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昼前、庭へ出ることになった。
「歩ける」と言い張ったものの、エドモンの足取りはまだ不安定だった。
板で固定された右足をかばいながら立ち上がる姿に、ソフィアが思わず息を呑む。
「旦那様、怪我をした足をついたら大変ですわ」
「大げさだ。これくらい――」
言い終わる前に、身体がわずかに傾いた。
その瞬間。
「ほれ、わだすに任せてください」
リセラがひょい、とエドモンの前に回り込む。
「おい、待て待て」
「旦那様、掴まってけろ」
次の瞬間には、エドモンの身体は、まるで大きな荷物のように軽々と持ち上げられていた。
「り、リセラ……!」
「重くねぇです。王都じゃもっと重たい荷物運んでたど」
まるで子どもをあやすような軽やかさで、リセラはエドモンを背負ったまま廊下を進む。
アデルは目を丸くし、ソフィアは慌てて後を追った。
庭へ出ると、春の光が一斉に降り注ぐ。
「ほれ、ここに座るだ」
庭の古い木製ベンチに、そっとエドモンを下ろす。
「……お前は侍女というより騎士だな」
エドモンは苦笑したが、その目はどこか誇らしげだった。
「はい。わだすは、お嬢様の騎士にもなりますだ」
リセラは胸を張る。
アデルは、その光景に胸が温かくなるのを感じていた。
庭は小さいながらも、手入れがされている。古い果樹の若葉が揺れ、土の匂いがやわらかく立ち上る。
「やはり、外はいい。日の光を浴びた方が骨によいと医者が言っていたな」
エドモンが深く息を吸いながら言う。
「やっぱり、土の匂いはいいな。王都では、こうはいかん」
「確かに。落ち着きますね」
アデルが微笑むと、エドモンは目を細めた。
「お前がそう言ってくれるなら、この村も悪くないな」
その言葉に、ソフィアが小さく笑う。
しばらく四人で庭を眺めた。
リセラは雑草を見つけると、さっとしゃがみ込んで引き抜く。
「ほれ、ここも伸びとる。油断ならねぇな」
「お前は働き者だな」
エドモンが感心したように言うと、リセラは照れくさそうに鼻をこすった。
穏やかな空気が流れる。
だが――
ふと、エドモンの視線が止まった。
庭の外、石垣の向こう側。
小道へと続く細い道の、その先。
「……?」
「お父様?」
アデルが顔をのぞき込む。
「いや……」
エドモンは首を振るが、視線は戻らない。
「今、誰か立っていたような……」
アデルとリセラが同時に振り返るが、小道には誰もいない。風に揺れる草と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
「見間違いではありませんか?」
ソフィアが穏やかに言う。
「……そうかもしれん」
エドモンは苦笑したが、その表情はわずかに強張っていた。
アデルは胸の奥に、小さな引っかかりを覚える。
(誰か……?)
そのとき。
かすかに、石を踏む音がした気がした。
――コツ。
全員が耳を澄ます。
次の音はない。
リセラが眉をひそめ、立ち上がる。
「……旦那様、ひとまず中に戻るべか」
「大丈夫だ」
エドモンは強がるように言ったが、顔色は少し白い。
春の光はあたたかいはずなのに、風が急に冷たく感じられた。
アデルの胸の奥に、小さな不安が芽を出す。
(……誰か、いる?)
