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モントレー伯爵邸の応接室で、三人はお茶を囲んでいた。
アデルは素朴な色合いのドレスに身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。
その隣に座るルイは、肩の力を抜きながらも、自然な距離を保っていた。
「今日は、お久しぶりですね」
リゼットはそう言って、二人に視線を向ける。
そして――
何気ない調子を装い、ふとした雑談の延長のように問いを投げた。
「お姉様と、ルイ様は……ご婚約されるのですか?」
「えっ!?」
アデルが、はっきりと分かるほど動揺した。
「ど、どこから……そ、そんな話を……?」
頬を染め、視線を彷徨わせるその様子に、リゼットは微笑みを深める。
(……伯爵家の令嬢が、こんなにも感情を隠せなくていいのかしら)
「お父様が、そんなことを仰っていたので……」
ふわりとした声音でそう返した。
実際には、モーリスがそんな話をした事実はない。
だが、その場を自然に見せるには、十分な理由だった。
「モーリス叔父さまが?」
アデルはますます慌て、言葉を失ったように視線を落とす。
その様子を、ルイは何も言わず、静かに、そして優しく見つめていた。
――その眼差しが、リゼットの胸をわずかにざわつかせる。
「僕は……」
ルイが、穏やかに口を開く。
「そうなったらいいな、とは思っているよ」
「……っ、ルイ……」
アデルの声は小さく、かすかに震えていた。
二人のあいだに流れる空気は、言葉以上に親密で、隠しようもないものだった。
リゼットは、カップを持つ指先に、わずかに力を込める。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かに、しかし確かにひび割れていく。
守られる側でいるはずの自分。
選ぶ立場にいるはずの自分。
それなのに――
なぜ、こんなにも息が詰まるのか。
リゼットは微笑みを崩さぬまま、そっと視線を伏せた。
(……私は)
その続きを、言葉にすることはできなかった。
気づいてしまった感情の輪郭が、あまりにも鮮明だったから。
***
リゼットが十五歳の時、アデルとルイの婚約が決まった。
モントレー伯爵邸の大広間は、祝宴にしては控えめな装いだった。
白い花と淡い布地が整然と配置され、過剰な装飾はない。整いすぎているほど、整っている。
(……いかにも、アデルらしい)
質素で、無難で、誰からも非難されない。
それはつまり、誰の心にも深く刺さらないということだ。
リゼットは会場を一望しながら、ゆっくりと歩を進めた。
淡いピンクのドレスは、あらかじめ計算して選んだものだった。主役を食わない色合いでありながら、決して埋もれない柔らかさがある。
周囲の視線が集まるのを、はっきりと感じる。
(……この程度で十分)
中央には、アデルが立っていた。
淡いアイボリーのドレスに、控えめな刺繍。素朴で、健康的で、隙だらけだ。
人に好かれる理由は分かる。
深く考えず、警戒もせず、無害に見えるからだ。
(単純な人……)
それなのに、いつも中心にいる。
目立ち、守られ、好意を集める。
その事実を、リゼットは幼い頃から不快に感じていた。
「アデルお姉さま……」
声はできるだけ小さく。
感情を込めすぎず、かといって無関心にも聞こえないように調整する。
振り返ったアデルの顔が、すぐにほころんだ。
「リゼット! 来てくれたのね」
「本当に……おめでとうございます」
祝いの言葉は、感情が伝わるよう計算して口にした。
「ありがとう。あなたが祝ってくれるのが、一番嬉しいわ」
「そんな……アデルお姉さまの幸せが、わたしの幸せですもの……」
そう言いながら、アデルの腕にそっとしがみつく。
「姉さん。あんまりアデル姉さまにまとわりつくなよ」
十一歳になったロイクが、やや刺のある声で制した。
(……余計なことばかり言う子)
「アデルお姉さま、そのドレス……本当にお似合いです」
声の調子は、あらかじめ決めていた。
少し高く、息を含ませる。
「ありがとう、リゼット。あなたこそ、そのピンクのドレス、とても綺麗よ。まるで妖精みたいだわ」
その言葉に、胸の奥で小さく舌打ちする。
(評価としては妥当だけれど、表現が軽いわ)
思ったことを疑いもなく口にする。
そのアデルの無神経さが、昔から嫌悪の対象だった。
「まぁ……そんな……」
視線を伏せ、頬に熱を集める。
この角度が、いちばん“弱く”見える。
「褒めすぎです、お姉さま……」
一拍の沈黙。
周囲の視線が、こちらに寄ってくる。
アデルは、善意のまま続けた。
「本当のことよ。こんなに可憐で愛らしいんだもの。放っておく男性なんていないわ」
「……そんなこと……ありません」
声を細くする。
否定は、肯定よりも人の関心を集める。
「わたしなんて……誰にも好かれません……」
胸元に手を当てると、指先が小さく震えた。
計算どおり、この場の空気が、少しずつ重くなる。
「わたし、お姉さまのような溌剌とした魅力もなくて……」
今日は祝いの場だ。
水を差すなら、今がちょうどいい。
「姉さん。アデル姉さまに気を遣わせるなよ。祝いの席じゃないか」
またロイクだった。
(……本当に、余計なことばかり)
「……ごめんなさい……」
声を落とし、視線を伏せる。
肩を小さく震わせると、空気が一段沈んだ。
――完璧。
そのときだった。
「リゼット嬢」
穏やかな声が、静かに空気を変えた。
ルイが歩み出てきていた。
「君は、本当に可憐だよ」
「……ルイ様?」
淡い青の瞳が、まっすぐこちらを捉える。
「控えめで、優しくて……誰よりも他人を思いやれる。そんな女性を、魅力的だと思わない人はいない」
(……え?)
