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屋根裏の小さな部屋。
夜風が入り込み、古い窓枠をかすかに鳴らしている。
アデルとリセラは、小さな木の卓を挟み、椅子に向かい合って座っていた。灯りは小さく、影がゆらゆらと揺れている。
リセラが、ぽつりと呟く。
「……旦那様、大丈夫だべか……」
「命に別状はないと書いてあったけれど……骨折の具合が心配だわ」
アデルは、膝の上でそっと手を握りしめる。
指先に力が入っているのが、自分でもわかった。
「奥様がお一人で看病なさるのも、大変だべなぁ……」
「ええ……お母様が無理をして倒れてしまわないか、それも気がかりなの」
「んだ、んだ……」
小さな相槌のあと、部屋に静けさが戻る。
遠くで、風が草を揺らす音がした。
アデルは、しばらく窓の外を見つめていたが、やがて視線を戻す。
「……明日、先生にきちんと相談してみましょう」
声は静かだが、どこか決意が滲んでいる。
「しばらく、お休みをいただけないか……お願いしてみるわ」
リセラは力強く頷いた。
「お嬢様が帰るなら、わだすも一緒だ。どこへでもついていくだ」
その言葉に、アデルはわずかに微笑む。
不安は消えない。
けれど、ひとりではないことが、ほんの少し心を軽くしていた。
***
翌日。
クロードの執務室。
窓から差し込む光が、机の上の書類を白く照らしている。外のざわめきとは対照的に、この部屋だけは、どこか静まり返っていた。
アデルとリセラは、業務の合間を見計らって、クロードの前に立っている。
「帰郷か……」
アデルの話を聞き終えたクロードは、机の上で指を組んだまま、しばらく何も言わなかった。視線は落ちたまま、思考だけが巡っているのが分かる。
「帰してやりたいのは、山々だが……」
そこでようやく顔を上げる。
表情が、わずかに曇っていた。
「……正直に言う。私は、君のあの転落は“事故”じゃない可能性を、ずっと疑っている」
空気が、はっきりと変わった。
アデルとリセラの視線が、同時にクロードへ集まる。
「確証はない。だが、違和感だけが消えない。階段のこと、工事のこと、時間帯……全部だ」
淡々とした口調だが、その裏にある警戒心は隠しようがない。
リセラも、いつもの表情を消して、真顔になっている。
「先生……」
「いま、いくつかの点が繋がり始めてるところだ。だから、簡単に送り出すわけにはいかない」
それは上司としての言葉だったが、どこかそれ以上の響きを持っていた。
アデルは、静かに頷く。
「先生のお気持ちは、よくわかります。でも……父と母が心配なのです」
迷いと決意が混ざった声だった。
そのとき。
執務室の扉がノックされ、顔を覗かせたのは、いつもの巡回に来ていたロイクだった。
「すまない。盗み聞きをしたわけじゃないが……話は聞こえていた」
「ロイク……」
アデルは目を見開き、その名を呼ぶ。
騎士服に身を包んだロイクは、表情を引き締めて言った。
「俺も先生と同じ意見だ」
ロイクはまっすぐに、アデル、リセラ、そしてクロードを見渡す。
「伯父さんの容態が心配なのはわかる。だが、あの男爵邸は不備が多すぎる」
「ロイク様。確かに古い家だけんど、ラナ村は穏やかな村ですだ」
リセラが遠慮がちに呟く。
ロイクは首を振った。
「だからこそだ。人の良い村人に紛れて、刺客が入り込みやすい」
「そんな……」
アデルの顔色が、さっと失われる。
「俺が護衛として同行できればいいんだが……あいにく、明日から遠征でな」
ロイクは俯き、拳を握りしめた。
「……アデル嬢。ロイクも頼れない状況で、君たちを送り出す返事は――」
クロードが考え込むように口を開く。
「……すぐにはできない」
「先生……」
アデルとリセラが、同時に声を上げた。
クロードは二人をまっすぐに見て、静かに告げる。
「少しだけ、時間をくれないか」
二人は一度、顔を見合わせてから、ゆっくりと頷いた。
*
夜。
執務室で、クロードは一人、机に向かっていた。
だが、手は止まっている。
ふと、扉の向こうに、わずかな気配を感じた。
風でも、人でもない。
それでいて、確かに“誰か”がいる。
クロードは、外に繋がる事務所の扉を、そっと開けた。
そこに立っていたのは――
「……また会ったな」
闇に溶けるように、ノクスが立っていた。
ノクスは、わずかに目を細める。
「俺の気配、わかったのか?」
「確信はない。ただ、違和感があっただけだ」
「ふーん……俺もまだまだだな」
軽い口調だが、その立ち姿には隙がない。
「前から思っていたが……お前は、ただの裏の人間ではないな」
