奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 アデルの部屋を離れたあと、ノクスは迷いなく屋敷の高所へ移動した。

 廊下の角を曲がった瞬間には、すでに人の視線から外れている。
 物置部屋の扉を閉めると、天井の梁へと軽く跳んだ。

 古い木材がわずかに軋むが、次の瞬間には重心をずらして音を殺す。
 梁から梁へ、ほとんど揺れを残さずに渡り、屋根裏の小窓へ辿り着く。

 窓を押し上げると、午後の光が差し込んだ。

 春の陽射しは柔らかいが、空気はどこか乾いている。
 草と土の匂いが、日差しに温められて立ち上っていた。

 ノクスは屋根へと身を滑らせる。

 古びた屋根は陽を受けてぬくもりを帯びている。眩しさに目を細めながらも、影の位置を瞬時に測る。

 午後は影が短い。
 身を隠す場所は限られる。

 だからこそ、動きは慎重になる。

 音は立てない。気配も残さない。
 それは生き残るために身につけた癖であり、裏社会の人間として叩き込まれた技術だった。

(……近いな)

 最初に違和感を覚えたのは、風だった。
 昼下がりの穏やかな風向きが、ほんの一瞬だけ乱れた。

 草が揺れた。
 だが、風にしては不自然だった。

 ノクスは目を細める。
 視線を動かさず、周囲全体を“感じ取る”。

(監視じゃない)

 先日の気配とは違う。
 あれは距離を測る目だった。

 だが、今のは――。

(入ってくるつもりだ)

 殺気は薄い。
 だが、覚悟だけが重い。

 熟練者ではないが、素人でもない。
 命令を受けた人間の動きだ。

 ノクスは、無意識のうちにアデルのいる方向へ一瞬だけ意識を向けた。

(……早すぎる)

 予定より前倒しだ。
 こちらが記憶を取り戻したことまでは、向こうは知らないはず。

 それでも来るということは――

(上から、急かされたな)

 影の世界では、よくある話だった。
 使い捨てにされる駒ほど、無理をさせられる。


(……証拠が要る)

 それは、ルイが選び、命じたやり方だ。
 そして――アデルもまた、その道を選んだ。

 今は、その意思が重なっている。

(ならば、主人あるじに従うのみ)

 ノクスは息を潜めた。
 命令は、まだ出ていない。
 出た瞬間に、すべてを終わらせるために。

 ノクスは、すべての出入口、死角、逃走経路を頭の中でなぞり終えた。

(……来い)

 影の中で、ノクスは息を潜めた。



***


 ――その頃。
 モントレー伯爵邸。

 リゼットは、窓辺に立ったまま、指先でカーテンの縁を弄んでいた。

 ――遅い。

 何日も前に出した指示に、いまだ報告はない。
 アデルはもう、仕留められているはずだった。

(まさか……失敗?)

 胸の奥に、苛立ちが燻る。
 実行役は慎重な男だったはずだ。だが、慎重すぎる者は、往々にして機を逃す。

(……なら、私が)

 その考えは、ふとした拍子に浮かび、すぐに形を成した。

 向こうは、まだ私を疑っていないはずだ。

 確かに裁判では揉めた。
 けれど、争っていたのは父であり、私は表に立っていない。アデルの財産も返還は済ませた。今となっては、その父も亡くなっている。

 ――責任の所在は、すでに過去に埋めた。


『伯父の見舞い』
 それ以上に、自然な理由があるだろうか。

 表面上、和解を装う。
 涙を見せ、謝罪の言葉を並べれば、あの家の人間たちは決して無下にはしない。

(単純で、馬鹿正直な、甘い人たちだもの)

 私が行けばいい。
 実行役に“機会”を与えるために。

 そう決めると、胸のざわめきは少しだけ静まった。

 明日にでも出発しよう。
 その前に――夫に、一声かけておくべきだろう。

 そう思った矢先だった。
 控えめなノック音が、部屋に響いた。

 扉を開けると、そこに立っていたのはルイだった。

 執務の途中なのだろう、深い色合いの上質なジャケットに身を包み、白いシャツの襟元はきちんと整えられていた。

 片手に書類を持ったままの姿は、いかにも仕事の合間に立ち寄ったという雰囲気だった。

 乱れのない装いと落ち着いた佇まいが、かえってこの訪問の意図を読ませない。
 彼がこの部屋を訪ねてくるのは、珍しい。

「ルイ様……どうされました?」

「……用がないと、来てはいけなかったかな」

 冗談めかした声に、リゼットは微笑みを返す。

「いいえ。夫ですもの。歓迎いたしますわ。――実は、私からもお話があったのです」

「話?」

「ええ…実は、伯父様たちに、会いに行こうかと思っていました。足を怪我されたと聞いておりますので」

「見舞い、かい」

「ええ。いろいろありましたけれど……父が原因で揉めていたことですし……
今はもうその父もおりません。お姉様には返金も済ませました。できれば、和解できたらと……とにかく、謝りたいのです」

 悲しげに淀みなく紡がれる言葉。
 涙も謝罪も、彼女にとっては目的へ至るための“手段”でしかない。

「……謝るのは、そのことだけかな?」

 一瞬、胸が引っかかる。

「え?」
「いや、何でもない」

 ルイは美しく微かに笑った。

「気をつけて、行っておいで」

「ええ。ありがとうございます、ルイ様」

 その言葉に、リゼットは胸の違和感を振り払い、ふわりと微笑んだ。


 結婚して、三年半が過ぎた。

 最初は、立場さえ手に入ればよかった。
 ルイの心など、後からどうとでもなると思っていた。

 実際、彼は冷静だった。
 毎晩甘い言葉を囁く夫ではない。
 仕事を理由に別室で休む夜もあれば、深夜まで執務に籠ることもある。

 求めれば応じてくれる。
 だが、自分から求めてくることはない。

 自分が望めば、彼は静かに受け入れる。
 その距離感は、絶妙だった。

 情熱的でもなく、冷酷でもない。
 触れれば応えるが、決して踏み込みすぎない。

 最初は、その節度を「誠実さ」だと思った。
 自分を尊重してくれているのだと。

 人に興味などなかったはずの自分が、ただ一人だけ、例外を持ってしまった。

 彼が微笑めば、胸が温かくなる。
 視線が外れると、なぜか落ち着かなくなる。
 言葉が少ない夜ほど、かえって気になってしまう。

 いつの間にか、強く彼に惹かれていた。

 そして気づいてしまった。
 嫌われたくない、と。

 子は授かれていない。
 だが、それでも三年間は穏やかだった。

 ――アデルさえ、目を覚まさなければ。

 ルイは彼女の名をほとんど口にしない。
 無関心を貫いている。

 だが、装っているだけなのかもしれない。

 自分から夜を求めるのは、いつもリゼットのほうだ。それに応じる彼の瞳の奥は、深くて、読めない。

 愛されているのは自分だと信じたい。
 けれど、確信が持てない。

 だからこそ、過去は完全に消えていなければならない。

 アデルという影が、この世に残っている限り――
 自分は“選ばれた存在”だと、胸を張って言えないのだから。

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