奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 その場に張り詰めた空気の中で、誰もが同時に動き出していた。

 リセラは青ざめた顔のまま台所へ駆け込み、清潔な布と水差しを抱えて戻ってくると、震える手でアデルへ差し出した。

「お嬢様、これ……!しっかり押さえてくださいだ!」

 アデルは頷き、ルイの腹部へ布を強く当てる。血はすぐに滲んできたが、手を緩めることはしなかった。

 ロイクは室内を見渡しながら声を張る。

「医師はまだ到着しないのか!急がせろ!」

 騎士の一人がすぐに外へ駆け出し、門の方角へ向かう。

 別の騎士たちは周囲の安全を確認しながら、倒れている侍女や拘束した男たちを順に馬車へ運び込んでいた。

 すでに縄で厳重に縛られたリゼットは、騎士に囲まれたまま先に連行されており、護送の馬車は屋敷を離れて出発していた。

 誰もが状況の重さを理解しており、動きには無駄がなかった。

 一方でノクスは静かに膝をつき、床に落ちていた短剣を拾い上げて刃先を確かめていた。

 光にかざし、指先でごくわずかに表面をなぞる。先ほど感じた違和感は間違いではなかった。

 刃に塗られていたものは、すでに乾き始めているが、残った痕跡から毒の性質は読み取れる。

 視線だけでルイの呼吸と血の量を測り、介入の猶予を計算する。

 騒然とした空気の中で、アデルだけがルイに意識を向け続けていた。
 
「ルイ、しっかりして。目を開けて…!」

 彼の身体を支えながら、必死に呼びかける。

 ルイは浅く息を吸い、かすかにまぶたを開いた。焦点は揺れているが、確かに意識はあった。

「……アデル。大丈夫だから……」

 強がるように言ったが、声は掠れている。

「大丈夫なはずがないでしょう。あなた、こんなに血が……」

 ルイの腹部から流れる血を押さえる手が震える。声も抑えきれず揺れていた。

 ルイはその震えに気づき、わずかに笑う。

「……ああ、アデル……君の涙を久しぶりに見る……」

「私、泣いてなんて……」

 否定しようとした瞬間、頬を伝う温かさに気づく。

 ルイの視線が、やわらかくほどけた。

「……すまない。君を守りきれなかった」

 唐突な言葉に、アデルの呼吸が止まる。

「何を言っているの。あなた、こうして守ってくれたじゃない」

「……今回は間に合ったが……三年半前は守れなかった」

 アデルの胸が強く締めつけられる。

「三年半……」

「……私は、君と婚約するだいぶ前から、リゼットのことを疑っていたんだ」

「……そんな前から……?」

「ああ……君を慕うふりをしていても、時折見せる眼差しが冷たかった。隠しても消せない傲慢さがあった」

 ルイはゆっくりと息を吐きながら続ける。

「気づいていながら、決定的な対策を採れなかった。だから……あの事故を止められなかった」

 その言葉を聞いた瞬間、リセラが小さく嗚咽を漏らしたが、すぐに口を押さえた。

 誰も声を出せない。

 ルイの瞳は、まっすぐアデルだけを見ていた。

「アデル……君を傷つけて…すまなかった。ずっと恨まれていると思っていた。それでも構わなかった。だが……」

 言葉を探すように、ゆっくり続ける。

「本当は……君にだけは、信じてほしかった」

 アデルの喉が詰まる。

「どうして、何も言ってくれなかったの」

「証拠がなかった。下手に動けば、君に刃が向く。だから、近くにいるふりをした」

「リゼットの……夫として?」

「そうだ。あの家の内側に入らなければ掴めないものがあった」

 ルイの瞳が、わずかに陰る。

「証拠を掴むまで……こんなに歳月を要してしまった」

 アデルは唇を震わせた。

「……夢で、あなたが言ったの。“悪魔と呼ばれても構わない”って」

 ルイの瞳が揺れる。

「あれは……」

「あなたは、本当に一人で背負っていたのね」

 アデルの声がやわらかく変わる。

「私は、あなたに捨てられたと思った。リゼットに惹かれたのかもしれないと考えてしまった。ひどく傷ついて、表面しか見ようとしていなかったわ……」

 ルイは必死にまぶたを開き続けながら尋ねた。

「……私のこと、軽蔑しただろう?」

 その問いは弱々しかった。
 アデルは首を振る。

「いいえ。軽蔑なんてしていない。むしろ、何も見ようとしなかった自分が情けないわ」

 ルイの呼吸が一瞬止まる。

「あなたはずっと私の味方だった。私が気づかなかっただけ」

 アデルは彼の手を強く握る。

「私の方こそ、ごめんなさい…何も知ろうとしなくて」

「……いや。君は三年も眠っていた。目覚めてからも、懸命に生きてくれていた」

「……ルイ……」

 アデルは涙を拭うのも忘れ、彼を見つめ続ける。

 ルイもまた見つめ返しながら、かすれた声で続けた。

「君が……目覚めてくれて、こうして生きていてくれて……」

 唇がわずかにほころぶ。

「……それだけで、十分だ」

 そう呟いた直後、彼の身体から力が抜けた。

「ルイ?」

 返事がなかった。
 ルイの瞳がゆっくり閉じていく。

「ルイ、待って……!」

 アデルが揺さぶるが、意識はそのまま落ちていった。

 周囲で、誰かが息を呑む音がした。

 リセラが涙をこらえきれずに声を漏らす。
 ノクスは一歩近づき、脈を確かめる。

 その表情がわずかに硬くなったことで、場の緊張がさらに高まった。

 静寂が落ちた。

 先ほどまで飛び交っていた声も足音も、すべて遠ざかっていくように感じられる。

 アデルの耳に届くのは、腕の中にいる彼のかすかな呼吸音だけだった。

 アデルは震える腕でルイの身体を抱き寄せる。

「……駄目よ……」

 喉の奥から、かすれた声がこぼれた。

「まだ……まだ、あなたと話したいことが、いっぱいあるの……」

 必死に止血していた手が震え、涙が頬を次々に伝っては落ちていく。

「三年半も……あなたは……一人で全部背負って……」

 胸が締めつけられて、息がうまくできない。

 彼がどんな思いで過ごしてきたのかを思うだけで、心が引き裂かれそうだった。

 アデルはゆっくりと額を彼の額へ押し当てる。

「ルイ……」

 名を呼ぶ声が、もう抑えきれなかった。

「私を……置いていかないで……」

 涙がぽたぽたと彼の頬へ落ちる。

「やっと……やっと分かったのに……」

 これまで見えなかったものが、ようやく見えた。

 彼がどれほど自分を想っていたのかも、どれほど苦しんでいたのかも、全部。

「目を覚まして……」

 彼の手を両手で包み込み、祈るように握りしめる。

「今度は……二人で背負うの……」

 声が崩れ、嗚咽に変わる。

「あなたが悪魔になるなら……私は隣に立つわ……」

 迷いはなかった。

 どんな過去も、どんな罪も、全部受け止める覚悟があった。

「だから……お願い……」

 震える指に力を込める。

「一人にしないで……」

 顔を寄せ、彼の温もりを確かめるように抱きしめる。

「お願い……ルイ……」

 その声は、三年半押し込めてきた想いが、すべて溢れ出した本心だった。

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