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貴族学校中等部の昼休み。
食堂の窓際の席に向かい、リゼットが椅子を引いた瞬間、背後から声がかかった。
「リゼット嬢、僕たちも一緒にいいかな?」
振り返ると、そこに立っていたのはバロン公爵令息のリーベルと、スタンリー侯爵令息のマリノスだった。
二人とも同級生で、整った容姿と高い家格を併せ持ち、学内では自然と注目を集める存在だ。
「……ええ」
気が進まない思いはあったが、ここで露骨に断れば、余計な波紋を生む。
リゼットは一瞬だけ逡巡し、いつものように儚げな笑みを浮かべた。
その表情に、二人の令息は思わず息を呑む。
同時に、周囲の令嬢たちの視線が集まり、ひそひそとした囁きが聞こえてくる。
「ドルン男爵令嬢って、高位貴族狙いなのかしら」
「確か、婚約者はいないのよね」
「でも家格が低いわ。せいぜい……」
「愛人止まりじゃない?」
耳に入った言葉に、リゼットは内心で小さく息を吐いた。
(……馬鹿げているわ)
高位貴族に嫁ぐなど、現実的ではない。
家格の差もあるが、何より――自分自身が望んでいない。
ましてや愛人など、論外だった。
不満ばかり口にして何も変えようとしない両親には呆れている。
だからといって、今の自分に明確な野心があるわけでもなかった。
ただ、自分が認めた人間と無駄なく、静かに、優雅に生きたい。
それだけだったはずなのに。
ふと、脳裏に浮かんだのは、
モントレー邸の図書室で、並んで机に向かっていた二人の姿だった。
淡い金色の髪を持つ、穏やかな横顔。
(……なぜ?)
自分でも理由がわからず、胸の奥がわずかにざわつく。
「リゼット嬢……」
躊躇いがちに、リーベルが声をかけてきた。
「君に、婚約の話は出ているのかい?」
「いいえ……」
リゼットは、間を置かずに答える。
「我が家は男爵家ですもの。バロン様やスタンリー様のような高位貴族の方々とは、立場が違いますわ」
声は柔らかく、笑みも崩さない。
だが、それ以上踏み込ませない線は、はっきりと引いていた。
「……では、気になる人は?」
今度はマリノスが尋ねる。
リゼットは静かに首を振った。
「いいえ。入学したばかりで、今は勉強で手一杯ですの。そんな余裕はありません」
「それなら――」
マリノスが勢いよく身を乗り出す。
「一緒に勉強しないか?我が家には、質の高い家庭教師が来ている」
「あ、待てよ!それなら、うちだって――」
二人の令息が言い争い始めるのを見て、リゼットは小さく微笑んだ。
「ふふ……お気持ちだけ、ありがとうございます」
ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
「授業の準備がありますので、失礼いたしますね」
一礼して席を立つと、背後から名残惜しそうな視線が注がれた。
それを感じ取りながら、リゼットは歩く。
(……私は、どうしたいのかしら)
教室に戻り、自分の席に腰を下ろした瞬間、胸の奥に残る違和感を否定できなかった。
守られている。
庇われている。
だが、それだけだ。
そこに、何かを“得ている”実感はなかった。
再び浮かぶのは、あの光景――
同じ机につき、正解が出るまで考え続ける二人。
学びに貪欲で、妥協を知らない姿。
(……どうして、そこまでやる必要があるの?)
