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ルイの執務室。
夜更けの静けさの中、机の上の書類だけが淡く灯りに照らされていた。
「……馬車代は、自分が払うと?」
低く問い返すルイに、ノクスは肩をすくめる。
「ああ。しかも、こんなに渡してきた」
ノクスはそう言って、クロードから受け取った金貨の袋を、そのままルイの机の上に放り投げた。
じゃらりと、袋の中で金貨がぶつかり合う鈍い音が鳴る。
その音に、ルイの視線が落ちる。
袋の膨らみを見て、ルイは一瞬、言葉を失った。
これは支払いではない。
アデルを無事に帰すためなら、どこまででも踏み込むという――
彼自身の覚悟が、重さになってそこに置かれていた。
胸の奥が、きし、と音を立てた気がした。
(……やはり、ベルヌー氏は)
脳裏に浮かぶのは、葬儀の日の光景だ。
黒衣に身を包んだクロード。
アデルの傍らに立ち、静かに、だが確かに寄り添っていた男。
その眼差しに――
ただの職務以上の、熱を感じた。
そして、アデルの方も。
拒んではいなかった。
悪感情どころか、どこか安堵すら滲ませていた。
(……いや)
ルイは、内心で自らを切り捨てる。
(何を考えている。私には、そんなことを気にする資格など――)
とうに、失っている。
「ルイ」
沈黙を破ったのは、ノクスだった。
「ベルヌーは、本物だ」
「……ノクス?」
「覚悟も、責任も、覚え方が違う。ああいう男はな、守ると決めたら、最後まで離さない」
ルイの表情が、微かに硬くなる。
「……彼女が、どう選ぶか。見ものだな」
ノクスは、わざと軽い調子で続けた。
ルイは、ゆっくりと顔を上げる。
感情を削ぎ落とした瞳で、ノクスを射抜いた。
「……何が言いたい」
「おお、怖っ」
ノクスは両手を上げ、大袈裟に後ずさる。
「悪い悪い。ほら、今日は穏やかな話題にしようぜ?」
だが、その軽口の裏に、逃げはなかった。ルイは何も言わず、再び視線を机へ落とす。
胸の奥で、何かが静かに疼いていた。
ルイは、そっと瞳を閉じた。
自分が選んだ道の、その先にある痛みを、今さら否定するつもりはなかった。
ノクスは、ふっと気配を薄くした。
「……ヤツが来るな。俺はこの辺で失礼する。あの二人を追う」
それだけ言い残し、影は溶けるように消えた。
静寂が戻る。
ルイがペンを取り上げた、そのときだった。控えめなノック音が響いた。
「――ルイ様」
柔らかな声とともに、扉がわずかに開く。
立っていたのは、リゼットだった。
ルイは一瞬だけ視線を伏せ、先ほどまでの硬さをきれいに消す。
次に顔を上げたとき、そこにあったのは、誰の目にも優しい夫の微笑みだった。
「ああ、どうしたんだい?」
「お忙しいですか?お邪魔でしたら、すぐに――」
「…いいや。構わないよ」
リゼットはほっとしたように小さく息をつき、室内に入る。
「あの……お父様が扱っていらした土地の件ですが」
その言葉に、ルイの指先がほんのわずかに止まる。だが、それを悟らせることはなかった。
「どうされているのかしら、と……」
リゼットは不安げに瞳を伏せる。
「お父様が亡くなられてから、すべてをルイ様お一人で背負っていらっしゃるように見えて……」
静かな声音で、労わりに満ちた、伯爵夫人として申し分のない態度だった。
「私も、妻として……伯爵夫人として、何かお手伝いできることがあればと思っているんです」
ルイは椅子に深く腰を掛けたまま、穏やかに首を振った。
「……君が案じることはないよ」
声は低く、落ち着いていた。
「土地の件は、すでに整理に入っている。君が気に病む必要はない」
「……そう、ですか?」
リゼットはほっとしたように微笑んだが、その視線はすぐに伏せられた。
胸の前で指先を重ね、ほんの一瞬、逡巡する間を置く。
そして、ためらうように、もう一度口を開いた。
