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モントレー伯爵邸。
朝の光が、長い食卓に差し込んでいた。
銀の食器が静かにきらめき、湯気の立つ紅茶の香りが広がる。
向かい合って座るのは、ルイとリゼットだった。
二人とも、喪に服している。
ルイは装飾のない黒の上着に、白いシャツだけという簡素な装い。
華やかさはなく、伯爵家の食卓とは思えないほど静かな色合いだった。
リゼットもまた、光沢を抑えた黒のドレスに身を包み、胸元には小さな灰色のレースが添えられているだけだ。
髪もいつものように飾らず、後ろで静かにまとめている。
広い食堂に、食器の触れ合う小さな音だけが響いていた。
「お父様の執務が、溜まっていたのではありませんか?」
リゼットは、パンを小さくちぎりながら、柔らかな声で尋ねる。
「大丈夫だよ。私のペースで対応させてもらっている」
「無理なさらないでくださいね」
「ああ、ありがとう」
リゼットは、ほっとしたように微笑んだ。
「私にも何かお手伝いできることがあれば、どうかおっしゃってください」
その笑みは、非の打ち所がない。
慈しみ深い伯爵夫人そのものだった。
ルイは、紅茶を口に運び、わずかに視線を上げる。
「気持ちだけで十分だよ。今は、ゆっくりしていてほしい」
ルイは、美しく整えられた笑顔を見せた。
「君には、笑顔でいてほしいんだ」
「まぁ…ありがとうございます、ルイ様」
リゼットも、穏やかに微笑み返す。
完璧な夫婦の朝だった。
だが食卓の下で、誰にも見えないところで、
ルイの指先だけが、わずかに強く握られていた。
*
食堂を出たリゼットは、足音を立てないように長い廊下を歩いていた。黒のドレスの裾が、絨毯の上を静かに滑る。
自室の扉を閉めた瞬間、ふっと息を吐いた。
先ほどまでの柔らかな表情が、すっと消える。
鏡台の前に立ち、自分の顔を見つめる。
完璧だった。悲しみに耐える伯爵夫人。
どこにも綻びはない。
机に向かい、引き出しから一枚の紙を取り出す。広げられたのは、街の地図だった。
視線は、迷いなく一点へ落ちる。
――ドルン男爵家。
小さく、古びた屋敷。
警備も、使用人も、ほとんどいない。
「……何もないわね」
ぽつりと呟く。
あの場所なら、いくらでもやりようがある。
事故にもできる。病にもできる。盗賊にもできる。
アデルは、守られているから厄介なのだ。
あの事務所にいる限り。
クロード・ベルヌーがいる限り。
(早く、帰ってもらわないと)
窓の外では、鳥がさえずっている。
その穏やかさとは対照的に、リゼットの瞳は、冷え切っていた。
「本当に、都合の良い場所だこと」
指先で、印をとん、と叩く。
そこにはもう、迷いも躊躇もなかった。
***
ルイの執務室。
扉が閉まると同時に、空気がわずかに揺れた。
「……いるんだろう」
机の上の書類に目を落としたまま、ルイが言う。
「ああ」
カーテンの影から、ノクスが姿を現した。
壁にもたれ、腕を組みながら、面白そうに口角を上げる。
「ルイ、今朝はずいぶん大人しかったな」
「何のことだ」
ペン先を止めることなく、淡々と返す。
「いつも通りの夫、いつも通りの伯爵。徹底していたな。やくやるよ」
ルイはゆっくりとペンを置いた。
「今は、それでいい」
ノクスが肩をすくめて、鼻で笑う。
「慎重だな」
「盤面が整っていない」
短い沈黙のあと、ルイがふと思い出したように視線を上げる。
「……そういえば、昨夜は随分と塩に塗れて帰ってきたが。塩漬けになりたかった気分だったのか?」
「ばか言え」
ノクスが顔をしかめる。
「あの侍女の仕業だ。あいつは何なんだ?只者じゃないよな?」
「ただの侍女だ」
「いや、ただの侍女のわけないだろ。訛りはひどいわ、礼儀作法は皆無だわ、馬鹿力だわ……規格外すぎる」
ルイの口元がわずかに緩む。