理解できないはずなのに、
なぜか、胸の奥が冷たく締めつけられる。
リゼットは、無意識に指先を握りしめた。
(……違うわ)
すぐに、そう打ち消す。
自分は、正しい場所にいる。
正しい選択をしている。
それなのに――
その正しさだけが、静かに胸を圧迫していた。
*
その日の夜。
ドルン男爵邸の晩餐は、いつもと変わらず穏やかだった。
「リゼット、最近はどうだ。学校は」
父・モーリスが、何気ない調子で問いかける。
「はい。皆さま、とても親切にしてくださっています」
控えめに微笑みながら答えると、ヴァレリアが満足そうに頷いた。
「そうでしょうとも。貴族学校は、卑しい身分の者がいないから、皆、礼儀正しいし、きちんとしているわ」
その言葉に、リゼットは紅茶を一口含んだ。表情は変えない。
――そのときだった。
「そういえば」
モーリスが、ふと思い出したように口を開く。
「アデルは、最近は平民と議論しているそうだ。王立学園では、そんなことも普通らしいな」
「……平民と、ですか?」
声の調子を崩さず、聞き返す。
「ああ。アデルだけではない。ダンベール子爵家の次男も、ずいぶん変わった考えだと聞いた。身分に関係なく、同じ条件で競うのが当然だとか」
それは、ただの雑談の延長だった。
だが、その一言一言が、リゼットの内側に小さな波紋を落とす。
(……平民と、同じ条件で)
淡い金色の髪。
穏やかで、どこか距離を測るような眼差し。
彼の顔が、はっきりと脳裏に浮かんだ。
リゼットは、それ以上何も言わなかった。
ただ、微笑みを保ったまま、食卓を後にした。
胸の奥に残った、説明のつかないざらつきを抱えたまま。
***
数日後。
リゼットは久しぶりに、モントレー伯爵邸を訪れた。
庭先で出迎えたのは、見慣れない少女だった。
「……おんや?」
簡素な服装。
どうやら侍女見習いらしい。
「お客さまだべか?どなたに会いに来ただか?」
悪意はない。
だが、礼儀も距離感もなく、言葉遣いも粗雑だった。
「……私は、アデル姉様の従姉妹のリゼットですわ。あなたは?」
「アデルお嬢様の侍女予定の、リセラと申しますだ」
深々と頭を下げるその姿は、どこか不恰好だった。リゼットは思わず、内心で一線を引く。
(……アデルの侍女?この程度の者を?)
違和感を覚えるよりも早く、呆れが先に立った。ほんの一瞬、侮蔑がその表情に滲む。
「では、お姉様のところへ案内してくださる?」
声音はあくまで柔らかく、笑みも崩さない。
けれど、その眼差しには、もはや温度はなく侮蔑の色を含んだ。
「はいだ!こちらだべ!」
リセラは何も気づかず、元気よく歩き出す。
その一連のやり取りを、廊下の奥から静かに見つめている人物がいた。
ルイだった。
物音ひとつ立てず、ただ立ち止まり、その視線は――まっすぐに、リゼットを捉えていた。
食堂の窓際の席に向かい、リゼットが椅子を引いた瞬間、背後から声がかかった。
「リゼット嬢、僕たちも一緒にいいかな?」
振り返ると、そこに立っていたのはバロン公爵令息のリーベルと、スタンリー侯爵令息のマリノスだった。
二人とも同級生で、整った容姿と高い家格を併せ持ち、学内では自然と注目を集める存在だ。
「……ええ」
気が進まない思いはあったが、ここで露骨に断れば、余計な波紋を生む。
リゼットは一瞬だけ逡巡し、いつものように儚げな笑みを浮かべた。
その表情に、二人の令息は思わず息を呑む。
同時に、周囲の令嬢たちの視線が集まり、ひそひそとした囁きが聞こえてくる。
「ドルン男爵令嬢って、高位貴族狙いなのかしら」
「確か、婚約者はいないのよね」
「でも家格が低いわ。せいぜい……」
「愛人止まりじゃない?」
耳に入った言葉に、リゼットは内心で小さく息を吐いた。
(……馬鹿げているわ)
高位貴族に嫁ぐなど、現実的ではない。
家格の差もあるが、何より――自分自身が望んでいない。
ましてや愛人など、論外だった。
不満ばかり口にして何も変えようとしない両親には呆れている。
だからといって、今の自分に明確な野心があるわけでもなかった。
ただ、自分が認めた人間と無駄なく、静かに、優雅に生きたい。
それだけだったはずなのに。
ふと、脳裏に浮かんだのは、
モントレー邸の図書室で、並んで机に向かっていた二人の姿だった。
淡い金色の髪を持つ、穏やかな横顔。
(……なぜ?)
