奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

文字の大きさ
80 / 173

80

 ベルヌー法律事務所は、朝から慌ただしかった。

 依頼人がひっきりなしに出入りし、机の上では書類が絶え間なく行き交う。

 階段では、リセラとアデルの足音が、二階の貸本兼古本屋と三階の倉庫のあいだを何往復もしていた。

 古本屋の奥で、帳簿をつけていた爺さんが、ふと顔を上げる。

「お嬢さんの裁判以来、この事務所はすっかり有名になったからな。商売繁盛じゃ」

「ええ……良いのか、悪いのか……」

 アデルは眉を少し下げて笑い、胸に抱えた資料を抱き直した。

 爺さんは、棚の奥から古い新聞を一枚取り出す。

「この新聞記事も持っていくと良い。似た判例が載っておる」

「ありがとうございます、お爺さん」

「お嬢様、その新聞は、わだすが持って行くだ」

「リセラ、ありがとう」

 紙束を抱えたまま、二人は軽く頭を下げ、足早に階段を降りていく。

 慌ただしいやり取りのあと、事務所に戻ると、案件ごとに資料の仕分けが始まった。

 アデルは椅子に腰を下ろし、次々と封を切り、素早く内容に目を通していく。
 その指先の動きは、もうすっかり“働く人”のそれだった。

 裁判が終わってからというもの、事務所の仕事は目に見えて増えていた。

「評判ってやつだな」

 マティアスが、帳簿をめくりながら嬉しそうに言う。

「先生はもともと有名だったけど、今回の件で、さらに名前が広まったみたいだし」

「確かにな。ありがたいことだけど……忙しすぎるのも考えものだべな」

 リセラが鼻を鳴らしながら、積み上がった書類の束を両手で抱え直す。

 そのとき、資料棚の奥から、クラリスが顔を覗かせた。

「マティアス!例の遺産相続問題だけど」

「ああ、例の愛人か」

「例の愛人がどうしたべか?」

 リセラが首を傾げる。

「また、正妻との打ち合わせに乱入してきたのよ!」
「えぇっ!あれだけ細心の注意を払って、時間も場所もずらしてたのに!?」
「……もはや怪奇現象ね」

 クラリスは肩をすくめ、机に資料を置いた。

 そのやり取りに、事務所にいた全員が思わず吹き出す。

 忙しさは確かに増していたが、事務所の空気はどこか明るい。
 裁判のときのような張り詰めた緊張はなく、活気と笑い声が自然に混ざっている。

 ここは、もう戦場ではない。

 それぞれが、自分の仕事に集中できる、いつもの場所に戻っていた。

 アデルは、手元の資料からふと顔を上げる。

 行き交う声。紙の擦れる音。階段を上り下りする足音。

(……この場所に来て、本当に良かった)

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。
 そう思いながら、アデルはまた静かに視線を紙へ落とした。