「お前が交わせなかったのなんて、初めてじゃないか?」
「っ……」
「図星だな」
ノクスが大袈裟に舌打ちする。
「くそ。今度会ったら、あいつをとっちめてやる」
「やめておけ。あの侍女は、次は塩壺ごと投げてくるかもしれないぞ」
ノクスが露骨に顔をしかめ、眉間に深い皺を寄せた。
「……あれ、塩が目に入ってな。結構痛かったんだぞ」
文句を言う声が、どこか本気で、どこか悔しげだ。
ルイは思わず、ふ、と小さく笑った。
その笑みは、ごく短く、静かなものだった。
ノクスは肩をすくめる。
「今度は俺が勝つからな」
そう言い残し、気配を消す。
まるで最初からいなかったかのように、室内に静寂が落ちた。
「……リセラとの勝負か?」
ルイは、誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉が自分の口から出たことが可笑しくて、もう一度だけ、かすかに笑みが漏れた。
(久しぶりに、笑ったな……)
自覚と同時に、表情がゆっくりと戻る。
ルイはペンを握ったまま、ぴくりとも動かなかった。
紙に落ちたインクが、じわりと滲んでいた。
ほんの一瞬の緩みが過ぎ去り、静かな現実が戻ってくる。
ルイはゆっくりと天井を見上げた。
(……まだだ)
奥歯を、わずかに噛み締める。
笑えたことが、逆に胸の奥をひりつかせた。
分かっている。
今ここで動けば、すべてが崩れる。
証拠が足りない。
筋が通らない。
盤面が整っていない。
だから待つ。
待つしかない。
それが最善だと、頭では理解している。
だが――
胸の奥に、苛立ちに似た熱が燻っていた。
(すぐそこにいるのに)
目の前に、手を伸ばせば届く場所にいる。
すべての元凶が。
それなのに、触れることすらできない。
ルイはゆっくりと息を吐いた。
(焦るな)
自分に言い聞かせる。
ルイの瞳には、揺らぎのない冷たい決意だけが宿っていた。
朝の光が、長い食卓に差し込んでいた。
銀の食器が静かにきらめき、湯気の立つ紅茶の香りが広がる。
向かい合って座るのは、ルイとリゼットだった。
二人とも、喪に服している。
ルイは装飾のない黒の上着に、白いシャツだけという簡素な装い。
華やかさはなく、伯爵家の食卓とは思えないほど静かな色合いだった。
リゼットもまた、光沢を抑えた黒のドレスに身を包み、胸元には小さな灰色のレースが添えられているだけだ。
髪もいつものように飾らず、後ろで静かにまとめている。
広い食堂に、食器の触れ合う小さな音だけが響いていた。
「お父様の執務が、溜まっていたのではありませんか?」
リゼットは、パンを小さくちぎりながら、柔らかな声で尋ねる。
「大丈夫だよ。私のペースで対応させてもらっている」
「無理なさらないでくださいね」
「ああ、ありがとう」
リゼットは、ほっとしたように微笑んだ。
「私にも何かお手伝いできることがあれば、どうかおっしゃってください」
その笑みは、非の打ち所がない。
慈しみ深い伯爵夫人そのものだった。
ルイは、紅茶を口に運び、わずかに視線を上げる。
「気持ちだけで十分だよ。今は、ゆっくりしていてほしい」
ルイは、美しく整えられた笑顔を見せた。
「君には、笑顔でいてほしいんだ」
「まぁ…ありがとうございます、ルイ様」
リゼットも、穏やかに微笑み返す。
完璧な夫婦の朝だった。
だが食卓の下で、誰にも見えないところで、
ルイの指先だけが、わずかに強く握られていた。
*
食堂を出たリゼットは、足音を立てないように長い廊下を歩いていた。黒のドレスの裾が、絨毯の上を静かに滑る。
自室の扉を閉めた瞬間、ふっと息を吐いた。
先ほどまでの柔らかな表情が、すっと消える。
鏡台の前に立ち、自分の顔を見つめる。
完璧だった。悲しみに耐える伯爵夫人。
どこにも綻びはない。
机に向かい、引き出しから一枚の紙を取り出す。広げられたのは、街の地図だった。
