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モントレー伯爵家の邸では、その日、貴族学園中等部への入学を祝う小さな宴が開かれていた。
招かれたのは、ごく親しい人々だけ。
大広間には過度な装飾はなく、花も控えめに生けられている。
だが、屋敷全体には穏やかな高揚が満ちていた。
主役であるアデルは、簡素な紺色のワンピースに身を包んでいた。
装飾は少なく、刺繍も最小限のあくまで「よそゆき」として選ばれた一着だ。
華やかさよりも動きやすさを優先した装いは、彼女の性格をそのまま映している。
それでも、生地の質と仕立ての良さが、伯爵家の令嬢であることを静かに主張していた。
「お姉様、ご入学おめでとうございます」
リゼットが丁寧に頭を下げる。
淡いピンクのドレスに身を包み、派手さはないが、上質な布地が柔らかく光を含み、彼女の白い肌によく映える。
肩や胸元の線は慎ましく、それでいて計算された美しさがある。「目立たないが、目に残る」――そんな装いだった。
「ありがとう、リゼット」
アデルは柔らかく微笑んだ。
十三歳になった彼女は、幼い頃の無邪気なお転婆さを残しつつも、どこか落ち着いた佇まいを身につけていた。
他の出席者に呼ばれたアデルは、少し名残惜しそうに言う。
「ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
リゼットは美しい笑みを浮かべ、静かに礼を返した。
傍から見れば、仲の良い従姉妹同士の、何気ないやりとりだった。
アデルが人の輪の方へ移動していくのを、リゼットはその場に留まったまま見送る。
その視線は慎ましく、穏やかで――
(……アデル)
胸の内で、名を呼ぶ。
勉学にも励み、領民とともに汗を流すことも厭わない令嬢。伯爵家の跡取りとして、順当に成長している。
(平民のために汗を流せるなんて……やっぱり、変わり者)
その評価には、どこか冷えたものが混じった。
その瞬間だった。
「リゼット嬢?」
背後から、声がかかる。
振り返ると、そこに立っていたのはルイだった。
きちんと整えた装いで会場に立っていた。
濃色の上着に、きれいに結ばれたクラヴァット。かつてはアデルと同じくらいだった背丈は、いつの間にか大きく伸び、すでに少年というより青年の輪郭を帯び始めていた。
一瞬、リゼットの胸がひくりと揺れた。
(……今の表情、見られた?)
だが、動揺は見せない。
すぐに柔らかな微笑を作る。
「ルイ様。お久しぶりです」
「ああ、本当に。久しぶりだね」
穏やかに応じてから、周囲を見渡す。
「アデルを見なかった?」
「お姉様でしたら、あちらにいらっしゃいますわ」
そう言って、アデルが去った方向へ視線を向ける。
人々に囲まれ、楽しそうに会話をしているアデルの姿が見えた。
「……入り込めそうもないな」
苦笑まじりに呟くルイに、リゼットは控えめに首を振る。
「まさか。ルイ様でしたら、きっと大丈夫ですわ」
そして、ほんの少し声を落として続けた。
「お姉様は、本当に人気者ですもの。こうして、たくさんの方に囲まれて……
それに比べて、私なんて……」
言葉を途中で止め、俯く。
儚げな仕草。か弱さを滲ませた声音。
――それは、ルイを引き留めるための、計算だった。
「……あんな瞳をしていたら……」
ルイが、ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「……え?」
思わず、リゼットは聞き返してしまう。
ルイは一瞬だけ言葉を止め、すぐに何事もなかったように微笑んだ。
「いや、なんでもない」
そして、自然な調子で手を差し出す。
「さあ、僕と一緒にアデルのところへ行こう」
その言葉に、リゼットは一瞬だけ間を置き――
「……はい」
静かに応じた。
その胸の奥で、ほんのかすかな違和感が、まだ名も持たぬまま残っていることを、彼女はまだ、意識しないふりをしていた。
***
ある日の休日。
モントレー伯爵邸の図書室には、午後の光が静かに差し込んでいた。
大きな机の上には分厚い教本と書きかけのノートが並び、インクの匂いがほのかに漂っている。
「この設問、ここで一度、前提を疑ったほうがいいわ」
アデルがページを指で押さえながら言う。
「確かに……条件をそのまま受け取ると、矛盾が出るね」
