奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ドルン男爵邸。
 朝の食堂には、控えめな光が差し込んでいた。

 磨き込まれた食卓は、決して豪奢ではない。
 だが、日々きちんと手入れされ、古いながらも秩序が保たれている。
 銀食器も、白磁の皿も、どれも“身の丈に合った”ものばかりだった。

 その中央で、家族四人が朝食を囲んでいる。

 父・モーリスは、少し疲れた表情で新聞を畳み、母・ヴァレリアは、淡い色のローブをまとい、紅茶に砂糖を落としていた。

 弟のロイクは、まだ眠たげにパンをちぎり、そして――リゼットは、背筋を伸ばし、静かに食事を進めている。

 音を立てず、所作に無駄がない。
 まだ十三歳ながら、その振る舞いはすでに“完成”していた。

「リゼット、学校には慣れたか?」

 父であるモーリスが、何気ない調子で口を開く。

 リゼットは、ナプキンで口元を軽く押さえてから、控えめに答えた。

「はい。だいぶ慣れてきました」

 声は柔らかく、角がない。
 だが、その中に迷いは含まれていない。

「そうか。勉強の方は、心配しとらんからな」

 モーリスは満足そうに頷く。

「リゼットは、王立の貴族学園にも入れた秀才だからな」

「お父様……」

 わずかに視線を伏せ、謙遜の形を取る。
 それが、ここでは“正しい”振る舞いだった。

 そこへ、ヴァレリアが紅茶のカップを置きながら口を挟む。

「ですが、旦那様。あそこの学園は……」

 言葉を選ぶように、一拍置いて続ける。

「優秀な子が多いのは結構ですけれど、平民も通っていますし……何より、“”をうたっているでしょう?」

 微笑みながらも、声音にははっきりとした違和感が滲んでいた。

「貴族の令嬢が通うには、少々、気がひけますわ」

「アデル姉さんは、そこに通ってるのに?」

 十一歳になったロイクが、何気なく口を挟む。その言葉に、食卓の空気が一瞬だけ、止まった。

「あの娘は、少し風変わりなところがある。リゼットと一緒にするな」

 モーリスが、ぴしりと言った。
 ロイクは、むっとしたように口を尖らせたが、それ以上は何も言わない。

 その様子を、リゼットは横目で見ていた。

(……余計なことを言う子)

 表情には出さない。
 ただ、心の中で静かに線を引く。

 モーリスの言う通り、リゼットには選択肢があった。

 王立の貴族学園に入れる学力は、十分にあった。だが、彼女が選んだのは、貴族子女しか通えない貴族学校だった。

(平民と同等に学ぶなんて、ごめんだわ)

 それは、感情というより、判断だった。

 努力で並べる場所。
 努力しなければ、立っていられない場所。そんな環境に、価値を見出せなかった。

(貴族の令嬢が、試験や課題に追われるなんて……滑稽)

 学ぶこと自体が嫌なのではない。
 ただ、“学ばねばならない”立場に置かれることが、耐えがたかった。

 紅茶を口に運びながら、リゼットはふと思う。

(やっぱり……アデルは変よ)

