77 / 173
77
モントレー伯爵邸、ルイの執務室。
窓辺に立ち、ルイは街を見下ろしていた。
手元のグラスには、手を付けていない酒。
机には、ノクスから上がってきた報告の紙片。
(アデルは、男爵家に帰るつもりでいる)
それを知った時、ルイは思わず眉を寄せた。
ドルン男爵家は古い。
警備も薄い。
出入りも容易い。
そして――リゼットは、あそこなら「やれる」と考える。
それが、容易に想像できた。
「……まずいな」
低く呟く。
アデルは、もう守られる立場ではないと思っている。だが現実は違う。
まだ、狙われている。
まだ、盤上から降りていない。
(あの事務所にいれば、とりあえずは手が出せない)
クロードの事務所。
ロイクの存在。
事務所で働く人々の目。
あそこは、今いちばん安全な場所だ。
「ロイクに、続けて護衛を頼むか……」
だが、すぐに思考が止まる。
(私が頼んで、聞くか……?)
ロイクは、アデルの側にいる。
だがそれは「ルイのため」ではない。
あくまで、アデル自身のためだ。
そこに、ルイが口を挟めば――不自然になる。
「……厄介だな」
小さく息を吐く。
できることは、ひとつだけ。
(男爵家には、帰らせない)
理由をつけて。
自然な形で。
それが出来るのは――
***
一方、ベルヌー法律事務所。
夜も更けて、皆は帰っている。
一階の事務所の執務室には、クロードだけが残っていた。
書類は閉じられている。
ペンも置かれている。
だが、クロードはまだ椅子から動かなかった。
机に肘をつき、指先でこめかみを押さえながら、思考を巡らせている。
(帰らせてはいけない)
その結論だけが、はっきりと胸に残っていた。
アデルは、ドルン男爵家へ戻るつもりでいる。
裁判も終わり、財産も戻った。
ここに留まる理由は、もうない。
だが――
(タイミングが、悪すぎる)
モーリス夫妻の事故。
あまりにも整いすぎた裁判の終わり方。
リゼットの手紙。
財産返還の早さ。
すべてが、繋がりすぎている。
そして、クロードの脳裏に蘇るのは、アデルから聞いた、あの日の話だった。
――屋敷の階段。
――転落。
――そのまま、長い昏睡。
何度も、彼女の言葉を思い返している。
落ちた場所。
時間帯。
屋敷の中にいた人物。
その時の状況。
(本来ならば、終わっていたはずの改築工事が大幅に遅れていた)
話を聞けば聞くほど、胸の奥に引っかかるものが残った。
転落事故にしては、状況が整いすぎていた。
証拠はない。
だが、理屈が合わない。
だからこそ、クロードは最初から考えていた。
(あれは、本当に事故だったのか?)
その疑念が、今になって、はっきりと輪郭を持ち始めている。
「……まだ終わっていない」
それが、クロードの中に強く残っていた。
だが、この段階でアデルにそれを伝えることは出来ない。彼女達を混乱させるだけだ。
ただの「嫌な予感」では済まない。
だから、まだ言葉にできない。
「……感情で引き止めるわけにはいかないな」
小さく呟く。
それは、弁護士としての矜持でもあり、
ひとりの男としての、葛藤でもあった。
(必ず、裏を取る)
確証を掴むまでは、何も言わない。
だが――
その間、二人を事務所から出すわけにはいかない。
クロードは立ち上がり、窓の外を見た。
夜の街は静かだ。
「……急がねばな」
珍しく、焦りが滲んでいた。
ふと、時計に目を向けると、思ったより時間が進んでいた。
執務室を出て、事務所の戸締りをしていた、その時だった。
空気がわずかに揺れた。
振り向いた瞬間、クロードの視界に入ったのは――
(ルイ氏……?)
一瞬、本当にそう見えた。
だが、違う。立ち姿、重心、気配。
決定的に違う。
クロードの漆黒色の瞳が細くなる。
「……ルイ氏の“影”か」
暗がりの中で、男がわずかに口角を上げた。
「話が早くて助かる」
黒の服を纏った男は、音もなく立っている。
気づかなければ、そこにいることすら分からない。
「アデル嬢と侍女を、この事務所にいさせてくれ。ロイクの護衛も継続してほしい」
唐突な言葉だった。
クロードは一歩も動かない。
「それは、主人の意思か?」
「そうだと言ったら?」
「……何のために動いている」
男は肩をすくめる。
「お前と同じかもしれないよ」
その言葉を残し、ふっと気配が薄くなる。
消える――その瞬間。
「まやかしかぁぁぁ!!?」
背後から、凄まじい声が響いたと同時に、ノクスのマントが、勢いよく後ろから掴まれた。
バサッ!!!
