奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ベルヌー法律事務所の朝は、いつも通りに始まっていた。

 窓から差し込む光。紙の擦れる音。インクの匂い。
 まるで何も変わっていないかのような、穏やかな空気。

 マティアスは帳簿を整えながら、ちらりと二人を見た。
 屋根裏から降りてきたアデルとリセラが、いつもの席で仕事を始めている。

(……よかった)

 声には出さなかったが、確かに胸を撫で下ろしていた。

「リセラ、この書類を頼む」
「おうよ。わだすに任せな」

「……ずいぶん張り切ってるな?」

 書類を渡しながら、マティアスが小さく呟く。

「この事務所には、わだすが必要だべ」
「なんだそれ」

「昨日、まやかしが出たからな。わだすが退治したんだど。エヘン」

 リセラは得意げに胸を張った。

「なんだよ、その“まやかし”って」

 マティアスが、すかさず突っ込む。
 アデルは困ったように微笑んだ。

「昨日から、その話ばかりなの。リセラ、疲れていない?」

「いんや、疲れてねぇです。まやかしがまた来たら、塩で退治するだ。いつでも戦うど」

 リセラは、謎の正義感に燃えている。
 その様子を見て、クロードが書類から顔を上げた。

「塩は勘弁してくれ。掃除が大変だ」

 さらりと言ってから、続ける。

「事務所は人手が足りない。君たちが残ってくれるのは大歓迎だ」

 何気ない口調だったが、確かな意思があった。
 アデルが、少しだけ遠慮がちに尋ねる。

「……まだ、働かせてもらえますか?」

「もちろんだ」

 即答だった。

「本来なら、君は貴族の令嬢だ。こんな場所で働く必要はないのかもしれないが」

 アデルは小さく笑う。

「先生。ドルン男爵家は、働かないと食べていけませんわ」

「まぁ、働かざる者、食うべからず。だべ」

 リセラが豪快に笑った。
 事務所の空気が、ふっと和らぐ。

 そのやり取りを聞きながら、クロードは静かに目を細めた。

 ――本当は、帰ってほしくない。

 できることなら、このままずっと、ここにいてほしい。

 だが、それを口にする資格は自分にはないと分かっている。

 だから何も言わない。
 ただ、いつも通りの顔で、書類に視線を戻した。

 言葉にしない願いだけが、胸の奥に沈んでいた。




 昼下がり。
 紙をめくる音と、ペン先が走るかすかな音だけが、静かに室内を満たしていた。

「お嬢様、この帳簿、こっちで合ってるべか?」
「ええ、それで大丈夫よ、リセラ」

 アデルとリセラは帳簿を綴じている。
 
 向かいの机で、マティアスが書類を束ねながら指示を出す。

「もうすぐ依頼人が来る時間だ」
「例の遺産相続問題ね? 正妻と愛人を鉢合わせないようにしないと」

 クラリスは奥の棚から資料を抜き取りながら答えた。

「日にちも時間も、わざとずらしているのに……どう聞きつけるのか、必ず愛人が現れるのよね」
「もはや執念だな」
「ほんとに」

 いつも通りの光景だった。
 裁判が終わっても、この場所の時間は変わらない。

 クロードは、書類に視線を落としたまま、万年筆を走らせていた。

 ふと、ペン先が止まる。
 視界の端に、わずかな違和感がよぎった。
 何かが、動いた気がした。

 ほんの一瞬。
 窓の外、通りの向こうに気配があった。

 クロードは、ごく自然な仕草で顔を上げる。
 視線だけを、ゆっくりと外へ向けた。

 石畳の通り。
 行き交う人影。
 荷馬車。
 洗濯物を抱えた女。

 何も、おかしくはない。

 それでも。
 ――
 はっきりと、そう感じた。

 視線が合ったわけではない。
 姿を捉えたわけでもない。

 だが、確かに。

「……」

 クロードは、何事もなかったかのように視線を戻す。ペンを持ち直し、再び書類へ目を落とした。

 表情は変わらない。
 誰も気づかない。
 だが、胸の奥に、静かな確信だけが残っていた。

(気のせいではないな)

 それ以上は、何も言わなかった。
 ただ、いつもよりわずかにゆっくりと、息を吐いた。


 控えめなノックの音が、事務所に響いた。

「どうぞ」

 マティアスが顔を上げる。
 扉が開き、姿を現したのはロイクだった。

「ロイク?」

 思わず声が上がる。

 騎士団の制服姿のロイクは、静かに室内へ入ってくる。だがその視線だけが、素早く事務所の隅々をなぞっていた。

「どうしたの?」

 アデルが顔を上げ、柔らかく微笑む。

「ちょうど、この辺りを巡回していたから……アデル達の顔を見に来ただけだ」

 何気ない口調だった。
 だが、立ち位置は入口からわずかに内側。
 背後、窓、階段――無意識に死角を潰している。

 その様子に気づいたのは、クロードだけだった。

 書類から視線を上げ、ロイクを見る。
 ロイクも、わずかに視線を返す。
 二人の間には言葉はなかったが、考えていることは同じだった。


(警戒しているな)
(ああ。念のためだ)

 ほんの一瞬のやり取りが交わされる。

「ロイク様!ちょうどよかったべ!」

 リセラが身を乗り出す。

「昨日な、まやかしが出たんだど!わだすが退治したんだ!」

「……まやかし?」

 ロイクが困ったように眉をひそめる。

「リセラ、またその話?」

 アデルが苦笑する。

「昨日から、その話ばかりなのよ……」
「また来たら、塩でやっつけるだ!」

 拳を握るリセラに、ロイクは小さく笑った。

「頼もしいな」

 そう言いながら、さりげなく窓際へ移動する。

 クロードはその動きを見逃さない。
 視線だけで、もう一度やり取りする。

(外か?)
(ああ。念のためな)

 アデルたちは、その空気にまったく気づいていない。

「ロイク様、お茶を淹れるだ」

 リセラが茶器の準備を始める。

「いや、ただ様子を見に来ただけだから」

 ロイクは遠慮がちに答えた。
 クロードが立ち上がり、穏やかに声をかける。

「……ロイク、そう言わずに。を見ていってくれ」

「先生……」

 その言葉の意味は、二人だけが理解していた。

 この事務所には、まだ見えない緊張が流れている。

 それを感じ取っているのは――
 クロードとロイク、ただ二人だけだった。

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