奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ーー現在。
 ラナ村にあるドルン男爵邸。

 馬車が止まり、きしむような音を立てて扉が開いた。

 アデルが降り立った先にあったのは、かつての記憶よりもひどく荒れた玄関だった。
 石段にはひびが走り、扉の金具は鈍くくすんでいる。

 その玄関に立っていたのは、焦燥を隠しきれない母・ソフィアだった。

「お母様……!」

「アデル……」

 一瞬、言葉を失ったように立ち尽くし、次の瞬間、ソフィアの顔がほっと緩む。

 かつては誰もが振り返るほど整っていたその面影は、疲労と不安に削られていたが、娘の姿を認めた途端、確かに喜びが浮かんだ。

「おかえりなさい。……二人とも、疲れたでしょう?」

「お母様のほうこそ……」

 思わず口をついて出た言葉に、ソフィアは小さく首を振る。

「私は大丈夫よ。さあ……旦那様が、あなたに会いたがっているわ。中へ入りましょう」

 促されるまま、アデルとリセラは屋敷の奥へ進む。

 廊下は静かで、空気が重かった。
 使用人の気配は薄く、足音だけがやけに大きく響く。

 寝室の扉を開けると、エドモンがベッドに横たわっていた。

「おお……アデル、リセラ。よく帰ってきたな」

 右足は板で固定され、身動きは取りづらそうだったが、顔には無理に作ったような笑みが浮かんでいる。

「お父様……大丈夫ですか?」

 アデルはすぐに駆け寄り、ベッド脇に膝をついた。

「足はこの通りだがな……まあ、他は元気だよ」

 そう言って肩をすくめるが、声にはかすかな疲れが滲んでいた。

 その様子を見て、リセラが一歩前に出る。

「旦那様、奥様。家のことは、わだすにお任せください。お二人はゆっくり休むだ」

 すでにエプロンを身につけ、働く準備を整えている。

「リセラ……ありがとう。でも、まずはあなたも身体を休めてちょうだい」

 ソフィアは穏やかに制した。

「あなたたちの部屋は、片付けてあるわ」

「……奥様」

 リセラは一瞬、言葉を詰まらせてから、深く頭を下げた。

「怪我は足だけですか? ほかに痛むところはありませんか?」

 心配を隠そうともせずに尋ねると、エドモンは照れ隠しのように肩をすくめた。

「足はこの通りだがな。あとは腰が少し痛むくらいだ。……まあ、これは昔からの持病だ」

 苦笑いを浮かべるその顔は、以前よりも確実に痩せている。
 無理に明るく振る舞っているのが分かり、アデルは言葉を続けられなくなった。

 その沈黙をやわらかく断ち切るように、ソフィアが穏やかに言う。

「さあ、二人とも。ひとまず身体を休めてちょうだい」

「お母様……」

 アデルが何か言いかけると、リセラが慌てて前へ出た。

「奥様。夕食は、わだすが作りますだ。奥様はゆっくりしてけろ」

 その申し出に、ソフィアは一瞬だけ目を細める。

「ありがとう、リセラ。では……そうさせてもらうわね」

 かすかに疲れのにじむ微笑だった。

 それでも、娘と再び同じ屋根の下にいる安心が、その表情をほんの少しだけ柔らかくしていた。





 自室に入ると、どこかよそよそしい空気が漂っていた。

 ここは、自分が昏睡状態だった間に移り住んだ邸だ。

 目覚めてからは王都で暮らし、クロードの事務所の屋根裏部屋で働きながら過ごしてきた。

 街の生活の方が、今の自分には馴染んでいる。

(不思議だわ……)

 ベッドに横たわると、長い馬車移動の疲労がどっと押し寄せた。

 父は気丈に振る舞っていたが、怪我は深刻だ。母も元気そうに見せているだけで、確実に痩せていた。

 ここには通いの使用人が一人いるだけで、細かな家事は母が担っているという。

(せめて、いる間だけでもお母様を休ませたい……)

 瞼が重くなる。

(でも、私は……いつまで、ここにいられるの……)

 思考は、やがて眠りに溶けていった。



 アデルは夢を見ていた。

 そこは、モントレー邸のかつての夫婦の寝室だった。

 深夜らしく、窓の外は暗い。
 自分は寝台に横たわっているが、意識だけが浮き上がっている。目は閉じたままなのに、部屋の様子がはっきり見える。不思議な感覚だった。

 扉が、静かに開いた。
 入ってきたのは、ルイだった。

(……ルイ?)

