奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ラナ村のドルン男爵邸には、春のやわらかな光が差し込んでいた。

 窓辺の卓の上には、一通の封書が置かれている。

 王都から届いたばかりの急書だった。
 封には見慣れた筆跡で名前が記されている。

 クロード・ベルヌーからの手紙だった。

 ――くれぐれも気をつけてほしい。

 それ以上の説明はなかったが、アデルはその短い言葉の裏にある緊張を感じ取っていた。

 だからこそ、ここ数日、屋敷の空気はわずかに張り詰めている。

 居間では、アデルとリセラがさりげなく視線を交わしていた。

 二人は屋敷の出入りに神経を尖らせている。

 ソフィアとエドモンには理由を話していないが、外出は極力控え、買い物はすべてマゼラに頼むようにしていた。

「あなたたち、一昨日から妙に神経質じゃないかしら?」

 ソフィアが困ったように微笑む。

「マゼラばかりに、買い物を行かせて……大変でしょう?」

「大丈夫ですよ、奥様」

 ちょうどその時、玄関から明るい声が響いた。買い物袋を抱えたマゼラが帰ってくる。

「私は元気ですからね。お嬢様とリセラが何か心配事でもあるのでしょう?二人の気が済むまで付き合いますよ」

 紙袋の口から、甘い香りがふわりと広がった。

「マゼラ婆さん、何を買ってきただか?」

 リセラが目を輝かせる。

「ったく、あんたは本当に食いしん坊だね。旦那様と奥様、お嬢様にお出しする焼き菓子だよ。あとでお茶と一緒にね」

「えー!わだすのは無いんだべか?」

 あからさまに肩を落とすリセラに、マゼラは呆れたように眉を上げる。

「あんたはお嬢様の侍女だろう?」
「侍女でも、美味しい物は食べたいべさ」

 口を尖らせるリセラを見て、アデルは笑う。

「そんなこと言わずに、皆で食べましょうよ」

 アデルが紙袋を覗き込みながら微笑む。

「たくさん入っているじゃない。リセラもマゼラも、一緒に」

「お嬢様~!」

 リセラが大げさに両手を広げる。マゼラは小さく笑った。

「お嬢様がお優しいから、リセラがつけあがるんですよ」

 居間に穏やかな笑い声が広がる。
 
「私がお茶を淹れるから、皆は座って」

 アデルは立ち上がり、茶葉を量り始めた。エドモンは嬉しそうに頷く。

「アデルの淹れる茶は格別だからな」

「ふふふっ……アデルが帰って来てから、旦那様の口癖になりましたわね」

 ソフィアが目を細めると、エドモンは慌てて笑った。

 湯気が静かに立ちのぼり、焼き菓子の甘い香りとやわらかく混ざり合う。皿に盛られた焼き菓子は、卓の中央へとそっと置かれた。

 やがて皆が席につき、卓を囲む。ひとつずつ菓子を取り、それぞれが静かに口へと運んだ。

「これは美味しい」

「本当だねぇ」

 その声を聞きながら、アデルは自分のカップを持ち上げたが、指がわずかに滑り、お茶をこぼしてしまった。

「ごめんなさい。私…もう一度、淹れ直してきます」

 そう言って立ち上がった瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。

 居間に戻りながら、何気なく尋ねる。

「マゼラ、この焼き菓子はどうしたの?」

「ええ、この焼き菓子なんですけど…市場で、お嬢様の従姉妹……リゼット様でしたかね?ちょうどお会いしたのです」

 アデルの動きが止まる。

「これから旦那様のお見舞いに伺うとおっしゃっていました。先に宿に荷物を預けるそうで、この焼き菓子を皆様で、と持たせてくださいました」

 リセラの手から食べかけの焼き菓子が落ちた。

 エドモンとソフィアが顔を見合わせる。

「え、リゼットが?」

 アデルの顔色が、さっと青ざめた。

「皆!焼き菓子を食べないで!」

 叫びながら、卓に並んだ菓子を払い落とす。

 だが遅かった。

 ソフィアの手から力が抜け、ふらりと揺れた。向かいのエドモンの視線も次第に焦点を失い、マゼラは背もたれに身体を預けたまま、まぶたを閉じていく。