穏やかな午後のはずだった。
だが、何かが、確かに近づいていた。
*
邸に戻ったあとも、春の光は変わらず柔らかかった。
だが、エドモンの視線だけは石垣の向こうに留まったままだった。
「本当に、誰もいませんわ」
アデルは小道の先まで目を凝らす。
揺れているのは風に撫でられた草と、低い木立の影だけだった。
「……気のせい、か。なら良いのだが」
エドモンはそう言って笑ったが、その声にはわずかな緊張が混じっていた。
そのときだった。
石垣の外、視界の死角にあたる低木の奥で、かすかな枝鳴りがした。
ぱき、と。
あまりにも小さな音で、アデルたちの耳には届かない。
だが確かに、何かがそこにいた。
低木の影の奥で、黒い外套の裾が一瞬だけ揺れる。
息を潜めた男が、屋敷の様子を測るように視線を巡らせていた。
位置関係を確認し、出入りの動線を把握し、警戒の有無を見極めている。
やがて男は、ゆっくりと後退した。
足音は立てない。
石の上だけを選んで踏み、乾いた土を避け、枝を踏まぬよう重心を流す。
訓練された動きだった。
その気配は、やがて村道の先へ溶けていった。
*
屋敷の屋根梁の影に、もう一つの気配があった。
ノクスは、腕を組んだまま微動だにせず、ただ視線だけを細める。
(……いる)
最初に違和感を覚えたのは音ではなかった。
風の流れだった。
庭の空気が一瞬だけ、わずかに歪んだ。
人の体が動いたときに生じる、目に見えない圧の揺らぎ。
次に、低木の影の揺れ方が不自然だった。
自然の風ではなく、体の動きに連動した揺れ。
(素人じゃない)
足の置き方、重心移動、退き際の間。
どれも、訓練を受けた者のそれだった。
ノクスは梁の上で体勢を崩さず、視線だけで追跡する。飛び降りることも、追うこともできた。
だが、彼は動かなかった。
(目的は監視だ)
実行者が別に潜んでいる可能性を切り捨てない。
今ここを離れれば、囮は成功する。
ノクスは屋敷の出入口、庭の死角、石垣の高さ、距離、逃走経路を瞬時に計算する。
今回は単独。
攻撃意図はない。
位置確認と状況把握だけ。
それを判断するまで、ほんの数秒。
(次は動く)
顔は見えなかった。
だが、歩幅、肩の傾き、右足にわずかな癖がある。
十分だ。
屋根の影の中で、ノクスの口元がわずかに上がる。
(逃がしてやった)
次に現れたときは、こちらが狩る番だ。
アデルは何も気づかず、両親に微笑んでいる。
その背中を見下ろしながら、ノクスは静かに誓う。
(次に来たら、逃がさない)
視線はすでに未来を読み、静かな戦いは、もう始まっていた。
「歩ける」と言い張ったものの、エドモンの足取りはまだ不安定だった。
板で固定された右足をかばいながら立ち上がる姿に、ソフィアが思わず息を呑む。
「旦那様、怪我をした足をついたら大変ですわ」
「大げさだ。これくらい――」
言い終わる前に、身体がわずかに傾いた。
その瞬間。
「ほれ、わだすに任せてください」
リセラがひょい、とエドモンの前に回り込む。
「おい、待て待て」
「旦那様、掴まってけろ」
次の瞬間には、エドモンの身体は、まるで大きな荷物のように軽々と持ち上げられていた。
「り、リセラ……!」
「重くねぇです。王都じゃもっと重たい荷物運んでたど」
まるで子どもをあやすような軽やかさで、リセラはエドモンを背負ったまま廊下を進む。
アデルは目を丸くし、ソフィアは慌てて後を追った。
庭へ出ると、春の光が一斉に降り注ぐ。
「ほれ、ここに座るだ」
庭の古い木製ベンチに、そっとエドモンを下ろす。
「……お前は侍女というより騎士だな」
エドモンは苦笑したが、その目はどこか誇らしげだった。
「はい。わだすは、お嬢様の騎士にもなりますだ」
リセラは胸を張る。
アデルは、その光景に胸が温かくなるのを感じていた。
庭は小さいながらも、手入れがされている。古い果樹の若葉が揺れ、土の匂いがやわらかく立ち上る。
「やはり、外はいい。日の光を浴びた方が骨によいと医者が言っていたな」
エドモンが深く息を吸いながら言う。
「やっぱり、土の匂いはいいな。王都では、こうはいかん」
「確かに。落ち着きますね」
アデルが微笑むと、エドモンは目を細めた。
「お前がそう言ってくれるなら、この村も悪くないな」
その言葉に、ソフィアが小さく笑う。
しばらく四人で庭を眺めた。
リセラは雑草を見つけると、さっとしゃがみ込んで引き抜く。
「ほれ、ここも伸びとる。油断ならねぇな」
「お前は働き者だな」
エドモンが感心したように言うと、リセラは照れくさそうに鼻をこすった。
穏やかな空気が流れる。
だが――
ふと、エドモンの視線が止まった。
庭の外、石垣の向こう側。
小道へと続く細い道の、その先。
「……?」
「お父様?」
アデルが顔をのぞき込む。
「いや……」
エドモンは首を振るが、視線は戻らない。
「今、誰か立っていたような……」
アデルとリセラが同時に振り返るが、小道には誰もいない。風に揺れる草と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
「見間違いではありませんか?」
ソフィアが穏やかに言う。
「……そうかもしれん」
エドモンは苦笑したが、その表情はわずかに強張っていた。
アデルは胸の奥に、小さな引っかかりを覚える。
(誰か……?)