 彼は酔っていた。足取りが定まらず、壁に手をつきながら、ゆっくりと寝台へ近づいてくる。

 整えられていた金髪は乱れ、肩にかかるほどに伸びている。口元には無精髭が浮き、目は落ち窪んでいた。

 以前の、完璧で気高い姿はそこにない。

(……ルイ?随分と様子がおかしいわ……)

「……アデル……」

 その声はかすれていた。
 彼は枕元に膝をつき、アデルの手を両手で包み込むと、額にそっと押し当てた。

「アデル……愛している……」

 灰青の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。

(ルイ……私はここにいるわ……)

 声を出そうとしても、身体は動かない。

「私は……間違いなく、君を守れなかった」

(違う……あなたのせいじゃないわ)

「君が倒れたあの日から、私は何度も考えた。あの時、もっと早く気づけたのではないかと」

 アデルは必死にルイに言葉を伝えようとするが、眠った状況は変わらない。

「……君が目覚めない世界で、生きる意味が分からない……」

(ルイ……)

「だが、私は選んだ」

 その声が、わずかに低く変わる。

「君を守るために、私は自分を捨てる」

 月明かりの中で、彼の瞳が異様な光を帯びた。

「名誉も、誓いも、形も、すべて差し出す」

(……それは、どういう……?)

「悪魔と呼ばれようが構わない」

 息が詰まる。

「私は、君を傷つけた者のすべてを許さない」

 その言葉は、呪いのように静かだった。

(許さない……?)

 胸が強く締めつけられる。

「君が目覚めた時、私を軽蔑するだろう。裏切り者だと罵るかもしれない」

(そんなこと、思わない……)

「それでも構わない。君が生きてさえいてくれれば」

 彼はそっと、アデルの唇に口づけた。
 唇は冷たく、絶望と決意の味がした。

「…君の幸せを願っている」

 一瞬、言葉が途切れる。
 そして、低く、静かに続けた。
 灰青の瞳が、燃えるように揺れる。

「私は、……、、、を最後まで許さない」

(……を許さない?何を?聞き取れない…)

 その言葉は、途中で聞き取れなかったが、誰かを確実に指していた。

 彼は立ち上がる。
 背中は孤独で、けれど揺らがない。

「さようなら、アデル。次に会うとき、私はもう……別の顔をしているだろう」

 扉が閉まる。
 静寂。

 アデルの閉じた瞳の端から、涙が一筋、零れ落ちた。


 はっとして目を開けると、見慣れない天井が視界に入った。

 薄くひびの入った漆喰。窓辺の古びたカーテン。ここは――ドルン男爵邸の自分の部屋だ。

「……夢?」

 喉の奥がひりつくように痛む。
 頬に触れると、指先がわずかに濡れていた。

 泣いていた――のだろうか。

 夢だったはずだ。
 酔い潰れたルイの姿も、涙も、震える声も。

 それなのに、胸の奥には確かに残っている。

 あの、切ないほどの愛。

 言葉よりも強く、触れられたような熱が、まだ消えない。

 アデルはゆっくりと起き上がり、胸元を押さえた。

 どうして、あんな夢を見たのだろう。
 どうして、あんなにも――苦しそうだったのだろう。

 窓の外から差し込む朝の光は穏やかで、現実は何事もない顔をしている。

 それなのに、心だけが置いていかれたままだった。


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