奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 エドモンがモントレー伯爵の座を退いたと聞いた日のことを、モーリスは何度も思い返しては、満足げに笑った。

「兄上は……ラナ村に移り住んだのか。何もない僻地で、男爵として生きていくとはな」

 執務室の椅子に深く腰を沈め、愉快そうに鼻を鳴らす。

「旦那様も、お人が悪いわ」

 ヴァレリアが口では咎めるように言いながら、唇の端を吊り上げた。

「私たちが住んでいた邸を、早々に売り払ってしまったのですもの」

「あの邸でも、多少は金になるからな」

 そのやり取りを、リゼットは黙って聞いていた。

「お父様。伯父様の土地は、すべて相続されたのですか?」

 わざと何気ない調子で尋ねる。
 ――例の、いわく付きの土地。

 モーリスは一瞬だけ言葉を濁した。

「……いや。爵位を譲る条件に、あの土地は譲らないと明記されていた。飲まなければ、爵位は王家に返すとまで言われてな。仕方なかった」

(……本当に、使えない)

 内心で吐き捨てる。だが、表情は穏やかに保ったままだ。

「とはいえだ」

 モーリスは得意げに続ける。

「兄上が所有する土地の周辺は、いくらでも揺さぶれる。今、弁護士と詰めているところだ」

「まあ……その弁護士は、信用できる方なの?」

 ヴァレリアが首を傾げる。

「大丈夫だ。信頼できる人間からの紹介だ」

(ええ。私の、ね)

 リゼットは心の中でだけ微笑んだ。
 弁護士も、人脈も、すべて自分が裏から繋いだものだということを、父は知らない。

 モーリスは、自分が巧みに立ち回っているつもりでいる。
 その勘違いが、ひどく滑稽だった。





 ルイとの婚姻は、式を挙げることなく、書面だけで静かに成立した。

 一時期、酒に溺れていると噂に聞いていたが、今のルイからはその痕跡はほとんど感じられなかった。

 頬はこけておらず、背筋も崩れていない。乱れがちなはずの生活を、無理にでも立て直した形跡があった。

 ――美貌は、変わらず健在だった。

 あの夜。
 見舞いと称して訪ねた際に向けられた、あの冷笑めいた眼差し。
 こちらの内側を見透かすようで、嘲るようで、それでいて一切の感情を交えない、凍った表情。あれは、もうどこにもなかった。

 代わりにあるのは、終始、穏やかで、丁寧すぎるほどの態度だった。

 今夜は、籍を入れてから初めて過ごす、二人きりの夜だった。

 夫婦の寝室の灯りは、柔らかかった。
 壁に反射する淡い光は、輪郭を曖昧にし、夜の気配をそっと包み込んでいる。

 長い一日の終わりにふさわしい静けさが、部屋全体に満ちている。
 外の世界はすでに遠く、ここには二人分の呼吸と、かすかな布擦れの音だけが残っていた。

 視線を上げると、天蓋の影がゆっくりと揺れていた。
 まるで、この部屋だけが時間から切り離されているような錯覚を与える。


「ルイ様……至らぬ点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたしますわ」
 
 緊張している自分を、リゼットは少し意外に思っていた。

 これまで、どんな場面でも心は冷えていた。
 好意も、期待も、恐れも――必要に応じて使い分ける道具でしかなかったはずだ。

 なのに今夜は、胸の奥に薄い膜のようなものが張りついている。


「こちらこそ」

 それだけで、言葉は十分だった。
 緊張した様子のリゼットを気遣ったルイは続ける。

「少し、酒でもどうかな?」

 ルイが差し出したのは、赤ワインだった。

「このワインは、香りが良くてね。苦手な人でも飲みやすいワインだよ」

 確かに、驚くほど口当たりが柔らかかった。
 もう一杯、もう一杯と注がれるうちに、頬が熱を帯びていく。

 部屋には、白檀に似た香りが漂っていた。

「気づいたかい?香を焚いたんだ。君が緊張しないように」

 頭が、ふわりと軽くなる。
 身体の内側から、じんわりと熱が広がっていく。

「……緊張は、解けたかな…?」

「……はい……」

 そう答えた自分の声が、どこか遠くに聞こえた。

 ルイの腕に包まれたとき、普段とは違う匂いを感じた気がしたが、香のせいだろうと深く考えなかった。

 そのまま、身を委ねた。




 翌朝。

 窓から差し込む光で目を覚ますと、すでにルイは身支度を整えていた。

「…起こしてしまったかい?」

 柔らかな声。

「君は、もう少し休んでいていい。朝食は部屋に運ばせる」

 昨夜の甘さは、そこにはなかった。
 丁寧で、礼儀正しくて――どこか距離がある。

 リゼットは、昨夜のことを思い返そうとすると、いくつかの場面が、薄布をかけられたように曖昧だった。

 言葉の順序も、時間の流れも、どこか自然につながらない。
 緊張と疲れのせいだろう、と自分に言い聞かせる。

 香も、酒も、部屋の整え方も――
 あまりに整いすぎていて、記憶に残る輪郭だけが、かえって不自然に浮かんでいたが、シーツに残る痕跡を見て、確かに昨夜は現実だったのだと理解する。

「身体は大丈夫かい?着替えを手伝おうか」

「いいえ……侍女を呼びますから」

「そうか。急な執務が入ってしまってね。新婚早々、申し訳ない」

「お仕事なら……仕方ありませんわ」

「理解のある妻で、助かるよ」

 そう囁いて、ルイは頬に触れた。
 ひやりとするほど冷たい手。

「……驚かせたね。手が冷たいのは、昔からなんだ」

 そう言い残し、彼は部屋を後にした。
 扉が閉まったあと、室内には静寂だけが残る。

(……大丈夫)

 リゼットは、ゆっくりと息を整えた。

 立場は、もう手に入れた。
 ここから先は――時間の問題だ。

 そう、自分に言い聞かせながら。

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