奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 リゼットは、鏡の前で指先を整えていた。

 喪に服した黒のドレスは、よく似合っている。
 過度に装飾のない、控えめな仕立て。
 哀悼を示すには、ちょうどいい。

(……問題ないわ)

 鏡の中の自分は、完璧だった。
 目元は少し伏せがちに、唇は色を抑え、呼吸も浅く整えている。

 悲しみは――演じられている。

 あの人たちは、これで信じる。
 “可哀想な伯爵夫人”。両親を同時に亡くし、気丈に振る舞う若妻。

 ――ふふ。

 胸の奥で、微かな笑いが弾いた。

 哀れだと思われるのは、嫌いじゃない。
 むしろ、好都合だ。

(だって……私は、何も悪くないもの)

 リゼットは、鏡の中の自分を静かに見つめていた。

 涙が滲んで見える角度。
 少しだけ伏せた睫毛。
 口元に残る、かすかな震え。

 どれも――意識しなくても、自然にできる。

 鏡越しに見えるその顔は、可哀想な妻の顔だった。夫を案じ、家の重責を分かち合おうとする、健気な伯爵夫人。

 けれど。

 その奥にあるものは、悲しみでも、後悔でもない。ただ、澄みきった――冷たいほどに静かな意識だった。

 リゼットは、ふっと瞬きをした。

(私は、ちゃんと役目を果たしている)

 淡く金色に光る結婚指輪へ、視線が落ちる。

(ルイ様……)

 愛する夫。従姉妹であるアデルが、先に出会っていたことは知っている。
 幼い頃から、ずっと一緒に遊んでいたことも。

 でも――
 “選ばれた”のは、自分だ。

 そこに、疑いはない。
 彼女の中で、過去はいつも整理されている。感情ではなく、結果として。

 ふと、遠い記憶が浮かび上がった。



***


――ドルン男爵家は、いつも静かだった。

 父・モーリスは、愚痴や疲労を口にすることはあっても、子供たちに声を荒げることはない。ましてや、手を上げるような人間でもなかった。

 生活に対する苛立ちを、完全に隠しきれてはいなかったが、それもせいぜい溜息や独り言として零れる程度だった。

 母・ヴァレリアも同じだ。
 見栄を張り、感情を飾ることはあっても、家庭を壊すほど愚かではない。
 過度な浪費に溺れることもなく、軽率な噂を立てられるような振る舞いもしなかった。

 二人は、よくある“出来損ないの親”ではなかった。
 むしろ、子供たちには必要な愛情を与え、貴族として最低限の体裁も、きちんと守っていた。

 ただ――
 どこかが、決定的に噛み合っていなかった。

(無駄が多いのよ)

 幼い頃から、リゼットはそう思っていた。

 父は、兄であるエドモン伯爵を妬み、羨みながらも、正面から争おうとはしない。
 母は、現状への不満を口にしながら、それ以上を望もうとはせず、結局はすべてを受け入れている。

 今の生活に不満はある。
 だが、それを打破しようとする気概が、両親にはなかった。

(どうして、そこまで分かっていて、動かないのかしら?)

 怒りもしない。
 壊しもしない。
 選び直そうともしない。

 リゼットにとって、それは“感情”というより、理解不能な停滞だった。

 ドルン男爵家の屋敷は、決して貧しくはない。だが、贅沢を楽しめるほどの豊かさもない。

 父が伯父の家――モントレー伯爵家から仕事を回され、その対価として給金を得ていることも、幼いながらに知っていた。

 “借り”のある立場。
 “下”に置かれた関係。

 それを、陰では不満として零しながら、両親は当たり前のように受け入れている。

(……変なの)

 誰かに奪われたわけでもない。
 虐げられているわけでもない。

 ただ――
 選ばれていないだけ。

 それなのに、怒らない。
 奪い返そうともしない。

(……理解できない)

 リゼットは、父や母を憎んでいたわけではなかった。軽蔑していたわけでもない。

 ただ――
 この家で、自分が学べることはもう無い。
 そう、早々に結論づけていただけだった。

 だから、彼女は外を見る。

 より大きな家。
 より強い立場。
 より“使える”人間。

 そして――
 よく訪れる、モントレー伯爵家。

 あの家には、この家に“ないもの”が、すべて揃っているように見えた。


***


 モントレー伯爵家を訪れるたびに、リゼットは周囲を注意深く観察していた。

 派手さはないが質の良い家具が揃い、庭は常に手入れが行き届いている。
 
 使用人たちの動きにも、焦りや萎縮は見られなかった。
 命令を待つのではなく、それぞれが自分の役割を理解し、自然に動いている。

 それらすべてが、ドルン男爵家とは決定的に異なっていた。

 そして、いつもその空間の中心にいるのがアデルだった。

 朗らかに笑い、遠慮なく走り回り、誰に対しても気後れせず声をかける。
 使用人にも来客にも同じ調子で接し、自然と周囲から可愛がられていた。

 伯爵家の令嬢としては、あまりにも無防備に見えた。

(……アデルって、本当に能天気ね)

 リゼットはそう判断した。

 アデルは大切に育てられていた。
 それは疑いようがない。
 家族も、周囲の大人たちも、当たり前のように彼女を中心に気を配っている。

 その環境が、彼女から警戒心を奪っていた。疑う必要のない世界で生きている人間だと、リゼットには思えた。

 庭でアデルが転びそうになったときも、周囲の大人たちは即座に駆け寄った。

「大丈夫?」「怪我はない?」

 そんな声に包まれながら、アデルは照れたように笑う。

「大丈夫よ、これくらい」

 その光景を、リゼットは少し離れた場所から眺めていた。

 胸が痛んだわけではない。
 羨ましさを覚えたわけでもなかった。
 ただ、静かに線を引いただけだった。

(この人は、守られる側なのね)

 アデルは、多くのものをすでに持っている。地位も、環境も、周囲からの信頼も。そして何より、人を疑わない心を。

 自分とは違う。

 守られる者は、奪う側にはなれない。
 疑わない者は、選ぶ立場に立てない。
 リゼットの中では、それはごく自然な認識だった。

 アデルは素直で、優しい。
 だからこそ、扱いやすい。

 その結論に、感情は伴わなかった。
 ただの分類であり、整理だった。

 そのとき、アデルが振り返り、リゼットに気づいて微笑んだ。

「リゼット、一緒に来る?」

 無邪気な声だった。

 リゼットは一瞬だけ迷い、それから完璧な笑みを浮かべた。

「はい、お姉さま」

 小さな手でそっとアデルの袖を掴む。
 その仕草は、甘えにも、好意にも見えただろう。

 だが、リゼットの内側では、すでに結論が出ていた。

(せいぜい、私をよくしてね)

 その日、リゼットは理解した。
 この家から学ぶことは、多くない。
 だが、この家には利用価値がある。

 そして、その中心にいるアデルは、最も扱いやすい存在なのだと。


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