奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 法廷は、これまででいちばん静かだった。

 ざわめきはない。
 咳払いすら聞こえない。

 判決を待つ空気だけが、張り詰めている。
 やがて、裁判官の声が、ゆっくりと響いた。

「被告モーリス・モントレーは死亡したが、本件の事実関係は、すでに十分に立証されている」

 淡々と、記録を読み上げるような口調だった。だが、その一語一句が、法廷の隅々まで重く落ちていく。

「提出された証拠および証言を総合し、本件における財産移転は、被告の単独判断による不正な手続きであったと認める」

 アデルは、まばたきすら忘れたように、その言葉を聞いていた。

「よって、原告アデル・ドルンの個人財産は、速やかに返還されるべきものと判断する」

 一瞬だけ、呼吸が止まる。
 胸の奥に、何かが静かに落ちてきた。

「なお、爵位の移譲については、当時の伯爵エドモンの了承が確認されており、本件とは別の合法的手続きと判断する」

 木槌が、静かに鳴る。
 乾いた、けれどはっきりとした音だった。

「以上をもって、本件を終結とする」

 それは、戦いの終わりを告げる音だった。
 アデルは、ゆっくりと息を吐いた。

 終わった。

 長かった時間が、ようやくほどけていく。隣で、クロードが小さく言う。

「よく頑張った、アデル嬢」

 その声は、仕事の達成感よりも、どこか安堵に近かった。

 リセラは、とうとう堪えきれず、鼻をすすっている。

「お嬢様……よかった……ほんとによかったべ……」

 ロイクは何も言わない。
 ただ、固く握った拳に力がこもっていた。

 アデルは、小さく頷いた。
 涙は出なかった。
 代わりに、胸の奥が、じんわりと温かくなっていた。





 事務所に戻ると、マティアスとクラリスが出迎えてくれた。

「アデルさん……!良かったですね……!」

 マティアスは眼鏡を外し、慌てて目元を拭う。

「おめぇ、泣くなよ」
「いや、泣くよ……お前だって泣いてるぞ」

 リセラとマティアスのいつものやり取りに、場の空気が少しだけゆるむ。

 その横で、クラリスが静かに微笑んだ。

「本当に、お疲れ様でした」

 その一言に、アデルは胸の奥がほどけるのを感じた。

「……何だか、湿っぽくなったな」

 ロイクが照れたように言う。

「良いことには、涙は付きものだべさ」

 リセラは鼻をかみながら、満面の笑みだった。

 その光景を見て、アデルは思う。
 ここに来てよかった、と。

 何も持たずにこの街に来た日。
 不安しかなかったあの日。

 それが、今は――

 こんなふうに、帰って来られる場所になっている。

 胸の奥に、静かな実感が広がっていった。




 その夜。

 二人の部屋でもある屋根裏で、アデルとリセラは向かい合って座っていた。

 小さな卓の上には、飲みかけのハーブティー。湯気はもうほとんど立っていない。

 裁判が終わったというのに、どこか落ち着かなかった。

「……終わったべなぁ」

 リセラがぽつりと呟く。

「ええ」

 短い返事。けれど、その声には、いろいろな感情が混ざっていた。

「お嬢様の財産も戻ったし、もう、ここにいる理由はねぇんだよなぁ……」

 その言葉に、アデルは少しだけ視線を落とした。

「そうね……」

 事務所に来た日のことを思い出す。
 何もわからず、ただ不安を抱えたまま、ここで働き、ここで戦い、ここで守られてきた。

「……お嬢様。ラナ村に帰るべか?」

 リセラが、遠慮がちに尋ねる。

「ドルン男爵家に」

「………」

 アデルは、すぐに答えなかった。
 ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。屋根の向こうに、夜の街が広がっている。

「確かに……裁判も終わったから、帰るべきかもしれないわね」

 静かな声だった。

「でも……」

 言葉が、少しだけ途切れる。

「ここも、帰る場所になってしまった気がするの」

 リセラが、ぱちりと目を丸くする。

「ここが、だべか?」

「ええ」

 アデルは、小さく笑った。

「先生も、マティアスさんも、クラリスさんも……ロイクも」

 この場所で過ごした人たちの顔が、ひとりずつ浮かぶ。

「私は、この場所が好きみたい」

 その言葉に、リセラの目がまた潤む。

「お嬢様……んだなぁ。わだすも、この場所が好きだ」

 しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。

「でも、ずっと甘えているわけにもいかないわね」

 アデルが、ぽつりと言う。

 個人財産は戻った。
 モントレー姓には戻れなかった。
 爵位の移譲は、合法だったと判断された。

 ――ドルン男爵令嬢。

 それが、これからの自分。

「もう、“守られる理由”はないのよね」

 その言葉は、自分に言い聞かせるようだった。

 リセラは、すぐに首を横に振る。

「そんなことねぇ。お嬢様は、理由なんかなくても守られる人だべ」

 アデルは思わず笑う。

「それは、あなたがそう思ってくれているだけよ」

「わだすは一生そう思ってる」

 迷いのない声だった。
 アデルは、ゆっくりと椅子に座り直す。

「もう少しだけ、考えたいわ。すぐには決められないの」

 視線を落としながら言う。
 リセラは、大きく頷いた。

「いくらでも考えればいいべさ。わだすは、どこでもお嬢様についていくだけですだ」

 その言葉に、アデルは柔らかく微笑んだ。

 まだ、何も決まっていない。
 けれど――
 確実に、人生は次の段階へ進もうとしている。

 それだけは、はっきりと感じていた。

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