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朝の光が、古い窓枠からやわらかく差し込んでいた。
ドルン男爵邸は、相変わらず質素な佇まいだ。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、廊下の床板は歩くたびに小さくきしむ。
けれど――この家には、穏やかな空気が流れている。
「ソフィア、これを見てくれ」
書斎で、エドモンが新聞を広げたまま声をかけた。
ソフィアは台所から顔を出し、エプロンの端で手を拭きながら歩いてくる。
「まぁ……裁判の記事ですか?」
「ああ。アデルのことが載っている」
ソフィアはエドモンの肩越しに新聞を覗き込み、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった……本当に」
エドモンは、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
「よい先生と、よい仲間に助けられたのだな」
「ええ。手紙にも、皆さんにとても良くしていただいていると書いてありましたわ」
しばし、紙面を見つめたあと、エドモンの声が低くなる。
「私は……父として、何もしてやれていなかったな。モーリスのことも……」
ぽつりと、苦しげにこぼれる言葉。
ソフィアは、そっとエドモンの肩に手を置いた。
「そんなことありません。旦那様は、アデルを慈しんで育ててくださいました。……モーリスに対しても、あなたは良い兄であったはずですわ」
エドモンは目を細める。眦が、わずかに光る。
「……ソフィア、ありがとう」
「旦那様、これで涙を拭いてくださいな」
ソフィアは穏やかに笑い、ハンカチを差し出した。
「アデルは、元気にしているだろうか」
「元気印のリセラと一緒ですもの。心配ありませんわ」
「ふふ……確かにな」
二人の間に、静かな笑いが生まれる。
窓の外では、朝の風が庭の草を揺らしていた。遠くで、小鳥が鳴いている。
「アデルたちが、いつ帰ってきても良いように、この家は少し手入れをせねばな」
エドモンがゆっくりと立ち上がる。
「ボロ屋を新築にはできないが……せめて、帰ってきたときに恥ずかしくない家にしてやらないと」
「あなた、無理をなさらないでくださいね」
「大丈夫だ。様子を見るだけだよ」
穏やかな笑みを浮かべたまま、エドモンは庭へと出て行った。
古い石段をゆっくりと下り、外壁や庭の様子を確かめる。
(帰ってくる場所は、きちんとしておきたい)
ただ、それだけの気持ちだった。
庭の端にある石積みへ視線を向けた時、足元の石が、わずかにぐらりと動いた。
エドモンは、気づかない。
庭の端で、古くなった石積みが、少しだけ崩れかけていることに。
それは、自然の劣化にも見える。
けれど、つい最近、誰かが触れたような、不自然な形で緩んでいた。
庭に出たエドモンは、ゆっくりと外壁沿いを歩いていた。
朝露に濡れた草が靴先を濡らす。
この家で暮らしてきた年月の重みが、そこかしこに残っている。
「……ここも、直さないとな」
石積みの端に手をかけ、ぐらつきを確かめる。
ほんのわずかに、石が動いた。
古い家だ。珍しいことではない。
だがエドモンは、無意識に眉を寄せた。
(こんなに緩んでいただろうか……)
手を離すと、石は元の位置に戻る。
違和感はある。だが、はっきりとした理由はわからない。
そのときーー。
「旦那様?」
後ろから、ソフィアの声がかかった。
「そんなところ、危のうございますわ」
「ああ、すまない。少し様子を見ていただけだ」
ソフィアはゆっくりと近づき、夫の隣に並ぶ。
「この家は、もともと古かったようですが……いたるところを直す必要がありそうですわ」
「はははっ……私たちと同じだな」
ふたりは、顔を見合わせて小さく笑った。
穏やかな、なんでもない朝の光景だった。
「領民が、格安で譲ってくれた土地と建物だからな…」
「贅沢は言えませんわね」
ソフィアは、ふと視線を落とす。
「……あら?」
石段の下に、小さな靴跡のようなものが残っていた。
泥がまだ乾ききっていない。
「昨日、ここを通ったかしら……?」
「いや、私は来ていない」
ソフィアは首を傾げたが、すぐに笑う。
「きっと、郵便配達の方かしらね」
「そうだな」
二人とも、深くは考えなかった。
それは、気に留めるほどのことではなかったからだ。
けれど――
その足跡は、この家の者のものではなかった。門は、昨夜きちんと閉められていたはずだった。
エドモンは、もう一度石積みに目をやった。
そして、何も言わずに家の中へ戻る。
その背中を、庭の外から、じっと見ている影があったことに、二人は気づかない。
低い生垣の向こう。
通りに面した木立の影。
ほんの一瞬、黒い外套の裾が風に揺れ、すぐに消えた。
静かな朝は、何事もなかったかのように続いていた。
***
翌日の夕刻。
ベルヌー法律事務所に、一通の電報が届いた。
「アデルさん! 急ぎの電報です」
マティアスが足早に駆け寄り、アデルへ手渡す。
差出人は――ドルン男爵邸。
その名を見た瞬間、アデルの手がわずかに震えた。
リセラが思わず声を上げる。
「ど、どうしたんだべか……」
封を切る。
母の整った文字が、目に飛び込んできた。
『お父様が、庭で怪我をなさいました』
「お父様が……怪我をされたようなの……」
読み終えたアデルが、かすれた声で呟く。
「邸の外の石階段が崩れて、頭部の打撲と足を骨折したと……」
「旦那様が?!」
リセラの顔が青ざめる。
マティアスも、心配そうに口を開いた。
「命に別状は……?」
「ええ……意識はしっかりしていると。けれど、足の骨を折っていて動けないそうなの」
アデルは小さく息を吐いた。
(お父様……)
その様子を見つめながら、クロードは静かに目を細める。