場を収めるための言葉にしては、踏み込みすぎている。
彼は、常に距離を保つ人間だったはずなのに。
「自信を持ってほしい。君の涙は……男を落ち込ませるほどの威力があるからね」
冗談めいた口調。
それでも、胸の奥がわずかに跳ねた。
(……私の意図が、読まれている? それとも……)
一瞬、警戒がよぎる。
だが、それはすぐに薄れていった。
彼は公平だ。
誰かを特別扱いする人ではない。
――だからこそ。
「私……なんかが……ですか……?」
気づけば、そう聞いていた。
「ああ。私なんかなんて、君には相応しくない」
その一言で、確かに何かが崩れた。
(……もしかして)
彼は、冷静だった。
誰にも傾かず、線を引いてきた。
その彼が、今、自分を肯定している。
――奪えるかもしれない。
そんな考えが、自然に浮かんでしまった。
「……ありがとうございます」
声が、ほんの少しだけ震えた。
リゼットは微笑みを整え、静かに一歩退いた。
祝宴は、再び動き出す。
だが、胸の奥に残った熱は、簡単には引かなかった。
アデルは素朴な色合いのドレスに身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。
その隣に座るルイは、肩の力を抜きながらも、自然な距離を保っていた。
「今日は、お久しぶりですね」
リゼットはそう言って、二人に視線を向ける。
そして――
何気ない調子を装い、ふとした雑談の延長のように問いを投げた。
「お姉様と、ルイ様は……ご婚約されるのですか?」
「えっ!?」
アデルが、はっきりと分かるほど動揺した。
「ど、どこから……そ、そんな話を……?」
頬を染め、視線を彷徨わせるその様子に、リゼットは微笑みを深める。
(……伯爵家の令嬢が、こんなにも感情を隠せなくていいのかしら)
「お父様が、そんなことを仰っていたので……」
ふわりとした声音でそう返した。
実際には、モーリスがそんな話をした事実はない。
だが、その場を自然に見せるには、十分な理由だった。
「モーリス叔父さまが?」
アデルはますます慌て、言葉を失ったように視線を落とす。
その様子を、ルイは何も言わず、静かに、そして優しく見つめていた。
――その眼差しが、リゼットの胸をわずかにざわつかせる。
「僕は……」
ルイが、穏やかに口を開く。
「そうなったらいいな、とは思っているよ」
「……っ、ルイ……」
アデルの声は小さく、かすかに震えていた。
二人のあいだに流れる空気は、言葉以上に親密で、隠しようもないものだった。
リゼットは、カップを持つ指先に、わずかに力を込める。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かに、しかし確かにひび割れていく。
守られる側でいるはずの自分。
選ぶ立場にいるはずの自分。
それなのに――
なぜ、こんなにも息が詰まるのか。
リゼットは微笑みを崩さぬまま、そっと視線を伏せた。
(……私は)
その続きを、言葉にすることはできなかった。
気づいてしまった感情の輪郭が、あまりにも鮮明だったから。
***
リゼットが十五歳の時、アデルとルイの婚約が決まった。
モントレー伯爵邸の大広間は、祝宴にしては控えめな装いだった。
白い花と淡い布地が整然と配置され、過剰な装飾はない。整いすぎているほど、整っている。
(……いかにも、アデルらしい)
質素で、無難で、誰からも非難されない。
それはつまり、誰の心にも深く刺さらないということだ。
リゼットは会場を一望しながら、ゆっくりと歩を進めた。
淡いピンクのドレスは、あらかじめ計算して選んだものだった。主役を食わない色合いでありながら、決して埋もれない柔らかさがある。
周囲の視線が集まるのを、はっきりと感じる。
(……この程度で十分)
中央には、アデルが立っていた。
淡いアイボリーのドレスに、控えめな刺繍。素朴で、健康的で、隙だらけだ。
