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午後の光が、部屋の床をやわらかく照らしていた。
窓辺のカーテンが、春の風にわずかに揺れる。
穏やかなはずの時間の中で、部屋の空気だけが、静かに張り詰めていた。
アデルの部屋で、話は続いていた。
リセラは腕を組み、悔しさを隠しきれない表情で呟く。
「三年半ぶりに再会した、あの街での場面も……偶然を装っていたけんども、計算だったんだべな」
あのときの光景が、はっきりと思い出される。
王都の通り。
人混みの中での“偶然”。
アデルは静かに頷いた。
「ええ。私の様子を見るには、絶好の場面だったと思うの。……ルイの反応も、確かめたかったのでしょうね」
あの冷たい視線。
「元伯爵令嬢」という呼び方。
あれが演技だったのだとしたら――。
リセラの拳が、膝の上で強く握られる。
「ルイ様がお嬢様に冷たくされているのを、満足して見ていたべか。本当に底意地の悪い女だべ!!」
その怒りは、アデルを思ってのものだ。
アデルは、ゆっくりと首を振った。
「……リゼットは、不安なのだわ」
「不安?」
「ええ。ルイを手に入れた。立場も、爵位も。
けれど……心まで手にしたのかどうか、それが分からない」
その言葉に、リセラは息を詰める。
アデルは視線を窓の外へ向けた。
光の中に、遠い記憶が浮かぶ。
「私は……表面だけしか見ていなかった」
小さく息を吐く。
「リゼットのことも。……ルイのことも」
あの頃の自分は、疑わなかった。
疑うという発想すら持たなかった。
「ルイは……私が考えている以上に、早くからリゼットの本性に気づいていたのだと思う」
リセラが、悔しそうに唇を噛む。
「わだすが、もっと早くに気づくことが出来ていたら……」
「…あなたが気にすることじゃないわ」
アデルは、やわらかく微笑んだ。
「本当は、私が気づかなければいけなかったのよ。私が――当事者だったのだから」
その声は、責めるものではない。
過去を悔いる響きもない。
ただ、静かな決意だけがあった。
部屋の空気が、少し変わる。
「でもね、リセラ」
アデルはまっすぐに彼女を見た。
「今は、気づいたわ」
リセラの目が揺れる。
「私は、もう突き落とされるだけの人間ではない」
窓の外で、風が枝を揺らした。
「リゼットが来るなら……逃げない」
静かな午後だった。
だが、その静けさの下で、確かに戦いの準備が整い始めていた。
***
朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
昨夜の冷えをわずかに残した風が、石畳の上を静かに滑っていく。
モントレー伯爵邸の門前には、すでに馬車が用意されていた。
磨き上げられた車体は陽光を受けて柔らかく光り、白い馬が低く鼻を鳴らす。
革具の金具がきらりと弾け、その音だけが妙に鮮明に響いた。
リゼットは淡い藤色の外套を羽織り、ゆっくりと階段を降りる。
歩みには迷いがない。口元には、いつも通りの柔らかな微笑。
ドルン男爵邸には、すでに先触れを出してある。
見舞いという名目で訪ねれば、拒まれる理由はないはずだ。
形式上は、和解を望む従妹が伯父を案じて訪れる――それだけのことだ。
ふと、視線を感じ、顔をあげた、そのときだった。
屋敷の階段を、ゆっくりと降りてくる影が見えた。
ルイだった。
濃紺の上着は隙なく整えられ、銀糸の刺繍が朝日に淡く浮かぶ。
白いシャツの襟元は端正に締まり、黒い手袋をはめた手を背後で組んでいる。
その姿は、彫像のように完璧だった。
「……ルイ様。見送りに来てくださったのですね」
リゼットは目を細め、ほほえむ。
「夫が妻を見送らない理由はないからね」
穏やかな声音。
低く、落ち着いている。
だが、どこか温度がない。
春の光の中に立っているのに、彼の周囲だけが薄く陰を帯びているように見えた。
「気をつけて」
それだけを告げられた。
近づいてくることもなく、触れることもなく、一定の距離を保ったまま。
灰青の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
見送る目というより――見極める目。
リゼットの胸が、ほんのわずかにざわついた。
笑っているのに、笑っていない。
目の奥が、凪いでいる。感情の波が一切見えない。
(……何かしら)
問いかけかけて、やめる。
「なるべく早く戻りますわ」
「……急ぐことはないよ」
ルイはわずかに首を振った。
「積もる話もあるだろう。ゆっくりしておいで」
優しい言葉だった。
風が吹き、リゼットの外套の裾が揺れる。
ルイの視線は逸れない。
「……ええ。お気遣いありがとうございます。なるべく長居はいたしませんわ。ルイ様と離ればなれは寂しいですもの」
甘やかに微笑むが、ルイは頷きもせず、ただ瞳を細めた。そして静かに、片手を上げる。
それは、見送りというより――区切りの合図のようだった。
御者が手綱を引く。
馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を軋ませながら、車輪の音が遠ざかる。
リゼットは窓越しに、まだ立ち尽くしている夫を見つめた。
彼は微笑んでいた。
その目は、氷のように澄み、何かを決めきった人間の静けさを宿している。
門が閉まる。
重い音が、やけに大きく響いた。