向かいに座るルイが、静かに頷く。
二人の間に、余計な言葉はなかった。
理解が早く、思考の筋道もよく似ている。
――そのとき。
控えめなノックの音がして、扉がわずかに開いた。
「お姉様とルイ様がお勉強中なのに……来てしまってごめんなさい。わたしも勉強が、したくて…」
リゼットが申し訳なさそうな表情で、図書室に足を踏み入れる。
「リゼット」
アデルが顔を上げ、すぐに微笑んだ。
「いいのよ。あなたも勉強をしたいのね?」
「はい……でも、お邪魔でしょうか?」
「そんなことないわ。一緒に勉強しましょう」
アデルの声掛けに、リゼットは一瞬だけ目を瞬かせた。
「お姉様、ありがとうございます」
その様子を見ていたルイが、自然な調子で口を挟む。
「……リゼット嬢は、何か勉強道具を持って来ているかい?」
責める響きはなく、同じ机に向かうなら当然の確認だった。
リゼットは、ゆっくりと視線を伏せる。
「いいえ……今日は、その……お姉様の横で、本を読ませていただこうと思って……」
言葉を選び、少しだけ儚げに俯く。
その仕草は、彼女が貴族学校で身につけた“正解”だった。守られるための、最も安全な立ち位置。
「それなら、好きな本を持ってきて、ここで読むといいわ」
アデルはにこやかに答えた。
「リゼット嬢が退屈しないなら……それでいい」
ルイは穏やかに、しかし距離を崩さずに言う。
その瞬間、リゼットの胸の奥で、かすかな違和感が生まれた。
彼は、学園の令息たちと違う。
庇おうともしない。
特別扱いもしない。
それでいて、冷たくもない。
リゼットが通う貴族学校では、彼女が何もしなくても守られた。
可憐で、控えめでいるだけで、周囲は先回りして配慮した。
だが、ここでは違う。
リゼットは小さく息を整え、微笑みを浮かべる。
「では……本を持ってきますわ」
本棚へ向かう彼女の背後で、二人は自然と勉強に戻っていた。
「続きをやりましょう。次は、この証明ね」
「そうだね」
二人の声は、静かに重なった。
リゼットは歩きながら、先ほどの声を思い返していた。
それをどう受け取ればいいのか、まだ判断がつかなかった。
招かれたのは、ごく親しい人々だけ。
大広間には過度な装飾はなく、花も控えめに生けられている。
だが、屋敷全体には穏やかな高揚が満ちていた。
主役であるアデルは、簡素な紺色のワンピースに身を包んでいた。
装飾は少なく、刺繍も最小限のあくまで「よそゆき」として選ばれた一着だ。
華やかさよりも動きやすさを優先した装いは、彼女の性格をそのまま映している。
それでも、生地の質と仕立ての良さが、伯爵家の令嬢であることを静かに主張していた。
「お姉様、ご入学おめでとうございます」
リゼットが丁寧に頭を下げる。
淡いピンクのドレスに身を包み、派手さはないが、上質な布地が柔らかく光を含み、彼女の白い肌によく映える。
肩や胸元の線は慎ましく、それでいて計算された美しさがある。「目立たないが、目に残る」――そんな装いだった。
「ありがとう、リゼット」
アデルは柔らかく微笑んだ。
十三歳になった彼女は、幼い頃の無邪気なお転婆さを残しつつも、どこか落ち着いた佇まいを身につけていた。
他の出席者に呼ばれたアデルは、少し名残惜しそうに言う。
「ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
リゼットは美しい笑みを浮かべ、静かに礼を返した。
傍から見れば、仲の良い従姉妹同士の、何気ないやりとりだった。
アデルが人の輪の方へ移動していくのを、リゼットはその場に留まったまま見送る。
その視線は慎ましく、穏やかで――
(……アデル)
胸の内で、名を呼ぶ。
勉学にも励み、領民とともに汗を流すことも厭わない令嬢。伯爵家の跡取りとして、順当に成長している。
(平民のために汗を流せるなんて……やっぱり、変わり者)
その評価には、どこか冷えたものが混じった。
その瞬間だった。
「リゼット嬢?」
背後から、声がかかる。
振り返ると、そこに立っていたのはルイだった。
きちんと整えた装いで会場に立っていた。
濃色の上着に、きれいに結ばれたクラヴァット。かつてはアデルと同じくらいだった背丈は、いつの間にか大きく伸び、すでに少年というより青年の輪郭を帯び始めていた。
一瞬、リゼットの胸がひくりと揺れた。
(……今の表情、見られた?)