 扉が開く音がして、ロイクが顔を出す。

「あら、ロイク。今日はどうしたの?」

 アデルが苦笑する。

「顔を見に来ただけだ」

 そう言いながら、視線は室内をゆっくりと一巡していた。窓、階段、入口、裏口。

「ロイク様、もう裁判も終わったから、護衛の心配はいらねぇはずです」

 リセラが声を掛ける。

「いや、巡回のついでだから」

 アデルは、申し訳なさそうにロイクを見る。

「ロイク、もう大丈夫よ。本当に」
「……ああ」

 だが、その声は曖昧だった。
 クロードが書類から目を上げる。

「その“ついで”に、我々は甘えることにしよう」
「先生まで…」

 アデルは困ったように笑った。
 けれど、その空気はどこか穏やかだった。

 ここ最近、ロイクがよく顔を出すせいか、事務所に目に見えない安心感が漂っている。

 その様子を見ながら、クロードはふと視線を落とした。

 机の端に置かれた、古びた手帳。
 そこに挟まれた紙片。

 そこには、昨日訪ねた男の名前が記されていた。

 ――モントレー邸 改築工事 下請け業者

 クロードは、昨夜その男に会っていた。

 当時の工事責任者はすでに辞め、田舎へ戻ったという。だが、人づてに当時の話は聞いているらしかった。

「ああ、モントレー伯爵邸の工事ですか。当時は、何度も先延ばしになったと聞いています」

「……それは、誰から?」

「前任の責任者からです。モントレー家のご意向だと」

 クロードは、感情を見せずに問いを重ねる。

「モントレー家の意向とは、エドモン伯爵の意向ということですか?」

 男は、少し困ったように視線を泳がせた。

「……そこまでは、はっきりとは。ですが」

 一拍置いて、言葉を選ぶ。

「伯爵様ご本人が、工事の進捗を気にされた様子はなかった、と聞いています」

 クロードの視線が、わずかに鋭くなった。

「気にしていなかった?」

「ええ。邸にお住まいなのに、工事の話をされるのは、いつも別の方だったと」

 クロードは、そこで沈黙した。

 邸に住んでいる当主が、工事の進捗に無関心。代わりに、別の人間が口を出していた。

 不自然だった。

 その瞬間、リセラの言葉が脳裏に蘇る。

『よく、モーリス様とリゼット様が来てただよ』

 モーリス夫妻。
 そして、リゼット。

 点だった記憶が、線になっていく。

(やはり、あの事故は偶然ではない)

 階段の位置。
 改築の中断。
 工事の遅延。

 すべてが、今、一本の筋で繋がり始めている。

 あのときは、ただの断片的な記憶だったが、今は違う。

(仕組まれていた)

 クロードの指先が、ゆっくりと手帳を閉じた。

 事務所の奥から、アデルとリセラの笑い声が聞こえてくる。

 穏やかで、何の変哲もない日常。
 だが、クロードだけは知っている。

 この平穏が、偶然守られているのではないことを。

あなたにおすすめの小説

「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした

ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?  ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

真実の愛の裏側

藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。 男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――? ※ 他サイトにも投稿しています。

(完)妹の子供を養女にしたら・・・・・・

青空一夏
恋愛
私はダーシー・オークリー女伯爵。愛する夫との間に子供はいない。なんとかできるように努力はしてきたがどうやら私の身体に原因があるようだった。 「養女を迎えようと思うわ・・・・・・」 私の言葉に夫は私の妹のアイリスのお腹の子どもがいいと言う。私達はその産まれてきた子供を養女に迎えたが・・・・・・ 異世界中世ヨーロッパ風のゆるふわ設定。ざまぁ。魔獣がいる世界。

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

騎士の妻ではいられない

Rj
恋愛
騎士の娘として育ったリンダは騎士とは結婚しないと決めていた。しかし幼馴染みで騎士のイーサンと結婚したリンダ。結婚した日に新郎は非常召集され、新婦のリンダは結婚を祝う宴に一人残された。二年目の結婚記念日に戻らない夫を待つリンダはもう騎士の妻ではいられないと心を決める。 全23話。 2024/1/29 全体的な加筆修正をしました。話の内容に変わりはありません。 イーサンが主人公の続編『騎士の妻でいてほしい 』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/96163257/36727666)があります。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

【完結】竜人が番と出会ったのに、誰も幸せにならなかった

凛蓮月@騎士の夫〜発売中です
恋愛
【感想をお寄せ頂きありがとうございました(*^^*)】  竜人のスオウと、酒場の看板娘のリーゼは仲睦まじい恋人同士だった。  竜人には一生かけて出会えるか分からないとされる番がいるが、二人は番では無かった。  だがそんな事関係無いくらいに誰から見ても愛し合う二人だったのだ。 ──ある日、スオウに番が現れるまでは。 全8話。 ※他サイトで同時公開しています。 ※カクヨム版より若干加筆修正し、ラストを変更しています。