視線は、迷いなく一点へ落ちる。
――ドルン男爵家。
小さく、古びた屋敷。
警備も、使用人も、ほとんどいない。
「……何もないわね」
ぽつりと呟く。
あの場所なら、いくらでもやりようがある。
事故にもできる。病にもできる。盗賊にもできる。
アデルは、守られているから厄介なのだ。
あの事務所にいる限り。
クロード・ベルヌーがいる限り。
(早く、帰ってもらわないと)
窓の外では、鳥がさえずっている。
その穏やかさとは対照的に、リゼットの瞳は、冷え切っていた。
「本当に、都合の良い場所だこと」
指先で、印をとん、と叩く。
そこにはもう、迷いも躊躇もなかった。
***
ルイの執務室。
扉が閉まると同時に、空気がわずかに揺れた。
「……いるんだろう」
机の上の書類に目を落としたまま、ルイが言う。
「ああ」
カーテンの影から、ノクスが姿を現した。
壁にもたれ、腕を組みながら、面白そうに口角を上げる。
「ルイ、今朝はずいぶん大人しかったな」
「何のことだ」
ペン先を止めることなく、淡々と返す。
「いつも通りの夫、いつも通りの伯爵。徹底していたな。やくやるよ」
ルイはゆっくりとペンを置いた。
「今は、それでいい」
ノクスが肩をすくめて、鼻で笑う。
「慎重だな」
「盤面が整っていない」
短い沈黙のあと、ルイがふと思い出したように視線を上げる。
「……そういえば、昨夜は随分と塩に塗れて帰ってきたが。塩漬けになりたかった気分だったのか?」
「ばか言え」
ノクスが顔をしかめる。
「あの侍女の仕業だ。あいつは何なんだ?只者じゃないよな?」
「ただの侍女だ」
「いや、ただの侍女のわけないだろ。訛りはひどいわ、礼儀作法は皆無だわ、馬鹿力だわ……規格外すぎる」
ルイの口元がわずかに緩む。
「お前が交わせなかったのなんて、初めてじゃないか?」
「っ……」
「図星だな」
ノクスが大袈裟に舌打ちする。
「くそ。今度会ったら、あいつをとっちめてやる」
「やめておけ。あの侍女は、次は塩壺ごと投げてくるかもしれないぞ」
ノクスが露骨に顔をしかめ、眉間に深い皺を寄せた。
「……あれ、塩が目に入ってな。結構痛かったんだぞ」
文句を言う声が、どこか本気で、どこか悔しげだ。
ルイは思わず、ふ、と小さく笑った。
その笑みは、ごく短く、静かなものだった。
ノクスは肩をすくめる。
「今度は俺が勝つからな」
そう言い残し、気配を消す。
まるで最初からいなかったかのように、室内に静寂が落ちた。
「……リセラとの勝負か?」
ルイは、誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉が自分の口から出たことが可笑しくて、もう一度だけ、かすかに笑みが漏れた。
(久しぶりに、笑ったな……)
自覚と同時に、表情がゆっくりと戻る。
ルイはペンを握ったまま、ぴくりとも動かなかった。
紙に落ちたインクが、じわりと滲んでいた。
ほんの一瞬の緩みが過ぎ去り、静かな現実が戻ってくる。
ルイはゆっくりと天井を見上げた。
(……まだだ)
奥歯を、わずかに噛み締める。
笑えたことが、逆に胸の奥をひりつかせた。
分かっている。
今ここで動けば、すべてが崩れる。
証拠が足りない。
筋が通らない。
盤面が整っていない。
だから待つ。
待つしかない。
それが最善だと、頭では理解している。
だが――
胸の奥に、苛立ちに似た熱が燻っていた。
(すぐそこにいるのに)
目の前に、手を伸ばせば届く場所にいる。
すべての元凶が。
それなのに、触れることすらできない。
ルイはゆっくりと息を吐いた。
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ルイの瞳には、揺らぎのない冷たい決意だけが宿っていた。
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