「……本当に、何もお手伝いできませんか?」
声音は柔らかい。
だが、その奥には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「お父様が生前、気にされていた土地ですもの。もし問題が残っているなら、私も把握しておきたいのです」
ルイは、ゆっくりとリゼットを見る。
逃げ道を塞ぐ言い方。
それでいて、“妻として当然”の顔をした申し出だった。
(――そう来たか)
内心でそう呟きながらも、表情には出さない。
「把握、か」
低く、穏やかな声。
「義父上の名が絡む以上、君が気になるのも無理はない」
その一言に、リゼットの瞳がわずかに明るむ。
「では――」
「だが……君にとっては、大きな負担になるのではと心配なんだ」
ルイは、そこで言葉を切った。
そして、柔らかな笑みを浮かべて続ける。
「執務経験のない君に、任せても良いだろうか?」
「ルイ様……私なら、大丈夫です」
少しだけ、言葉に力がこもる。
「地理や法律の成績も悪くありませんでしたし、土地に詳しい貴族学校時代の友人たちとも、今も交流があります」
「ふふ……意外だな。君の人脈が」
含みのある笑みに、リゼットは一瞬だけ息を詰め、慌てて言葉を重ねた。
「あ、でも……ルイ様やお姉様には及びませんわ。お二人は、優秀な貴族学園をご卒業ですもの」
「……そこまで言うのなら」
ルイは、少し考えるような間を置いてから、穏やかに告げた。
「リゼットに、任せてみよう」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、くれぐれも無理はしないでほしい。何かあれば、私も協力を惜しまないから」
リゼットは、胸に手を当て、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
その笑みの奥に、安堵と――わずかな昂りが混じっていることを、ルイは見逃さなかった。
夜更けの静けさの中、机の上の書類だけが淡く灯りに照らされていた。
「……馬車代は、自分が払うと?」
低く問い返すルイに、ノクスは肩をすくめる。
「ああ。しかも、こんなに渡してきた」
ノクスはそう言って、クロードから受け取った金貨の袋を、そのままルイの机の上に放り投げた。
じゃらりと、袋の中で金貨がぶつかり合う鈍い音が鳴る。
その音に、ルイの視線が落ちる。
袋の膨らみを見て、ルイは一瞬、言葉を失った。
これは支払いではない。
アデルを無事に帰すためなら、どこまででも踏み込むという――
彼自身の覚悟が、重さになってそこに置かれていた。
胸の奥が、きし、と音を立てた気がした。
(……やはり、ベルヌー氏は)
脳裏に浮かぶのは、葬儀の日の光景だ。
黒衣に身を包んだクロード。
アデルの傍らに立ち、静かに、だが確かに寄り添っていた男。
その眼差しに――
ただの職務以上の、熱を感じた。
そして、アデルの方も。
拒んではいなかった。
悪感情どころか、どこか安堵すら滲ませていた。
(……いや)
ルイは、内心で自らを切り捨てる。
(何を考えている。私には、そんなことを気にする資格など――)
とうに、失っている。
「ルイ」
沈黙を破ったのは、ノクスだった。
「ベルヌーは、本物だ」
「……ノクス?」
「覚悟も、責任も、覚え方が違う。ああいう男はな、守ると決めたら、最後まで離さない」
ルイの表情が、微かに硬くなる。
「……彼女が、どう選ぶか。見ものだな」
ノクスは、わざと軽い調子で続けた。
ルイは、ゆっくりと顔を上げる。
感情を削ぎ落とした瞳で、ノクスを射抜いた。
「……何が言いたい」
「おお、怖っ」
ノクスは両手を上げ、大袈裟に後ずさる。
「悪い悪い。ほら、今日は穏やかな話題にしようぜ?」
だが、その軽口の裏に、逃げはなかった。ルイは何も言わず、再び視線を机へ落とす。
胸の奥で、何かが静かに疼いていた。
ルイは、そっと瞳を閉じた。