その音が、やけに――不吉に感じられた。
窓辺のカーテンが、春の風にわずかに揺れる。
穏やかなはずの時間の中で、部屋の空気だけが、静かに張り詰めていた。
アデルの部屋で、話は続いていた。
リセラは腕を組み、悔しさを隠しきれない表情で呟く。
「三年半ぶりに再会した、あの街での場面も……偶然を装っていたけんども、計算だったんだべな」
あのときの光景が、はっきりと思い出される。
王都の通り。
人混みの中での“偶然”。
アデルは静かに頷いた。
「ええ。私の様子を見るには、絶好の場面だったと思うの。……ルイの反応も、確かめたかったのでしょうね」
あの冷たい視線。
「元伯爵令嬢」という呼び方。
あれが演技だったのだとしたら――。
リセラの拳が、膝の上で強く握られる。
「ルイ様がお嬢様に冷たくされているのを、満足して見ていたべか。本当に底意地の悪い女だべ!!」
その怒りは、アデルを思ってのものだ。
アデルは、ゆっくりと首を振った。
「……リゼットは、不安なのだわ」
「不安?」
「ええ。ルイを手に入れた。立場も、爵位も。
けれど……心まで手にしたのかどうか、それが分からない」
その言葉に、リセラは息を詰める。
アデルは視線を窓の外へ向けた。
光の中に、遠い記憶が浮かぶ。
「私は……表面だけしか見ていなかった」
小さく息を吐く。
「リゼットのことも。……ルイのことも」
あの頃の自分は、疑わなかった。
疑うという発想すら持たなかった。
「ルイは……私が考えている以上に、早くからリゼットの本性に気づいていたのだと思う」
リセラが、悔しそうに唇を噛む。
「わだすが、もっと早くに気づくことが出来ていたら……」
「…あなたが気にすることじゃないわ」
アデルは、やわらかく微笑んだ。
「本当は、私が気づかなければいけなかったのよ。私が――当事者だったのだから」
その声は、責めるものではない。
過去を悔いる響きもない。
ただ、静かな決意だけがあった。
部屋の空気が、少し変わる。
「でもね、リセラ」
アデルはまっすぐに彼女を見た。
「今は、気づいたわ」
リセラの目が揺れる。
「私は、もう突き落とされるだけの人間ではない」
窓の外で、風が枝を揺らした。
「リゼットが来るなら……逃げない」
静かな午後だった。
だが、その静けさの下で、確かに戦いの準備が整い始めていた。
***
朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
昨夜の冷えをわずかに残した風が、石畳の上を静かに滑っていく。
モントレー伯爵邸の門前には、すでに馬車が用意されていた。
磨き上げられた車体は陽光を受けて柔らかく光り、白い馬が低く鼻を鳴らす。
革具の金具がきらりと弾け、その音だけが妙に鮮明に響いた。
リゼットは淡い藤色の外套を羽織り、ゆっくりと階段を降りる。
歩みには迷いがない。口元には、いつも通りの柔らかな微笑。
ドルン男爵邸には、すでに先触れを出してある。
見舞いという名目で訪ねれば、拒まれる理由はないはずだ。
形式上は、和解を望む従妹が伯父を案じて訪れる――それだけのことだ。
ふと、視線を感じ、顔をあげた、そのときだった。
屋敷の階段を、ゆっくりと降りてくる影が見えた。
ルイだった。
濃紺の上着は隙なく整えられ、銀糸の刺繍が朝日に淡く浮かぶ。
白いシャツの襟元は端正に締まり、黒い手袋をはめた手を背後で組んでいる。
その姿は、彫像のように完璧だった。
「……ルイ様。見送りに来てくださったのですね」
リゼットは目を細め、ほほえむ。
「夫が妻を見送らない理由はないからね」
穏やかな声音。
低く、落ち着いている。
だが、どこか温度がない。
春の光の中に立っているのに、彼の周囲だけが薄く陰を帯びているように見えた。
「気をつけて」
それだけを告げられた。
近づいてくることもなく、触れることもなく、一定の距離を保ったまま。
灰青の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
見送る目というより――見極める目。
リゼットの胸が、ほんのわずかにざわついた。
笑っているのに、笑っていない。
目の奥が、凪いでいる。感情の波が一切見えない。
(……何かしら)
問いかけかけて、やめる。
「なるべく早く戻りますわ」
「……急ぐことはないよ」
ルイはわずかに首を振った。
「積もる話もあるだろう。ゆっくりしておいで」
優しい言葉だった。
風が吹き、リゼットの外套の裾が揺れる。
ルイの視線は逸れない。
「……ええ。お気遣いありがとうございます。なるべく長居はいたしませんわ。ルイ様と離ればなれは寂しいですもの」
甘やかに微笑むが、ルイは頷きもせず、ただ瞳を細めた。そして静かに、片手を上げる。
それは、見送りというより――区切りの合図のようだった。
御者が手綱を引く。
馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を軋ませながら、車輪の音が遠ざかる。
リゼットは窓越しに、まだ立ち尽くしている夫を見つめた。
彼は微笑んでいた。
その目は、氷のように澄み、何かを決めきった人間の静けさを宿している。
門が閉まる。
重い音が、やけに大きく響いた。
その音が、やけに――不吉に感じられた。
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