クロードが静かに言うと、ノクスは面白そうに口角を上げた。
「何だと思う?」
試すような声音だった。
「……訓練を受けた人間の動きだ。しかも、ただの訓練ではない。場数を踏んだ程度では、あの身のこなしにはならない」
クロードはわずかに目を細める。
「呼吸の落とし方、気配の消し方、視線の運び方――軍でも騎士団でもない。もっと系統の違う……特殊な訓練だ」
一瞬の沈黙。
ノクスは喉の奥で小さく笑った。
「……さすがだな。見る目がある」
肯定も否定もしない。
その反応自体が答えに近かった。
クロードはさらに踏み込む。
「どこで身につけた?お前のは個人が独学で辿り着ける領域ではない」
ノクスは肩をすくめた。
「世の中にはな、表に出ない場所がいくらでもある。名前も残らず、記録にも残らず、ただ必要だから存在してる場所が」
その言葉には、軽さとは裏腹に妙な重みがあった。
「影は影のままでいいんだよ。光の下に引っ張り出されたら、役目を失う」
クロードは沈黙したままノクスを見つめる。
(……なるほどな)
確信に近い理解が胸に落ちた。
この男は、単なる裏社会の人間ではない。
もっと国家の深い場所に関わる領域の出身だ。
クロードが静かに問い直す。
「私に、そこまで見抜かれて構わないのか?」
ノクスは即答した。
「敵なら、とっくに消してるさ」
にやりと笑う。
「あんたは敵じゃない」
その言葉には、妙に現実味があった。
まるで――本当に消せる立場にいた人間の口調だった。
クロードは、目を細める。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りさ」
ノクスは口角を上げ、続ける。
「アデル嬢たちの帰郷を許可してくれ」
唐突だった。
「なぜだ」
「敵は、彼女達を狙っているからな」
ノクスの声音が、わずかに低くなる。
「……敵を、炙り出す気か?」
「ふふ…話が早いな」
「彼女たちを危険に晒す気はない」
「俺が影から守る」
クロードは、一瞬だけ黙り込む。
「それは、ルイ氏の意向か?」
「そうだ」
ノクスは、それ以上語らない。
「……お前達の意図は…何だ?」
その問いに、ノクスはすぐには答えなかった。
ゆっくりと笑みを深める。
まるで面白いものを見つけたような、余裕のある微笑みだった。
夜風が入り込み、古い窓枠をかすかに鳴らしている。
アデルとリセラは、小さな木の卓を挟み、椅子に向かい合って座っていた。灯りは小さく、影がゆらゆらと揺れている。
リセラが、ぽつりと呟く。
「……旦那様、大丈夫だべか……」
「命に別状はないと書いてあったけれど……骨折の具合が心配だわ」
アデルは、膝の上でそっと手を握りしめる。
指先に力が入っているのが、自分でもわかった。
「奥様がお一人で看病なさるのも、大変だべなぁ……」
「ええ……お母様が無理をして倒れてしまわないか、それも気がかりなの」
「んだ、んだ……」
小さな相槌のあと、部屋に静けさが戻る。
遠くで、風が草を揺らす音がした。
アデルは、しばらく窓の外を見つめていたが、やがて視線を戻す。
「……明日、先生にきちんと相談してみましょう」
声は静かだが、どこか決意が滲んでいる。
「しばらく、お休みをいただけないか……お願いしてみるわ」
リセラは力強く頷いた。
「お嬢様が帰るなら、わだすも一緒だ。どこへでもついていくだ」
その言葉に、アデルはわずかに微笑む。
不安は消えない。
けれど、ひとりではないことが、ほんの少し心を軽くしていた。
***
翌日。
クロードの執務室。
窓から差し込む光が、机の上の書類を白く照らしている。外のざわめきとは対照的に、この部屋だけは、どこか静まり返っていた。
アデルとリセラは、業務の合間を見計らって、クロードの前に立っている。
「帰郷か……」
アデルの話を聞き終えたクロードは、机の上で指を組んだまま、しばらく何も言わなかった。視線は落ちたまま、思考だけが巡っているのが分かる。
「帰してやりたいのは、山々だが……」
そこでようやく顔を上げる。
表情が、わずかに曇っていた。
「……正直に言う。私は、君のあの転落は“事故”じゃない可能性を、ずっと疑っている」
空気が、はっきりと変わった。
アデルとリセラの視線が、同時にクロードへ集まる。
「確証はない。だが、違和感だけが消えない。階段のこと、工事のこと、時間帯……全部だ」
淡々とした口調だが、その裏にある警戒心は隠しようがない。
リセラも、いつもの表情を消して、真顔になっている。
「先生……」
「いま、いくつかの点が繋がり始めてるところだ。だから、簡単に送り出すわけにはいかない」
