ったルイは、小さくため息をついた。

「帰ったら……と言っていたがな」

 カーテンの影に、ノクスの気配がある。

「……無事に領地に辿り着くかも、わからないのにな」

「ああ、そうだな」

 ノクスは髪をかきあげ、肩をすくめた。

「しかし、恐ろしいヤツだよ。実の両親すら駒にするんだからな」
「ああ」
「それでいて夜は、か弱いふりだぜ?」
「それも計算だろう」

 ノクスは小さく笑う。

「寝首かかれそうで怖いわ」
「……お前は、そんなやわじゃないだろう?」
「いや、ヤッてる時と終わった後は無防備だからな」
「ふっ……せいぜい気をつけろよ」
「ルイ、お前なぁ。自分が相手しないからって」

 その瞬間、二人の軽口が止まる。
 人の気配を察知したノクスは音もなく消えた。

 しばらくして扉がノックされる。

「ルイ様……」

 リゼットだった。

「ああ、リゼット。どうしたんだい?」
「お父様達が出発されて……邸は二人きりになりましたね」
「……心細いかい?」
「ええ…少しだけ。今は、暗いことは考えないようにしようと思っているんです。せっかくルイ様と二人だから……」

 瞳を潤ませ、見上げてくる。

「昨夜は……たくさん、はしたない姿を見せてしまったけれど……」
「……リゼット?」
「ふふっ…たくさん愛してくださったから、子が授かれていたらいいなって思っていて……」

(ノクスめ……随分と楽しんでいるな)

「今夜も……お願いしたいのです」

 そう言って、はにかむ姿は、あまりにも可憐だった。

「ああ、わかった。……執務が終わったら、君の寝室に行こう。まだ昼にもなっていない。そういう話は、もう少し後で」

「まあ、ごめんなさい、私ったら」

 頬を赤らめるリゼットを、優しく抱きしめる。

「いいんだ。今日も早く終わらせるよ」
「ルイ様……」

 一瞬だけ、リゼットの表情が曇る。

「……あの…ルイ様。香水を変えました?昨夜と香りが違うわ」
「っ、ああ。今日は変えてみたんだ。気に入らないかな?」
「いいえ……どちらも好きですわ」

 いつもの笑顔を浮かべ、リゼットは退室した。

(ノクス……あとで説教だな)

 ルイの頭の中は、それでいっぱいだった。

あなたにおすすめの小説

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

真実の愛の裏側

藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。 男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――? ※ 他サイトにも投稿しています。

「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした

ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?  ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

【完結】あなたの隣に私は必要ですか?

らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。 しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。 そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。 月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。 そんな状況で、アリーシアは思う。 私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。 * 短編です。 ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。

愛していると気づいたから、私はあなたを手放します

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
愛しているのに、触れられない。 幼なじみの夫は、こう言った。 「もう、女性を愛することはできない」と。 それでも「君がいい」と言い続ける彼と、 子どもを望む現実の間で、私は追い詰められていく。 だから決めた。 彼のためにも、私は他の誰かを探す。 ――そう思ったのに。 なぜあなたは、そんな顔で私を追いかけてくるの? これは、間違った優しさで離れた二人が、 もう一度、互いを選び直すまでの物語。 ※表紙はAI生成イラストを使用しています。

【完結】愛する人のために

月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。 けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。 『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』 このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。 三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。 ※他サイトでも投稿しております。

完璧な姉を困らせる不出来な妹は追放されました

mios
恋愛
第一王女の親友で第二王子の婚約者でもある完璧な姉アリシアは、不出来で我儘、嘘つきな妹リリアに手を焼いている。