「……お父様? お母様?」

 呼びかけに応える声はない。

 エドモンとソフィアはそのまま卓に突っ伏し、マゼラも椅子から崩れ落ちた。三人とも規則正しく息をしているが、深く眠り込んでいる。

 居間に、不自然な静寂が落ちる。

「お、嬢さま……」

 リセラも膝をついたまま横倒しになった。

「リセラ!」

 駆け寄って脈を確かめる。
 生きている。眠らされただけだと悟った瞬間、廊下の奥から、かすかな足音が忍び寄ってきた。

 砂利を踏む音。
 扉の影に、黒い影が揺れる。

 やはり来た。

 胸の奥で、何かが静かに確信へと変わる。
 アデルはゆっくりと立ち上がった。

 膝が震えそうになるのを、必死に押さえ込む。呼吸が浅い。鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。

「……とうとう、来たのね」

 かすれた声が、静まり返った居間に落ちた。

 その瞬間だった。

 背後の空気が、わずかに揺れた。

「……随分と気丈だな」

 低く、乾いた声。
 振り返った瞬間、アデルは息を呑んだ。

 胸が強く跳ねる。

 ――

 輪郭も声も似ている。背格好も近い。
 けれど、目元の鋭さも、纏う空気も、まるで別物だった。

 そこにあるのは、貴族の整った静けさではなく、影の中で磨かれた者の気配だった。

(……違う)

 似ているのは、ほんの一瞬の錯覚にすぎなかった。

「説明している暇はない。とりあえず、あんたの味方だ」

 そう告げた時には、男の体はすでに動いていた。

 窓枠がきしむ。黒衣の侵入者が音もなく滑り込む。

 直後、鈍い衝突音が室内に響いた。

 視線が追いつくころには、侵入者は床に叩きつけられ、腕を不自然な角度で捻り上げられている。喉元には、冷たい刃がぴたりと当てられていた。

「まず、一人」

 淡々とした声だった。

「だが、俺の勘では、あと二人いる」

 言い終わるかどうかのところで、柱の陰がわずかに歪んだ。

 黒い影が低く跳ぶ。刃が光を弾いた。

 空気が裂ける。

 侵入者の体が宙で弾かれ、壁へ叩きつけられた。重い音を立てて床に崩れ落ちる。

「二人目」

 振り向きもせずに告げるその声は、異様なほど静かだった。

「あなた……何者……?」

 アデルの声が、わずかに震える。

「名はノクスだ」

 その時――。

 床に倒れていたリセラが、ぐらりと身を起こした。

「……あー!おめぇ、まやかしでねぇか!」

 場違いなほど大きな声に、ノクスが目を見開く。

「お、お前、薬盛られたんじゃないのか?」

「盛られただ……けんど、お嬢様が危ねぇから……」

 足取りは定まらない。
 それでもリセラはアデルの前へ出ようとする。

 その背後で、空気が鋭く歪んだ。

 床を蹴る気配。

 黒い影が一直線に迫る。

 最後の実行犯だった。

 男の手に握られた刃が、窓から差し込む光を受けて白く閃く。

 視界いっぱいに黒い腕が迫る。

「お嬢様!!」

 リセラが叫び、倒れ込むようにアデルへ覆いかぶさろうとした。

「危ない!」

 低い声が割り込んだ。

 ノクスが地を蹴る。

 横から滑り込むように間へ入り、リセラの肩を掴んで強引に引き寄せる。同時に、もう片方の腕がしなる。

 指先から放たれたナイフが、一直線に空気を裂いた。

 刃は迷いなく実行犯の脇腹へ突き立つ。

 男は呻き声を上げて前のめりに崩れ、床を転がった。

 ノクスは一歩で距離を詰め、倒れた腕を踏みつけると、素早く縄で縛り上げる。

「三人目」

 低く落とされた声には、ほとんど感情がなかった。

 居間には、荒い呼吸と、床に転がる男たちのうめきだけが残っている。

 そして、呆然と立ち尽くすアデルと、ふらつきながらも彼女を庇おうとするリセラの姿だけがあった。

 春の風が窓から入り、カーテンを揺らした。

 外の世界は、何も知らないまま、穏やかに光っていた。

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