それは上司としての言葉だったが、どこかそれ以上の響きを持っていた。
アデルは、静かに頷く。
「先生のお気持ちは、よくわかります。でも……父と母が心配なのです」
迷いと決意が混ざった声だった。
そのとき。
執務室の扉がノックされ、顔を覗かせたのは、いつもの巡回に来ていたロイクだった。
「すまない。盗み聞きをしたわけじゃないが……話は聞こえていた」
「ロイク……」
アデルは目を見開き、その名を呼ぶ。
騎士服に身を包んだロイクは、表情を引き締めて言った。
「俺も先生と同じ意見だ」
ロイクはまっすぐに、アデル、リセラ、そしてクロードを見渡す。
「伯父さんの容態が心配なのはわかる。だが、あの男爵邸は不備が多すぎる」
「ロイク様。確かに古い家だけんど、ラナ村は穏やかな村ですだ」
リセラが遠慮がちに呟く。
ロイクは首を振った。
「だからこそだ。人の良い村人に紛れて、刺客が入り込みやすい」
「そんな……」
アデルの顔色が、さっと失われる。
「俺が護衛として同行できればいいんだが……あいにく、明日から遠征でな」
ロイクは俯き、拳を握りしめた。
「……アデル嬢。ロイクも頼れない状況で、君たちを送り出す返事は――」
クロードが考え込むように口を開く。
「……すぐにはできない」
「先生……」
アデルとリセラが、同時に声を上げた。
クロードは二人をまっすぐに見て、静かに告げる。
「少しだけ、時間をくれないか」
二人は一度、顔を見合わせてから、ゆっくりと頷いた。
*
夜。
執務室で、クロードは一人、机に向かっていた。
だが、手は止まっている。
ふと、扉の向こうに、わずかな気配を感じた。
風でも、人でもない。
それでいて、確かに“誰か”がいる。
クロードは、外に繋がる事務所の扉を、そっと開けた。
そこに立っていたのは――
「……また会ったな」
闇に溶けるように、ノクスが立っていた。
ノクスは、わずかに目を細める。
「俺の気配、わかったのか?」
「確信はない。ただ、違和感があっただけだ」
「ふーん……俺もまだまだだな」
軽い口調だが、その立ち姿には隙がない。
「前から思っていたが……お前は、ただの裏の人間ではないな」
クロードが静かに言うと、ノクスは面白そうに口角を上げた。
「何だと思う?」
試すような声音だった。
「……訓練を受けた人間の動きだ。しかも、ただの訓練ではない。場数を踏んだ程度では、あの身のこなしにはならない」
クロードはわずかに目を細める。
「呼吸の落とし方、気配の消し方、視線の運び方――軍でも騎士団でもない。もっと系統の違う……特殊な訓練だ」
一瞬の沈黙。
ノクスは喉の奥で小さく笑った。
「……さすがだな。見る目がある」
肯定も否定もしない。
その反応自体が答えに近かった。
クロードはさらに踏み込む。
「どこで身につけた?お前のは個人が独学で辿り着ける領域ではない」
ノクスは肩をすくめた。
「世の中にはな、表に出ない場所がいくらでもある。名前も残らず、記録にも残らず、ただ必要だから存在してる場所が」
その言葉には、軽さとは裏腹に妙な重みがあった。
「影は影のままでいいんだよ。光の下に引っ張り出されたら、役目を失う」
クロードは沈黙したままノクスを見つめる。
(……なるほどな)
確信に近い理解が胸に落ちた。
この男は、単なる裏社会の人間ではない。
もっと国家の深い場所に関わる領域の出身だ。
クロードが静かに問い直す。
「私に、そこまで見抜かれて構わないのか?」
ノクスは即答した。
「敵なら、とっくに消してるさ」
にやりと笑う。
「あんたは敵じゃない」
その言葉には、妙に現実味があった。
まるで――本当に消せる立場にいた人間の口調だった。
クロードは、目を細める。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りさ」
ノクスは口角を上げ、続ける。
「アデル嬢たちの帰郷を許可してくれ」
唐突だった。
「なぜだ」
「敵は、彼女達を狙っているからな」
ノクスの声音が、わずかに低くなる。
「……敵を、炙り出す気か?」
「ふふ…話が早いな」
「彼女たちを危険に晒す気はない」
「俺が影から守る」
クロードは、一瞬だけ黙り込む。
「それは、ルイ氏の意向か?」
「そうだ」
ノクスは、それ以上語らない。
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その問いに、ノクスはすぐには答えなかった。
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