「な、なんだ貴様!?」
ノクスが、人生で初めてと言っていいほど動揺した。
「それはこっちのセリフだべ!!ルイ様かと思ったら違うときた!!さては、おめぇ、まやかしだな!!?」
屋根裏の戸締りをしようとしていたリセラだったが、不穏な気配を察知して、急いで一階に駆けつけていた。
目を吊り上げ、顔をぐいっとノクスに近づける。
「メガネ先生!!こいつは、わだすに任せておくれ!!塩を撒けば消えるはずだ!!」
「貴様、な、何を言って――」
リセラは片手でマントを掴んだまま、ポケットから瓶を取り出した。
「わっ、何こいつ!?俺に塩をかけるつもりか!?」
「よく喋るまやかしだな!!こうしてやる!!」
ザバァァァッ!!
勢いよく大量の塩が舞った。
ノクスを狙ったはずのそれは――
見事に、クロードにも降り注いだ。
一瞬、時が止まった。
「…………あ」
ノクスはその隙を逃さなかった。
ふっと、気配が消える。
「え?」
リセラの手には、空のマントだけが残った。
その時、屋根裏の扉が開く音がし、アデルの声が上から聞こえてきた。
「リセラ?何だか、さわがしいけど……」
「お嬢様!!」
リセラが上を見上げたあと、塩まみれのクロードが視界に入った。
黒髪にも眼鏡にも塩がてんこ盛りだった。
「……先生?あの…すみません…」
「…………大丈夫だ」
低い声が、やけに静かに響いた。
リセラはハッとして、クロードを見る。
「メガネ先生……消えないべか?」
「なぜだ。消えるわけがないだろう」
「……良かったぁ」
心底安心した顔で言う。
クロードは、深く息を吐いた。
(……なるほど)
ルイの影は、想像以上に厄介らしい。
そして。
この事務所に、アデルを置いておく理由が、もう一つ増えたことを――
彼は、確信していた。
窓辺に立ち、ルイは街を見下ろしていた。
手元のグラスには、手を付けていない酒。
机には、ノクスから上がってきた報告の紙片。
(アデルは、男爵家に帰るつもりでいる)
それを知った時、ルイは思わず眉を寄せた。
ドルン男爵家は古い。
警備も薄い。
出入りも容易い。
そして――リゼットは、あそこなら「やれる」と考える。
それが、容易に想像できた。
「……まずいな」
低く呟く。
アデルは、もう守られる立場ではないと思っている。だが現実は違う。
まだ、狙われている。
まだ、盤上から降りていない。
(あの事務所にいれば、とりあえずは手が出せない)
クロードの事務所。
ロイクの存在。
事務所で働く人々の目。
あそこは、今いちばん安全な場所だ。
「ロイクに、続けて護衛を頼むか……」
だが、すぐに思考が止まる。
(私が頼んで、聞くか……?)
ロイクは、アデルの側にいる。
だがそれは「ルイのため」ではない。
あくまで、アデル自身のためだ。
そこに、ルイが口を挟めば――不自然になる。
「……厄介だな」
小さく息を吐く。
できることは、ひとつだけ。
(男爵家には、帰らせない)
理由をつけて。
自然な形で。
それが出来るのは――
***
一方、ベルヌー法律事務所。
夜も更けて、皆は帰っている。
一階の事務所の執務室には、クロードだけが残っていた。
書類は閉じられている。
ペンも置かれている。
だが、クロードはまだ椅子から動かなかった。
机に肘をつき、指先でこめかみを押さえながら、思考を巡らせている。
(帰らせてはいけない)
その結論だけが、はっきりと胸に残っていた。
アデルは、ドルン男爵家へ戻るつもりでいる。
裁判も終わり、財産も戻った。
ここに留まる理由は、もうない。
だが――
(タイミングが、悪すぎる)
モーリス夫妻の事故。
あまりにも整いすぎた裁判の終わり方。
リゼットの手紙。
財産返還の早さ。
すべてが、繋がりすぎている。
そして、クロードの脳裏に蘇るのは、アデルから聞いた、あの日の話だった。
――屋敷の階段。
――転落。
――そのまま、長い昏睡。
何度も、彼女の言葉を思い返している。
落ちた場所。
時間帯。
屋敷の中にいた人物。
その時の状況。
(本来ならば、終わっていたはずの改築工事が大幅に遅れていた)
話を聞けば聞くほど、胸の奥に引っかかるものが残った。
転落事故にしては、状況が整いすぎていた。
証拠はない。
だが、理屈が合わない。
だからこそ、クロードは最初から考えていた。
(あれは、本当に事故だったのか?)
その疑念が、今になって、はっきりと輪郭を持ち始めている。
「……まだ終わっていない」
それが、クロードの中に強く残っていた。
だが、この段階でアデルにそれを伝えることは出来ない。彼女達を混乱させるだけだ。
ただの「嫌な予感」では済まない。
だから、まだ言葉にできない。
「……感情で引き止めるわけにはいかないな」
小さく呟く。
それは、弁護士としての矜持でもあり、
ひとりの男としての、葛藤でもあった。
(必ず、裏を取る)
確証を掴むまでは、何も言わない。
だが――
その間、二人を事務所から出すわけにはいかない。
クロードは立ち上がり、窓の外を見た。
夜の街は静かだ。
「……急がねばな」
珍しく、焦りが滲んでいた。
ふと、時計に目を向けると、思ったより時間が進んでいた。
執務室を出て、事務所の戸締りをしていた、その時だった。
空気がわずかに揺れた。
振り向いた瞬間、クロードの視界に入ったのは――
(ルイ氏……?)