自分が選んだ道の、その先にある痛みを、今さら否定するつもりはなかった。
ノクスは、ふっと気配を薄くした。
「……ヤツが来るな。俺はこの辺で失礼する。あの二人を追う」
それだけ言い残し、影は溶けるように消えた。
静寂が戻る。
ルイがペンを取り上げた、そのときだった。控えめなノック音が響いた。
「――ルイ様」
柔らかな声とともに、扉がわずかに開く。
立っていたのは、リゼットだった。
ルイは一瞬だけ視線を伏せ、先ほどまでの硬さをきれいに消す。
次に顔を上げたとき、そこにあったのは、誰の目にも優しい夫の微笑みだった。
「ああ、どうしたんだい?」
「お忙しいですか?お邪魔でしたら、すぐに――」
「…いいや。構わないよ」
リゼットはほっとしたように小さく息をつき、室内に入る。
「あの……お父様が扱っていらした土地の件ですが」
その言葉に、ルイの指先がほんのわずかに止まる。だが、それを悟らせることはなかった。
「どうされているのかしら、と……」
リゼットは不安げに瞳を伏せる。
「お父様が亡くなられてから、すべてをルイ様お一人で背負っていらっしゃるように見えて……」
静かな声音で、労わりに満ちた、伯爵夫人として申し分のない態度だった。
「私も、妻として……伯爵夫人として、何かお手伝いできることがあればと思っているんです」
ルイは椅子に深く腰を掛けたまま、穏やかに首を振った。
「……君が案じることはないよ」
声は低く、落ち着いていた。
「土地の件は、すでに整理に入っている。君が気に病む必要はない」
「……そう、ですか?」
リゼットはほっとしたように微笑んだが、その視線はすぐに伏せられた。
胸の前で指先を重ね、ほんの一瞬、逡巡する間を置く。
そして、ためらうように、もう一度口を開いた。
「……本当に、何もお手伝いできませんか?」
声音は柔らかい。
だが、その奥には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「お父様が生前、気にされていた土地ですもの。もし問題が残っているなら、私も把握しておきたいのです」
ルイは、ゆっくりとリゼットを見る。
逃げ道を塞ぐ言い方。
それでいて、“妻として当然”の顔をした申し出だった。
(――そう来たか)
内心でそう呟きながらも、表情には出さない。
「把握、か」
低く、穏やかな声。
「義父上の名が絡む以上、君が気になるのも無理はない」
その一言に、リゼットの瞳がわずかに明るむ。
「では――」
「だが……君にとっては、大きな負担になるのではと心配なんだ」
ルイは、そこで言葉を切った。
そして、柔らかな笑みを浮かべて続ける。
「執務経験のない君に、任せても良いだろうか?」
「ルイ様……私なら、大丈夫です」
少しだけ、言葉に力がこもる。
「地理や法律の成績も悪くありませんでしたし、土地に詳しい貴族学校時代の友人たちとも、今も交流があります」
「ふふ……意外だな。君の人脈が」
含みのある笑みに、リゼットは一瞬だけ息を詰め、慌てて言葉を重ねた。
「あ、でも……ルイ様やお姉様には及びませんわ。お二人は、優秀な貴族学園をご卒業ですもの」
「……そこまで言うのなら」
ルイは、少し考えるような間を置いてから、穏やかに告げた。
「リゼットに、任せてみよう」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、くれぐれも無理はしないでほしい。何かあれば、私も協力を惜しまないから」
リゼットは、胸に手を当て、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
その笑みの奥に、安堵と――わずかな昂りが混じっていることを、ルイは見逃さなかった。
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