奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 門が閉まる音が静かに響いたあと、ルイの表情から微笑が消えた。

 先ほどまで見送りのために浮かべていた穏やかな仮面は、跡形もなく消え失せている。

 灰青の瞳には、ただ冷たい決意だけが宿っていた。

 リゼットがすべての裏にいることを、彼はすでに把握していた。

 それでも、これまで決定的な証拠には辿り着けなかった。

 彼女は用心深かった。
 
 書類は表に残さず、仲介人を幾重にも挟み、痕跡を分断していた。

 屋敷内を探れば何か出てくる可能性はあったが、確証もないまま動けば、逆に警戒させるだけになる。

 一度でも気づかれれば、証拠は完全に消される。
 それだけの冷静さと狡猾さを、三年間で嫌というほど思い知らされていた。

 だからこそ、ルイは動かなかった。
 盤面が整うまでは。

 ノクスが戻ってきてから状況は変わった。

 外側から人間関係を洗い出し、資金の流れを辿り、仲介人を圧迫し、逃げ場を狭めた。
 その結果、リゼットはついに自ら証拠を抱えたまま動かざるを得なくなった。

 ――隠し切れなくなった。

 今なら掴める。

 必要なのは、逃げ道を完全に断つための決定的な物証だけだった。

 ルイはためらうことなくリゼットの部屋へ向かった。

 廊下にはまだ、彼女が纏っていた香の残り香がかすかに漂っている。

 整えられた寝台、磨かれた鏡台、乱れのない室内。どこを見ても、非の打ち所のない伯爵夫人の私室だ。

 ルイは室内を見回すことすらしなかった。まっすぐ鏡台へ歩み寄り、鍵のかかった引き出しに手をかける。

 鍵穴に細い金具を差し込み、迷いなく力を込める。鈍い音とともに錠が歪み、抵抗なく外れた。

 引き出しを開けると、整然と重ねられた便箋と封筒が現れる。
 脇には小瓶に入った紫紺のインクが置かれていた。

 ルイはその小瓶を手に取り、わずかに傾けて光に透かす。

 深い紫を帯びた独特の色味。
 以前、モーリスの暖炉からノクスが持ち帰った燃えかけの手紙と、まったく同じ色だった。紙質も透かし模様も一致している。

 ルイは便箋を数枚抜き取り、インク瓶とともに懐へ収めた。その動きに迷いはなかった。

 続いてクローゼットへ向かった。
 色とりどりのドレスが整然と並ぶ奥へ手を差し入れ、ためらいなくかき分ける。

 壁際の奥まった位置に、小さな鍵付きの箱が隠されていた。

 箱を床へ置き、力任せに留め金を壊す。蓋が外れ、中身が露わになる。

 最上段にあったのは、ハロルド・クレインの土地取引に関する契約書だった。

 弁護士エドガー・ヴァレンとの往復書簡が添えられており、取得の手順や外部への秘匿について細かく指示が書かれている。

 さらにその下には、ジェイコブ・スミス名義の土地に関する不当契約書があった。  

 仲介人ルーカス・ペインとのやり取りも残されている。時期はいずれもモーリスが動いていた期間と重なっていた。

 三年間、ようやくここまで追い詰めた。  
 これで終わりだ。

 部屋を出ると、廊下で執事を呼び止めた。

「我が妻が忘れ物をしたようだ。馬を用意してほしい。早馬でラナ村へ向かう」

 執事は目を見開いた。

「………旦那様ご自身が向かわれるのですか?
 それでしたら侍従を向かわせましょうか」

 ルイは穏やかに微笑んだ。
 その表情は柔らかいが、瞳の奥は凍りついたままだった。

「夫が妻を追いかけるのだ。不自然ではないだろう。察してくれ」

 その声音には感情の揺れがなかった。
 執事は背筋に冷たいものを覚えながら、深く頭を下げる。

「かしこまりました。すぐに用意いたします。どうかお気をつけて」

 ルイは外套を羽織り、屋敷の外へと歩み出る。空は澄み渡り、春の陽光が庭を照らしていた。

 その穏やかな光とは対照的に、彼の瞳には氷のような決意が宿っている。

 ラナ村へ向かうのは、妻を追うためではない。終わらせるためだった。


***


 ーーその頃。
 クロード・ベルヌー事務所。

 クロードは執務室で一人、アデルから届いた手紙を読み終えたところだった。

 そこには、無事にラナ村へ到着したという簡潔な報告が記されている。

(無事に着いたのは幸いだ。しかし、油断はできない)