一瞬、本当にそう見えた。
だが、違う。立ち姿、重心、気配。
決定的に違う。
クロードの漆黒色の瞳が細くなる。
「……ルイ氏の“影”か」
暗がりの中で、男がわずかに口角を上げた。
「話が早くて助かる」
黒の服を纏った男は、音もなく立っている。
気づかなければ、そこにいることすら分からない。
「アデル嬢と侍女を、この事務所にいさせてくれ。ロイクの護衛も継続してほしい」
唐突な言葉だった。
クロードは一歩も動かない。
「それは、主人の意思か?」
「そうだと言ったら?」
「……何のために動いている」
男は肩をすくめる。
「お前と同じかもしれないよ」
その言葉を残し、ふっと気配が薄くなる。
消える――その瞬間。
「まやかしかぁぁぁ!!?」
背後から、凄まじい声が響いたと同時に、ノクスのマントが、勢いよく後ろから掴まれた。
バサッ!!!
「な、なんだ貴様!?」
ノクスが、人生で初めてと言っていいほど動揺した。
「それはこっちのセリフだべ!!ルイ様かと思ったら違うときた!!さては、おめぇ、まやかしだな!!?」
屋根裏の戸締りをしようとしていたリセラだったが、不穏な気配を察知して、急いで一階に駆けつけていた。
目を吊り上げ、顔をぐいっとノクスに近づける。
「メガネ先生!!こいつは、わだすに任せておくれ!!塩を撒けば消えるはずだ!!」
「貴様、な、何を言って――」
リセラは片手でマントを掴んだまま、ポケットから瓶を取り出した。
「わっ、何こいつ!?俺に塩をかけるつもりか!?」
「よく喋るまやかしだな!!こうしてやる!!」
ザバァァァッ!!
勢いよく大量の塩が舞った。
ノクスを狙ったはずのそれは――
見事に、クロードにも降り注いだ。
一瞬、時が止まった。
「…………あ」
ノクスはその隙を逃さなかった。
ふっと、気配が消える。
「え?」
リセラの手には、空のマントだけが残った。
その時、屋根裏の扉が開く音がし、アデルの声が上から聞こえてきた。
「リセラ?何だか、さわがしいけど……」
「お嬢様!!」
リセラが上を見上げたあと、塩まみれのクロードが視界に入った。
黒髪にも眼鏡にも塩がてんこ盛りだった。
「……先生?あの…すみません…」
「…………大丈夫だ」
低い声が、やけに静かに響いた。
リセラはハッとして、クロードを見る。
「メガネ先生……消えないべか?」
「なぜだ。消えるわけがないだろう」
「……良かったぁ」
心底安心した顔で言う。
クロードは、深く息を吐いた。
(……なるほど)
ルイの影は、想像以上に厄介らしい。
そして。
この事務所に、アデルを置いておく理由が、もう一つ増えたことを――
彼は、確信していた。
あなたにおすすめの小説
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで
狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。
一度目は信じた。
二度目は耐えた。
三度目は――すべてを失った。
そして私は、屋上から身を投げた。
……はずだった。
目を覚ますと、そこは過去。
すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。
――四度目の人生。
これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、
同じように裏切られ、すべてを失ってきた。
だから今度は、もう決めている。
「もう、陸翔はいらない」
愛していた。
けれど、もう疲れた。
今度こそ――
自分を守るために、家族を守るために、
私は、自分から手を放す。
これは、三度裏切られた女が、
四度目の人生で「選び直す」物語。
真実の愛の裏側
藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。
男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――?
※ 他サイトにも投稿しています。
「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした
ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
【完結】あなたの隣に私は必要ですか?
らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。
しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。
そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。
月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。
そんな状況で、アリーシアは思う。
私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。
* 短編です。
ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。
愛していると気づいたから、私はあなたを手放します
妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
愛しているのに、触れられない。
幼なじみの夫は、こう言った。
「もう、女性を愛することはできない」と。
それでも「君がいい」と言い続ける彼と、
子どもを望む現実の間で、私は追い詰められていく。
だから決めた。
彼のためにも、私は他の誰かを探す。
――そう思ったのに。
なぜあなたは、そんな顔で私を追いかけてくるの?
これは、間違った優しさで離れた二人が、
もう一度、互いを選び直すまでの物語。
※表紙はAI生成イラストを使用しています。
【完結】愛する人のために
月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。
けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。
『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』
このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。
三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。
※他サイトでも投稿しております。