 誇り高い家に生まれながら、
 わざわざ厳しい場所を選び、平民と肩を並べる。

 理解できなかった。

 ――理解する必要も、ないと思っていた。

 リゼットは、静かに微笑む。
 自分は“正しい選択”をしたのだから。


***

 白い石造りの校舎に、朝の鐘が澄んだ音を響かせていた。

 ここは、貴族学校中等部。
 血筋と身分だけが入学資格となる、閉ざされた学び舎だ。

 リゼットは、淡い色合いの制服の裾を整えながら、回廊を歩いていた。

 背筋は自然に伸び、歩幅は小さく、足音は立てない。それだけで、周囲の視線が集まる。

「リゼット嬢、おはようございます」
「今日の髪型も素敵ですね」
「今日の課題、完璧にできたんだ。よかったら見るかい?」

 声をかけてくるのは、同級生の令息たちだった。
 その少し後ろでは、教師までもが穏やかな眼差しを向けている。

「ありがとうございます。でも、お気遣いなく……」

 リゼットは、決まった返答を選ぶ。
 控えめで、感謝を忘れず、しかし深入りはしない。

 それだけで、周囲は勝手に意味を与える。

 ――慎ましい。
 ――可憐だ。
 ――守るべき存在だ、と。

 授業中も同じだった。

 多少理解が遅れても、誰かが先に答えを差し出す。
 質問を向けられても、教師は柔らかく助け舟を出した。

「難しかったかな。無理に答えなくていいよ」
「リゼット嬢は、今は聞いているだけでいい」

 平等、という言葉は、ここには存在しない。
 必要なのは努力ではなく、位置取りだった。

 休み時間になると、令嬢たちの輪が、遠巻きに形成される。

「……令息たちに色目を使って、特別扱いよ」
「本当。令嬢としての矜持はないのかしら?」
のご令嬢ですものね」

 令嬢たちからの中傷は、日常茶飯事だった。
 値踏みする視線と、反感と、嫌悪の混じった眼差し。

 リゼットは、それらを正確に読み取っていた。

(……無駄ね)

 令嬢たちは、競争相手にならない。
 彼女たちと親しくなっても、得るものは何もない。

「ごめんなさい……。皆さまの気を悪くするつもりはないの。私が、出来ないばかりに……」

 わざと自分を卑下し、か細く振る舞う。

「君たち、大勢でリゼット嬢の悪口か?」
「彼女が、君たちに何をしたというんだ!」

 高位貴族の令息たちが、一斉に声を上げる。

「……私がいけないのです。どうか、責めないでいただけますか……」

 涙を滲ませ、弱々しい声音で懇願すると、
 令息たちは一層、リゼットを悪く言う令嬢たちを嫌悪した。

 一人の令嬢が、顔色を失っている。
 以前、リゼットを庇った令息の一人に恋心を抱いている、という噂を耳にしたことがあった。

(ふふ……いい気味)

 彼は、私に好意を抱いている。
 それだけのことだ。

 リゼットは、儚く俯く。
 庇ってくれる令息とも、適度な距離を保つ。
 微笑みは向けるが、踏み込ませはしない。

 その結果――
 庇護は、自然と“男たち”から集まった。

「気にすることはないよ。君は何も悪くない」
「彼女たちが、少し意地が悪いだけだ」

 そう言ってくる上級生や教師の言葉を、リゼットは受け取る。

 感謝はする。
 だが、心は動かない。

(……当然のことだわ)

 可憐でいる者は、守られる。
 弱そうに見える者は、味方を得る。

 それだけの話だった。

 ――だが。

 昼休み、ひとりで庭を歩いていたとき。
 ふと、胸の奥が、わずかにざわついた。

 理由は分からない。
 けれど、脳裏に浮かんだのは、別の光景だった。

 静かな図書室。
 分厚い教本。
 机を挟んで並ぶ、二人の姿。

 自分を特別扱いしなかった、あの少年の声。

(……)

 リゼットは、歩みを止める。

 ここでは、誰もが先回りして守る。
 何も言わずとも、配慮が与えられる。

 だが、あの場所では違った。

 同じ机につくなら、同じ準備が必要だった。
 同じ時間を使うなら、同じ努力が求められた。

(……変ね)

 不快ではない。
 だが、居心地がいいとも言えない。

 それでも、思い出してしまった。

 理由は分からない。
 ただ、胸の奥に、小さな棘のように残っている。

 リゼットは、再び歩き出す。
 背筋を伸ばし、可憐な令嬢として。
 この場所では、それが最適解なのだから。

 けれど――
 最適解であるはずの世界が、
 ほんのわずかに、色褪せて見え始めていた。

 

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