奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 今日も一日が、静かに終わろうとしていた。

 ドルン男爵邸の夜は早い。
 食後の片付けを終え、灯りが一つずつ落とされていくと、屋敷はすぐに深い静寂に包まれる。

 自室の窓から見えるのは、星を抱いた広い空だった。

 アデルは寝台に腰を下ろし、指先でそっと掛布を整える。

 今日という一日を思い返した。

 母の笑顔。
 父の照れたような笑い声。
 リセラの賑やかな声。

 決して豊かではない。
 けれど確かに、温かい。

(……帰ってきて、よかった)

 胸の奥で、じんわりと幸福が広がる。
 それでも、思い出すのは昼間の出来事だった。

 庭に出た父が、ふと足を止めた。

「誰かに、見られている気がした」

 そう言ったときの、わずかに硬い表情。
 石垣の向こうに、何かがあったのだろうか。

 風の揺れだけだったのか。

 ――アデルは分かっている。
 偶然ではない可能性を。

(……やはり、ここまで来ているのかもしれない)

 王都を離れてもなお、追われている。
 狙われているかもしれないという事実を、彼女自身はもう知っている。

 けれど父と母は知らない。

 穏やかなこの屋敷に、あえて不安を持ち込むつもりはなかった。

(お父様も、お母様も、これ以上巻き込みたくない)

 静かに息を吐く。
 何故ここまで自分が狙われるのか。
 誰が、どこまで手を伸ばしているのか。
 分からないことばかりだ。

 窓の外で、夜風が木立を揺らす。
 遠くで、かすかな葉擦れの音。
 それが自然の音かどうか、判断はつかなかった。

(……明日も、穏やかでありますように)

 祈りにも似た思いを胸に、アデルは横たわる。

 長い馬車移動と、家事の手伝いで、身体は思った以上に疲れていた。

 まぶたが重くなる。
 意識が、ゆっくりと沈んでいく。

 それでも最後に浮かんだのは、両親の穏やかな笑顔だった。

 守りたい。
 ただ、その一心で。
 眠りは、静かに、しかし深く、彼女を包み込んだ。


 *


 最初に違和感があったのは、音だった。
 声が、遠いのに、はっきりと聞こえる。

 まるで水の底から、屋敷の中を見上げているような感覚があった。

 身体は重く、指一本動かせないのに、廊下のざわめきだけがくっきりと届く。

(……ここは……モントレー邸……?)

 夢だと分かっているのに、空気の匂いまで覚えている。

 薬草と蝋燭の混ざった匂い。
 寝台の天蓋の重さ。
 動けない身体。

 ――ああ、これは。

(……あの頃の私だわ)

 屋敷の回廊で、使用人達の低い声が交わされる。

「ルイ様が……アデル様と離縁なさるそうだ」
「え……?」
「リゼット様と、婚姻を……」

 ざわめきが波紋のように広がっていた。

 アデルの部屋で看病をするエドモンの声が震える。

「……ルイは…アデルとの離縁を申し出た」

「え……では、リゼットとの婚姻話を引き受けるのですか?」

 ソフィアの息を呑む気配。

「そんな……ルイが……?爵位に目がくらむような人間には、見えませんでしたのに……」

 その言葉は責める響きではなかった。
 信じていた人を失った者の、静かな痛みだった。

 リセラの怒った声が続く。

「なして……相手が、リゼット様なんだ……!」

 拳を握る気配まで、はっきりと分かる。

 ――夢なのに。
 こんなにも鮮明だ。

(……私は、聞いていたのね)

 あの三年半前。
 何も知らなかったと思っていた。

 けれど違う。
 身体が眠っていただけで、意識は、確かにそこにあった。

 屋敷の空気も、父と母の落胆も、リセラの悔しさも、全部、どこかで感じていた。

(確かに……不思議だったのよね)


 夢の中で、さらに別の夜が重なる。

 あの夜。
 枕元に膝をついたルイ。
 灰青の瞳が、壊れそうに揺れていた。
 彼の言葉が次から次へと蘇っていく。

「アデル……愛している」

 涙が頬を伝っていた。

「名誉も、誓いも、形も、すべて差し出す」

「悪魔と呼ばれようが構わない」

「私は、君を傷つけた者のすべてを許さない」

「君が目覚めた時、私を軽蔑するだろう。裏切り者だと罵るかもしれない」

(どうして、そんな覚悟を……)

 あの顔は、野心に酔った男の顔ではなかった。
 何かを捨て、何かを選んだ人の顔だった。



 はっと、目が覚める。

 ドルン男爵邸の天井。
 春の朝の光がカーテンの隙間から覗かせていた。

(……夢?)

 今なら、違うと分かる。
 あれは、ただの夢ではない。
 あの時、確かに聞いていたのだ。
 自分は、眠っていただけで。

 三年半ぶりに再会したルイの冷たい眼差しがよぎる。

 「」と呼ばれた。

 次に会った時は、「」と突き放された。

 他人を見るような冷たい眼差しだった。
 夢の中の彼は、あんなにも苦しんでいた。

(……ルイは、本当に裏切ったのかしら)

 胸の奥で、何かが静かに軋む。

 私はただ、去られたことだけを見て、その奥を見ようとしなかっただけではないのか。

 なぜ、リゼットと婚姻までしたのか。
 なぜ、「悪魔と呼ばれようが構わない」と言ったのか。

(私は……知らなかっただけかもしれない)

 掛布の上で、そっと拳を握る。

 悲しみではない。
 疑いでもない。
 真実を知りたいという衝動だった。

(背けていた事実を、探らなくては)

 アデルの瞳に、はじめて“問い”が宿る。

 守られるだけの存在ではない。
 眠らされたままの少女でもない。
 彼女は、ようやく目を開けた。

 本当の意味で。




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