人に好かれる理由は分かる。
深く考えず、警戒もせず、無害に見えるからだ。
(単純な人……)
それなのに、いつも中心にいる。
目立ち、守られ、好意を集める。
その事実を、リゼットは幼い頃から不快に感じていた。
「アデルお姉さま……」
声はできるだけ小さく。
感情を込めすぎず、かといって無関心にも聞こえないように調整する。
振り返ったアデルの顔が、すぐにほころんだ。
「リゼット! 来てくれたのね」
「本当に……おめでとうございます」
祝いの言葉は、感情が伝わるよう計算して口にした。
「ありがとう。あなたが祝ってくれるのが、一番嬉しいわ」
「そんな……アデルお姉さまの幸せが、わたしの幸せですもの……」
そう言いながら、アデルの腕にそっとしがみつく。
「姉さん。あんまりアデル姉さまにまとわりつくなよ」
十一歳になったロイクが、やや刺のある声で制した。
(……余計なことばかり言う子)
「アデルお姉さま、そのドレス……本当にお似合いです」
声の調子は、あらかじめ決めていた。
少し高く、息を含ませる。
「ありがとう、リゼット。あなたこそ、そのピンクのドレス、とても綺麗よ。まるで妖精みたいだわ」
その言葉に、胸の奥で小さく舌打ちする。
(評価としては妥当だけれど、表現が軽いわ)
思ったことを疑いもなく口にする。
そのアデルの無神経さが、昔から嫌悪の対象だった。
「まぁ……そんな……」
視線を伏せ、頬に熱を集める。
この角度が、いちばん“弱く”見える。
「褒めすぎです、お姉さま……」
一拍の沈黙。
周囲の視線が、こちらに寄ってくる。
アデルは、善意のまま続けた。
「本当のことよ。こんなに可憐で愛らしいんだもの。放っておく男性なんていないわ」
「……そんなこと……ありません」
声を細くする。
否定は、肯定よりも人の関心を集める。
「わたしなんて……誰にも好かれません……」
胸元に手を当てると、指先が小さく震えた。
計算どおり、この場の空気が、少しずつ重くなる。
「わたし、お姉さまのような溌剌とした魅力もなくて……」
今日は祝いの場だ。
水を差すなら、今がちょうどいい。
「姉さん。アデル姉さまに気を遣わせるなよ。祝いの席じゃないか」
またロイクだった。
(……本当に、余計なことばかり)
「……ごめんなさい……」
声を落とし、視線を伏せる。
肩を小さく震わせると、空気が一段沈んだ。
――完璧。
そのときだった。
「リゼット嬢」
穏やかな声が、静かに空気を変えた。
ルイが歩み出てきていた。
「君は、本当に可憐だよ」
「……ルイ様?」
淡い青の瞳が、まっすぐこちらを捉える。
「控えめで、優しくて……誰よりも他人を思いやれる。そんな女性を、魅力的だと思わない人はいない」
(……え?)
場を収めるための言葉にしては、踏み込みすぎている。
彼は、常に距離を保つ人間だったはずなのに。
「自信を持ってほしい。君の涙は……男を落ち込ませるほどの威力があるからね」
冗談めいた口調。
それでも、胸の奥がわずかに跳ねた。
(……私の意図が、読まれている? それとも……)
一瞬、警戒がよぎる。
だが、それはすぐに薄れていった。
彼は公平だ。
誰かを特別扱いする人ではない。
――だからこそ。
「私……なんかが……ですか……?」
気づけば、そう聞いていた。
「ああ。私なんかなんて、君には相応しくない」
その一言で、確かに何かが崩れた。
(……もしかして)
彼は、冷静だった。
誰にも傾かず、線を引いてきた。
その彼が、今、自分を肯定している。
――奪えるかもしれない。
そんな考えが、自然に浮かんでしまった。
「……ありがとうございます」
声が、ほんの少しだけ震えた。
リゼットは微笑みを整え、静かに一歩退いた。
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