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法廷は、これまででいちばん静かだった。
ざわめきはない。
咳払いすら聞こえない。
判決を待つ空気だけが、張り詰めている。
やがて、裁判官の声が、ゆっくりと響いた。
「被告モーリス・モントレーは死亡したが、本件の事実関係は、すでに十分に立証されている」
淡々と、記録を読み上げるような口調だった。だが、その一語一句が、法廷の隅々まで重く落ちていく。
「提出された証拠および証言を総合し、本件における財産移転は、被告の単独判断による不正な手続きであったと認める」
アデルは、まばたきすら忘れたように、その言葉を聞いていた。
「よって、原告アデル・ドルンの個人財産は、速やかに返還されるべきものと判断する」
一瞬だけ、呼吸が止まる。
胸の奥に、何かが静かに落ちてきた。
「なお、爵位の移譲については、当時の伯爵エドモンの了承が確認されており、本件とは別の合法的手続きと判断する」
木槌が、静かに鳴る。
乾いた、けれどはっきりとした音だった。
「以上をもって、本件を終結とする」
それは、戦いの終わりを告げる音だった。
アデルは、ゆっくりと息を吐いた。
終わった。
長かった時間が、ようやくほどけていく。隣で、クロードが小さく言う。
「よく頑張った、アデル嬢」
その声は、仕事の達成感よりも、どこか安堵に近かった。
リセラは、とうとう堪えきれず、鼻をすすっている。
「お嬢様……よかった……ほんとによかったべ……」
ロイクは何も言わない。
ただ、固く握った拳に力がこもっていた。
アデルは、小さく頷いた。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥が、じんわりと温かくなっていた。
*
事務所に戻ると、マティアスとクラリスが出迎えてくれた。
「アデルさん……!良かったですね……!」
マティアスは眼鏡を外し、慌てて目元を拭う。
「おめぇ、泣くなよ」
「いや、泣くよ……お前だって泣いてるぞ」
リセラとマティアスのいつものやり取りに、場の空気が少しだけゆるむ。
その横で、クラリスが静かに微笑んだ。
「本当に、お疲れ様でした」
その一言に、アデルは胸の奥がほどけるのを感じた。
「……何だか、湿っぽくなったな」
ロイクが照れたように言う。
「良いことには、涙は付きものだべさ」
リセラは鼻をかみながら、満面の笑みだった。
その光景を見て、アデルは思う。
ここに来てよかった、と。
何も持たずにこの街に来た日。
不安しかなかったあの日。
それが、今は――
こんなふうに、帰って来られる場所になっている。
胸の奥に、静かな実感が広がっていった。
*
その夜。
二人の部屋でもある屋根裏で、アデルとリセラは向かい合って座っていた。
小さな卓の上には、飲みかけのハーブティー。湯気はもうほとんど立っていない。
裁判が終わったというのに、どこか落ち着かなかった。
「……終わったべなぁ」
リセラがぽつりと呟く。
「ええ」
短い返事。けれど、その声には、いろいろな感情が混ざっていた。
「お嬢様の財産も戻ったし、もう、ここにいる理由はねぇんだよなぁ……」
その言葉に、アデルは少しだけ視線を落とした。
「そうね……」
事務所に来た日のことを思い出す。
何もわからず、ただ不安を抱えたまま、ここで働き、ここで戦い、ここで守られてきた。
「……お嬢様。ラナ村に帰るべか?」
リセラが、遠慮がちに尋ねる。
「ドルン男爵家に」
「………」
アデルは、すぐに答えなかった。
ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。屋根の向こうに、夜の街が広がっている。
「確かに……裁判も終わったから、帰るべきかもしれないわね」
静かな声だった。
「でも……」
言葉が、少しだけ途切れる。
「ここも、帰る場所になってしまった気がするの」
リセラが、ぱちりと目を丸くする。
「ここが、だべか?」
「ええ」
アデルは、小さく笑った。
「先生も、マティアスさんも、クラリスさんも……ロイクも」
この場所で過ごした人たちの顔が、ひとりずつ浮かぶ。
「私は、この場所が好きみたい」
その言葉に、リセラの目がまた潤む。
「お嬢様……んだなぁ。わだすも、この場所が好きだ」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
「でも、ずっと甘えているわけにもいかないわね」
アデルが、ぽつりと言う。
個人財産は戻った。
モントレー姓には戻れなかった。
爵位の移譲は、合法だったと判断された。
――ドルン男爵令嬢。
それが、これからの自分。
「もう、“守られる理由”はないのよね」
その言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
リセラは、すぐに首を横に振る。
「そんなことねぇ。お嬢様は、理由なんかなくても守られる人だべ」
アデルは思わず笑う。
「それは、あなたがそう思ってくれているだけよ」
「わだすは一生そう思ってる」
迷いのない声だった。
アデルは、ゆっくりと椅子に座り直す。
「もう少しだけ、考えたいわ。すぐには決められないの」
視線を落としながら言う。
リセラは、大きく頷いた。
「いくらでも考えればいいべさ。わだすは、どこでもお嬢様についていくだけですだ」
その言葉に、アデルは柔らかく微笑んだ。
まだ、何も決まっていない。
けれど――
確実に、人生は次の段階へ進もうとしている。