胸の奥に、言葉にならない違和感が広がっていた。
ドルン男爵邸は、相変わらず質素な佇まいだ。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、廊下の床板は歩くたびに小さくきしむ。
けれど――この家には、穏やかな空気が流れている。
「ソフィア、これを見てくれ」
書斎で、エドモンが新聞を広げたまま声をかけた。
ソフィアは台所から顔を出し、エプロンの端で手を拭きながら歩いてくる。
「まぁ……裁判の記事ですか?」
「ああ。アデルのことが載っている」
ソフィアはエドモンの肩越しに新聞を覗き込み、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった……本当に」
エドモンは、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
「よい先生と、よい仲間に助けられたのだな」
「ええ。手紙にも、皆さんにとても良くしていただいていると書いてありましたわ」
しばし、紙面を見つめたあと、エドモンの声が低くなる。
「私は……父として、何もしてやれていなかったな。モーリスのことも……」
ぽつりと、苦しげにこぼれる言葉。
ソフィアは、そっとエドモンの肩に手を置いた。
「そんなことありません。旦那様は、アデルを慈しんで育ててくださいました。……モーリスに対しても、あなたは良い兄であったはずですわ」
エドモンは目を細める。眦が、わずかに光る。
「……ソフィア、ありがとう」
「旦那様、これで涙を拭いてくださいな」
ソフィアは穏やかに笑い、ハンカチを差し出した。
「アデルは、元気にしているだろうか」
「元気印のリセラと一緒ですもの。心配ありませんわ」
「ふふ……確かにな」
二人の間に、静かな笑いが生まれる。
窓の外では、朝の風が庭の草を揺らしていた。遠くで、小鳥が鳴いている。
「アデルたちが、いつ帰ってきても良いように、この家は少し手入れをせねばな」
エドモンがゆっくりと立ち上がる。
「ボロ屋を新築にはできないが……せめて、帰ってきたときに恥ずかしくない家にしてやらないと」
「あなた、無理をなさらないでくださいね」
「大丈夫だ。様子を見るだけだよ」
穏やかな笑みを浮かべたまま、エドモンは庭へと出て行った。
古い石段をゆっくりと下り、外壁や庭の様子を確かめる。
(帰ってくる場所は、きちんとしておきたい)
ただ、それだけの気持ちだった。
庭の端にある石積みへ視線を向けた時、足元の石が、わずかにぐらりと動いた。
エドモンは、気づかない。
庭の端で、古くなった石積みが、少しだけ崩れかけていることに。
それは、自然の劣化にも見える。
けれど、つい最近、誰かが触れたような、不自然な形で緩んでいた。
庭に出たエドモンは、ゆっくりと外壁沿いを歩いていた。
朝露に濡れた草が靴先を濡らす。
この家で暮らしてきた年月の重みが、そこかしこに残っている。
「……ここも、直さないとな」
石積みの端に手をかけ、ぐらつきを確かめる。
ほんのわずかに、石が動いた。
古い家だ。珍しいことではない。
だがエドモンは、無意識に眉を寄せた。
(こんなに緩んでいただろうか……)
手を離すと、石は元の位置に戻る。
違和感はある。だが、はっきりとした理由はわからない。
そのときーー。
「旦那様?」
後ろから、ソフィアの声がかかった。
「そんなところ、危のうございますわ」
「ああ、すまない。少し様子を見ていただけだ」
ソフィアはゆっくりと近づき、夫の隣に並ぶ。
「この家は、もともと古かったようですが……いたるところを直す必要がありそうですわ」
「はははっ……私たちと同じだな」
ふたりは、顔を見合わせて小さく笑った。
穏やかな、なんでもない朝の光景だった。
「領民が、格安で譲ってくれた土地と建物だからな…」
「贅沢は言えませんわね」
ソフィアは、ふと視線を落とす。
「……あら?」
石段の下に、小さな靴跡のようなものが残っていた。
泥がまだ乾ききっていない。
「昨日、ここを通ったかしら……?」
「いや、私は来ていない」
ソフィアは首を傾げたが、すぐに笑う。
「きっと、郵便配達の方かしらね」
「そうだな」
二人とも、深くは考えなかった。
それは、気に留めるほどのことではなかったからだ。
けれど――
その足跡は、この家の者のものではなかった。門は、昨夜きちんと閉められていたはずだった。
エドモンは、もう一度石積みに目をやった。
そして、何も言わずに家の中へ戻る。
その背中を、庭の外から、じっと見ている影があったことに、二人は気づかない。
低い生垣の向こう。
通りに面した木立の影。
ほんの一瞬、黒い外套の裾が風に揺れ、すぐに消えた。
静かな朝は、何事もなかったかのように続いていた。
***
翌日の夕刻。
ベルヌー法律事務所に、一通の電報が届いた。
「アデルさん! 急ぎの電報です」
マティアスが足早に駆け寄り、アデルへ手渡す。
差出人は――ドルン男爵邸。
その名を見た瞬間、アデルの手がわずかに震えた。
リセラが思わず声を上げる。
「ど、どうしたんだべか……」
封を切る。
母の整った文字が、目に飛び込んできた。
『お父様が、庭で怪我をなさいました』
「お父様が……怪我をされたようなの……」
読み終えたアデルが、かすれた声で呟く。
「邸の外の石階段が崩れて、頭部の打撲と足を骨折したと……」
「旦那様が?!」
リセラの顔が青ざめる。
マティアスも、心配そうに口を開いた。
「命に別状は……?」
「ええ……意識はしっかりしていると。けれど、足の骨を折っていて動けないそうなの」
アデルは小さく息を吐いた。
(お父様……)
その様子を見つめながら、クロードは静かに目を細める。
胸の奥に、言葉にならない違和感が広がっていた。
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