そのとき。
かすかに、石を踏む音がした気がした。
――コツ。
全員が耳を澄ます。
次の音はない。
リセラが眉をひそめ、立ち上がる。
「……旦那様、ひとまず中に戻るべか」
「大丈夫だ」
エドモンは強がるように言ったが、顔色は少し白い。
春の光はあたたかいはずなのに、風が急に冷たく感じられた。
アデルの胸の奥に、小さな不安が芽を出す。
(……誰か、いる?)
穏やかな午後のはずだった。
だが、何かが、確かに近づいていた。
*
邸に戻ったあとも、春の光は変わらず柔らかかった。
だが、エドモンの視線だけは石垣の向こうに留まったままだった。
「本当に、誰もいませんわ」
アデルは小道の先まで目を凝らす。
揺れているのは風に撫でられた草と、低い木立の影だけだった。
「……気のせい、か。なら良いのだが」
エドモンはそう言って笑ったが、その声にはわずかな緊張が混じっていた。
そのときだった。
石垣の外、視界の死角にあたる低木の奥で、かすかな枝鳴りがした。
ぱき、と。
あまりにも小さな音で、アデルたちの耳には届かない。
だが確かに、何かがそこにいた。
低木の影の奥で、黒い外套の裾が一瞬だけ揺れる。
息を潜めた男が、屋敷の様子を測るように視線を巡らせていた。
位置関係を確認し、出入りの動線を把握し、警戒の有無を見極めている。
やがて男は、ゆっくりと後退した。
足音は立てない。
石の上だけを選んで踏み、乾いた土を避け、枝を踏まぬよう重心を流す。
訓練された動きだった。
その気配は、やがて村道の先へ溶けていった。
*
屋敷の屋根梁の影に、もう一つの気配があった。
ノクスは、腕を組んだまま微動だにせず、ただ視線だけを細める。
(……いる)
最初に違和感を覚えたのは音ではなかった。
風の流れだった。
庭の空気が一瞬だけ、わずかに歪んだ。
人の体が動いたときに生じる、目に見えない圧の揺らぎ。
次に、低木の影の揺れ方が不自然だった。
自然の風ではなく、体の動きに連動した揺れ。
(素人じゃない)
足の置き方、重心移動、退き際の間。
どれも、訓練を受けた者のそれだった。
ノクスは梁の上で体勢を崩さず、視線だけで追跡する。飛び降りることも、追うこともできた。
だが、彼は動かなかった。
(目的は監視だ)
実行者が別に潜んでいる可能性を切り捨てない。
今ここを離れれば、囮は成功する。
ノクスは屋敷の出入口、庭の死角、石垣の高さ、距離、逃走経路を瞬時に計算する。
今回は単独。
攻撃意図はない。
位置確認と状況把握だけ。
それを判断するまで、ほんの数秒。
(次は動く)
顔は見えなかった。
だが、歩幅、肩の傾き、右足にわずかな癖がある。
十分だ。
屋根の影の中で、ノクスの口元がわずかに上がる。
(逃がしてやった)
次に現れたときは、こちらが狩る番だ。
アデルは何も気づかず、両親に微笑んでいる。
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