それだけは、はっきりと感じていた。
ざわめきはない。
咳払いすら聞こえない。
判決を待つ空気だけが、張り詰めている。
やがて、裁判官の声が、ゆっくりと響いた。
「被告モーリス・モントレーは死亡したが、本件の事実関係は、すでに十分に立証されている」
淡々と、記録を読み上げるような口調だった。だが、その一語一句が、法廷の隅々まで重く落ちていく。
「提出された証拠および証言を総合し、本件における財産移転は、被告の単独判断による不正な手続きであったと認める」
アデルは、まばたきすら忘れたように、その言葉を聞いていた。
「よって、原告アデル・ドルンの個人財産は、速やかに返還されるべきものと判断する」
一瞬だけ、呼吸が止まる。
胸の奥に、何かが静かに落ちてきた。
「なお、爵位の移譲については、当時の伯爵エドモンの了承が確認されており、本件とは別の合法的手続きと判断する」
木槌が、静かに鳴る。
乾いた、けれどはっきりとした音だった。
「以上をもって、本件を終結とする」
それは、戦いの終わりを告げる音だった。
アデルは、ゆっくりと息を吐いた。
終わった。
長かった時間が、ようやくほどけていく。隣で、クロードが小さく言う。
「よく頑張った、アデル嬢」
その声は、仕事の達成感よりも、どこか安堵に近かった。
リセラは、とうとう堪えきれず、鼻をすすっている。
「お嬢様……よかった……ほんとによかったべ……」
ロイクは何も言わない。
ただ、固く握った拳に力がこもっていた。
アデルは、小さく頷いた。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥が、じんわりと温かくなっていた。
*
事務所に戻ると、マティアスとクラリスが出迎えてくれた。
「アデルさん……!良かったですね……!」
マティアスは眼鏡を外し、慌てて目元を拭う。
「おめぇ、泣くなよ」
「いや、泣くよ……お前だって泣いてるぞ」
リセラとマティアスのいつものやり取りに、場の空気が少しだけゆるむ。
その横で、クラリスが静かに微笑んだ。
「本当に、お疲れ様でした」
その一言に、アデルは胸の奥がほどけるのを感じた。
「……何だか、湿っぽくなったな」
ロイクが照れたように言う。
「良いことには、涙は付きものだべさ」
リセラは鼻をかみながら、満面の笑みだった。
その光景を見て、アデルは思う。
ここに来てよかった、と。
何も持たずにこの街に来た日。
不安しかなかったあの日。
それが、今は――
こんなふうに、帰って来られる場所になっている。
胸の奥に、静かな実感が広がっていった。
*
その夜。
二人の部屋でもある屋根裏で、アデルとリセラは向かい合って座っていた。
小さな卓の上には、飲みかけのハーブティー。湯気はもうほとんど立っていない。
裁判が終わったというのに、どこか落ち着かなかった。
「……終わったべなぁ」
リセラがぽつりと呟く。
「ええ」
短い返事。けれど、その声には、いろいろな感情が混ざっていた。
「お嬢様の財産も戻ったし、もう、ここにいる理由はねぇんだよなぁ……」
その言葉に、アデルは少しだけ視線を落とした。
「そうね……」
事務所に来た日のことを思い出す。
何もわからず、ただ不安を抱えたまま、ここで働き、ここで戦い、ここで守られてきた。
「……お嬢様。ラナ村に帰るべか?」
リセラが、遠慮がちに尋ねる。
「ドルン男爵家に」
「………」
アデルは、すぐに答えなかった。
ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。屋根の向こうに、夜の街が広がっている。
「確かに……裁判も終わったから、帰るべきかもしれないわね」
静かな声だった。
「でも……」
言葉が、少しだけ途切れる。
「ここも、帰る場所になってしまった気がするの」
リセラが、ぱちりと目を丸くする。
「ここが、だべか?」
「ええ」
アデルは、小さく笑った。
「先生も、マティアスさんも、クラリスさんも……ロイクも」
この場所で過ごした人たちの顔が、ひとりずつ浮かぶ。
「私は、この場所が好きみたい」
その言葉に、リセラの目がまた潤む。
「お嬢様……んだなぁ。わだすも、この場所が好きだ」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
「でも、ずっと甘えているわけにもいかないわね」
アデルが、ぽつりと言う。
個人財産は戻った。
モントレー姓には戻れなかった。
爵位の移譲は、合法だったと判断された。
――ドルン男爵令嬢。
それが、これからの自分。
「もう、“守られる理由”はないのよね」
その言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
リセラは、すぐに首を横に振る。
「そんなことねぇ。お嬢様は、理由なんかなくても守られる人だべ」
アデルは思わず笑う。
「それは、あなたがそう思ってくれているだけよ」
「わだすは一生そう思ってる」
迷いのない声だった。
アデルは、ゆっくりと椅子に座り直す。
「もう少しだけ、考えたいわ。すぐには決められないの」
視線を落としながら言う。
リセラは、大きく頷いた。
「いくらでも考えればいいべさ。わだすは、どこでもお嬢様についていくだけですだ」
その言葉に、アデルは柔らかく微笑んだ。
まだ、何も決まっていない。
けれど――
確実に、人生は次の段階へ進もうとしている。
それだけは、はっきりと感じていた。
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