奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 モントレー伯爵邸。

 朝の光が、長い食卓に差し込んでいた。
 銀の食器が静かにきらめき、湯気の立つ紅茶の香りが広がる。

  向かい合って座るのは、ルイとリゼットだった。

 二人とも、喪に服している。

 ルイは装飾のない黒の上着に、白いシャツだけという簡素な装い。

 華やかさはなく、伯爵家の食卓とは思えないほど静かな色合いだった。

 リゼットもまた、光沢を抑えた黒のドレスに身を包み、胸元には小さな灰色のレースが添えられているだけだ。

 髪もいつものように飾らず、後ろで静かにまとめている。

 広い食堂に、食器の触れ合う小さな音だけが響いていた。

「お父様の執務が、溜まっていたのではありませんか?」

 リゼットは、パンを小さくちぎりながら、柔らかな声で尋ねる。

「大丈夫だよ。私のペースで対応させてもらっている」

「無理なさらないでくださいね」

「ああ、ありがとう」

 リゼットは、ほっとしたように微笑んだ。

「私にも何かお手伝いできることがあれば、どうかおっしゃってください」

 その笑みは、非の打ち所がない。
 慈しみ深い伯爵夫人そのものだった。
 ルイは、紅茶を口に運び、わずかに視線を上げる。

「気持ちだけで十分だよ。今は、ゆっくりしていてほしい」

 ルイは、美しく整えられた笑顔を見せた。

「君には、笑顔でいてほしいんだ」
「まぁ…ありがとうございます、ルイ様」

 リゼットも、穏やかに微笑み返す。

 完璧な夫婦の朝だった。
 だが食卓の下で、誰にも見えないところで、
 ルイの指先だけが、わずかに強く握られていた。

 



 食堂を出たリゼットは、足音を立てないように長い廊下を歩いていた。黒のドレスの裾が、絨毯の上を静かに滑る。

 自室の扉を閉めた瞬間、ふっと息を吐いた。

 先ほどまでの柔らかな表情が、すっと消える。

 鏡台の前に立ち、自分の顔を見つめる。
 完璧だった。悲しみに耐える伯爵夫人。
 どこにも綻びはない。

 机に向かい、引き出しから一枚の紙を取り出す。広げられたのは、街の地図だった。

 視線は、迷いなく一点へ落ちる。

 ――ドルン男爵家。

 小さく、古びた屋敷。
 警備も、使用人も、ほとんどいない。

「……何もないわね」

 ぽつりと呟く。
 あの場所なら、いくらでもやりようがある。
 事故にもできる。病にもできる。盗賊にもできる。

 アデルは、守られているから厄介なのだ。

 あの事務所にいる限り。
 クロード・ベルヌーがいる限り。

(早く、帰ってもらわないと)

 窓の外では、鳥がさえずっている。

 その穏やかさとは対照的に、リゼットの瞳は、冷え切っていた。

「本当に、都合の良い場所だこと」

 指先で、印をとん、と叩く。
 そこにはもう、迷いも躊躇もなかった。


***

 ルイの執務室。

 扉が閉まると同時に、空気がわずかに揺れた。

「……いるんだろう」

 机の上の書類に目を落としたまま、ルイが言う。

「ああ」

 カーテンの影から、ノクスが姿を現した。
 壁にもたれ、腕を組みながら、面白そうに口角を上げる。

「ルイ、今朝はずいぶん大人しかったな」

「何のことだ」

 ペン先を止めることなく、淡々と返す。

「いつも通りの夫、いつも通りの伯爵。徹底していたな。やくやるよ」

 ルイはゆっくりとペンを置いた。

「今は、それでいい」

 ノクスが肩をすくめて、鼻で笑う。

「慎重だな」

「盤面が整っていない」

 短い沈黙のあと、ルイがふと思い出したように視線を上げる。

「……そういえば、昨夜は随分と塩に塗れて帰ってきたが。塩漬けになりたかった気分だったのか?」

「ばか言え」

 ノクスが顔をしかめる。

「あの侍女の仕業だ。あいつは何なんだ?只者じゃないよな?」

「ただの侍女だ」

「いや、ただの侍女のわけないだろ。訛りはひどいわ、礼儀作法は皆無だわ、馬鹿力だわ……規格外すぎる」

 ルイの口元がわずかに緩む。

「お前が交わせなかったのなんて、初めてじゃないか?」

「っ……」

「図星だな」

 ノクスが大袈裟に舌打ちする。

「くそ。今度会ったら、あいつをとっちめてやる」

「やめておけ。あの侍女は、次は塩壺ごと投げてくるかもしれないぞ」

 ノクスが露骨に顔をしかめ、眉間に深い皺を寄せた。

「……あれ、塩が目に入ってな。結構痛かったんだぞ」

 文句を言う声が、どこか本気で、どこか悔しげだ。

 ルイは思わず、ふ、と小さく笑った。
 その笑みは、ごく短く、静かなものだった。

 ノクスは肩をすくめる。

「今度は俺が勝つからな」

 そう言い残し、気配を消す。
 まるで最初からいなかったかのように、室内に静寂が落ちた。

「……リセラとの勝負か?」

 ルイは、誰に聞かせるでもなく呟く。
 その言葉が自分の口から出たことが可笑しくて、もう一度だけ、かすかに笑みが漏れた。

(久しぶりに、笑ったな……)

 自覚と同時に、表情がゆっくりと戻る。

 ルイはペンを握ったまま、ぴくりとも動かなかった。
 紙に落ちたインクが、じわりと滲んでいた。

 ほんの一瞬の緩みが過ぎ去り、静かな現実が戻ってくる。

 ルイはゆっくりと天井を見上げた。

(……まだだ)

 奥歯を、わずかに噛み締める。
 笑えたことが、逆に胸の奥をひりつかせた。

 分かっている。
 今ここで動けば、すべてが崩れる。

 証拠が足りない。
 筋が通らない。
 盤面が整っていない。

 だから待つ。
 待つしかない。

 それが最善だと、頭では理解している。

 だが――
 胸の奥に、苛立ちに似た熱が燻っていた。

(すぐそこにいるのに)

 目の前に、手を伸ばせば届く場所にいる。
 すべての元凶が。

 それなのに、触れることすらできない。
 ルイはゆっくりと息を吐いた。

(焦るな)

 自分に言い聞かせる。
 ルイの瞳には、揺らぎのない冷たい決意だけが宿っていた。


 

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