だが、動揺は見せない。
すぐに柔らかな微笑を作る。
「ルイ様。お久しぶりです」
「ああ、本当に。久しぶりだね」
穏やかに応じてから、周囲を見渡す。
「アデルを見なかった?」
「お姉様でしたら、あちらにいらっしゃいますわ」
そう言って、アデルが去った方向へ視線を向ける。
人々に囲まれ、楽しそうに会話をしているアデルの姿が見えた。
「……入り込めそうもないな」
苦笑まじりに呟くルイに、リゼットは控えめに首を振る。
「まさか。ルイ様でしたら、きっと大丈夫ですわ」
そして、ほんの少し声を落として続けた。
「お姉様は、本当に人気者ですもの。こうして、たくさんの方に囲まれて……
それに比べて、私なんて……」
言葉を途中で止め、俯く。
儚げな仕草。か弱さを滲ませた声音。
――それは、ルイを引き留めるための、計算だった。
「……あんな瞳をしていたら……」
ルイが、ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「……え?」
思わず、リゼットは聞き返してしまう。
ルイは一瞬だけ言葉を止め、すぐに何事もなかったように微笑んだ。
「いや、なんでもない」
そして、自然な調子で手を差し出す。
「さあ、僕と一緒にアデルのところへ行こう」
その言葉に、リゼットは一瞬だけ間を置き――
「……はい」
静かに応じた。
その胸の奥で、ほんのかすかな違和感が、まだ名も持たぬまま残っていることを、彼女はまだ、意識しないふりをしていた。
***
ある日の休日。
モントレー伯爵邸の図書室には、午後の光が静かに差し込んでいた。
大きな机の上には分厚い教本と書きかけのノートが並び、インクの匂いがほのかに漂っている。
「この設問、ここで一度、前提を疑ったほうがいいわ」
アデルがページを指で押さえながら言う。
「確かに……条件をそのまま受け取ると、矛盾が出るね」
向かいに座るルイが、静かに頷く。
二人の間に、余計な言葉はなかった。
理解が早く、思考の筋道もよく似ている。
――そのとき。
控えめなノックの音がして、扉がわずかに開いた。
「お姉様とルイ様がお勉強中なのに……来てしまってごめんなさい。わたしも勉強が、したくて…」
リゼットが申し訳なさそうな表情で、図書室に足を踏み入れる。
「リゼット」
アデルが顔を上げ、すぐに微笑んだ。
「いいのよ。あなたも勉強をしたいのね?」
「はい……でも、お邪魔でしょうか?」
「そんなことないわ。一緒に勉強しましょう」
アデルの声掛けに、リゼットは一瞬だけ目を瞬かせた。
「お姉様、ありがとうございます」
その様子を見ていたルイが、自然な調子で口を挟む。
「……リゼット嬢は、何か勉強道具を持って来ているかい?」
責める響きはなく、同じ机に向かうなら当然の確認だった。
リゼットは、ゆっくりと視線を伏せる。
「いいえ……今日は、その……お姉様の横で、本を読ませていただこうと思って……」
言葉を選び、少しだけ儚げに俯く。
その仕草は、彼女が貴族学校で身につけた“正解”だった。守られるための、最も安全な立ち位置。
「それなら、好きな本を持ってきて、ここで読むといいわ」
アデルはにこやかに答えた。
「リゼット嬢が退屈しないなら……それでいい」
ルイは穏やかに、しかし距離を崩さずに言う。
その瞬間、リゼットの胸の奥で、かすかな違和感が生まれた。
彼は、学園の令息たちと違う。
庇おうともしない。
特別扱いもしない。
それでいて、冷たくもない。
リゼットが通う貴族学校では、彼女が何もしなくても守られた。
可憐で、控えめでいるだけで、周囲は先回りして配慮した。
だが、ここでは違う。
リゼットは小さく息を整え、微笑みを浮かべる。
「では……本を持ってきますわ」
本棚へ向かう彼女の背後で、二人は自然と勉強に戻っていた。
「続きをやりましょう。次は、この証明ね」
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