自分でも理由がわからず、胸の奥がわずかにざわつく。
「リゼット嬢……」
躊躇いがちに、リーベルが声をかけてきた。
「君に、婚約の話は出ているのかい?」
「いいえ……」
リゼットは、間を置かずに答える。
「我が家は男爵家ですもの。バロン様やスタンリー様のような高位貴族の方々とは、立場が違いますわ」
声は柔らかく、笑みも崩さない。
だが、それ以上踏み込ませない線は、はっきりと引いていた。
「……では、気になる人は?」
今度はマリノスが尋ねる。
リゼットは静かに首を振った。
「いいえ。入学したばかりで、今は勉強で手一杯ですの。そんな余裕はありません」
「それなら――」
マリノスが勢いよく身を乗り出す。
「一緒に勉強しないか?我が家には、質の高い家庭教師が来ている」
「あ、待てよ!それなら、うちだって――」
二人の令息が言い争い始めるのを見て、リゼットは小さく微笑んだ。
「ふふ……お気持ちだけ、ありがとうございます」
ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
「授業の準備がありますので、失礼いたしますね」
一礼して席を立つと、背後から名残惜しそうな視線が注がれた。
それを感じ取りながら、リゼットは歩く。
(……私は、どうしたいのかしら)
教室に戻り、自分の席に腰を下ろした瞬間、胸の奥に残る違和感を否定できなかった。
守られている。
庇われている。
だが、それだけだ。
そこに、何かを“得ている”実感はなかった。
再び浮かぶのは、あの光景――
同じ机につき、正解が出るまで考え続ける二人。
学びに貪欲で、妥協を知らない姿。
(……どうして、そこまでやる必要があるの?)
理解できないはずなのに、
なぜか、胸の奥が冷たく締めつけられる。
リゼットは、無意識に指先を握りしめた。
(……違うわ)
すぐに、そう打ち消す。
自分は、正しい場所にいる。
正しい選択をしている。
それなのに――
その正しさだけが、静かに胸を圧迫していた。
*
その日の夜。
ドルン男爵邸の晩餐は、いつもと変わらず穏やかだった。
「リゼット、最近はどうだ。学校は」
父・モーリスが、何気ない調子で問いかける。
「はい。皆さま、とても親切にしてくださっています」
控えめに微笑みながら答えると、ヴァレリアが満足そうに頷いた。
「そうでしょうとも。貴族学校は、卑しい身分の者がいないから、皆、礼儀正しいし、きちんとしているわ」
その言葉に、リゼットは紅茶を一口含んだ。表情は変えない。
――そのときだった。
「そういえば」
モーリスが、ふと思い出したように口を開く。
「アデルは、最近は平民と議論しているそうだ。王立学園では、そんなことも普通らしいな」
「……平民と、ですか?」
声の調子を崩さず、聞き返す。
「ああ。アデルだけではない。ダンベール子爵家の次男も、ずいぶん変わった考えだと聞いた。身分に関係なく、同じ条件で競うのが当然だとか」
それは、ただの雑談の延長だった。
だが、その一言一言が、リゼットの内側に小さな波紋を落とす。
(……平民と、同じ条件で)
淡い金色の髪。
穏やかで、どこか距離を測るような眼差し。
彼の顔が、はっきりと脳裏に浮かんだ。
リゼットは、それ以上何も言わなかった。
ただ、微笑みを保ったまま、食卓を後にした。
胸の奥に残った、説明のつかないざらつきを抱えたまま。
***
数日後。
リゼットは久しぶりに、モントレー伯爵邸を訪れた。
庭先で出迎えたのは、見慣れない少女だった。
「……おんや?」
簡素な服装。
どうやら侍女見習いらしい。
「お客さまだべか?どなたに会いに来ただか?」
悪意はない。
だが、礼儀も距離感もなく、言葉遣いも粗雑だった。
「……私は、アデル姉様の従姉妹のリゼットですわ。あなたは?」
「アデルお嬢様の侍女予定の、リセラと申しますだ」
深々と頭を下げるその姿は、どこか不恰好だった。リゼットは思わず、内心で一線を引く。
(……アデルの侍女?この程度の者を?)
違和感を覚えるよりも早く、呆れが先に立った。ほんの一瞬、侮蔑がその表情に滲む。
「では、お姉様のところへ案内してくださる?」
声音はあくまで柔らかく、笑みも崩さない。
けれど、その眼差しには、もはや温度はなく侮蔑の色を含んだ。
「はいだ!こちらだべ!」
リセラは何も気づかず、元気よく歩き出す。
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