 静かに封を閉じながら、クロードはふと、以前会ったモントレー邸の改築業者との会話を思い返していた。

 当主であるエドモンは、工事の進捗にほとんど関心を示していなかったという。

 その代わりに、工事の延期を申し入れ、進捗を確認していた“”がいた。

 モーリス夫妻が頻繁に邸を訪れていたという証言は、すでに得ている。
 しかしクロードは、そこで思考を止めなかった。

 事故が起きたのは、改築予定だった階段だ。
 本来であれば立ち入りを厳しく制限されるべき場所だった。

 ところが当日は、資材搬入のために封鎖が一時的に外されていたという記録が残っている。

 当初からクロードは、あの出来事を単なる事故とは考えていなかった。
 事件である可能性のほうが高いと見ていた。

 モーリスが動いていたのではないかという予想も立てていた。
 だが、あの男は強引ではあっても、緻密な計画を長期間維持できる人物ではない。

 事故の直後に名義移転が行われ、資産が動き、その後に婚姻が成立している。
 一連の流れに無駄がないことが、かえって不自然だった。

「誰が、最も利益を得たか」

 クロードは机上の紙に、ゆっくりと名前を書き出した。

 モーリス・モントレー。
 リゼット・モントレー。

 指先が止まる。

 事故当日、邸を訪れていたのは誰だったか。アデルの証言では、直前にリゼットが来ていた。

 そして改築工事に意見を述べていたのは、“モントレー家の者”だった。

 モーリスか。
 あるいは、その妻か。

 クロードはもう一つの事実を思い出す。
 事故後、リゼットは頻繁に見舞いに訪れていた。
 それは従妹として自然な行動にも見えたが、同時に状況を把握し続ける最短距離でもあった。

「現場に最も近い者が、最も安全な顔をしている」

 そう呟き、クロードは背もたれに静かに体を預けた。

 もしモーリスが単独で動いていたのであれば、彼の死とともに危険は終わっているはずだ。
 しかしアデルは、いまなお狙われている。

 モーリスはすでにこの世にいない。
 それでも危険が続いているということは、主導していた人物は別にいると考えるのが自然だった。

 事故当時、邸に自由に出入りできた者。
 改築の進行に影響を与えられた者。
 そして事故後、最大の利益を得た者。

(モーリスが強引に婚姻を進めたのではなく、逆だったのではないか)

 クロードの視線が、ゆっくりと一点に定まる。

「……リゼット・モントレー」

 その名を、初めて明確に口にした。

 確証はまだない。だが、理はそこを指している。

 クロードは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
 ラナ村へ向かったアデルの姿が脳裏に浮かぶ。

「……遅いかもしれないな」

 普段は感情を表に出さない男の声が、わずかに硬くなる。

 犯人は、和解を装うだろう。
 涙も謝罪も、いくらでも演じられる。

 しかし、もしリゼットが真に主導者であるならば、彼女は必ず二度目を試みる。失敗で終わらせるはずがない。

 クロードは机に戻ると、封書を取り出した。ラナ村宛ての急書だった。

「くれぐれも気をつけてほしい」

 短くそれだけを書き記し、丁寧に封をする。

 決定的な証拠は、まだ揃っていない。
 それでも理の上では、すでに追い詰められているはずだった。逃げ場は、ほとんど残されていない。

 しかし胸騒ぎが消えない。

 クロードは再びペンを取り、もう一通の手紙を書き始めた。

 静まり返った執務室には紙を擦る音だけが響く。外では昼の気配が流れているのに、この部屋の空気だけがどこか張り詰めていた。

 書き終えたあとも、しばらく封書を見つめる。

 嫌な予感が、拭えなかった。

 執務室の静寂の中で、クロードの瞳だけが冷たく光っていた。



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