奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 診療所の廊下に、荒い足音が響いた。

 勢いよく角を曲がってきたロイクは、呼吸を整える間もなく病室の前で足を止める。 

 振り返ったリセラが小さく声を上げる。

「ロイク様だ」

 騎士団の制服の裾には土埃が付き、額にはうっすらと汗が滲んでいた。ここまでほとんど駆けてきたのだと一目で分かる。

 扉に手をかけたまま、彼はすぐには中へ入れなかった。

 拳を一度強く握りしめてから、ようやく扉を押し開ける。

 寝台の上で静かに眠るルイの姿を見た瞬間、その表情がはっきりと変わった。

「……ルイ……」

 声が低く震えた。

 医師から状況を簡潔に聞くと、ロイクは深く頭を下げたあと、ゆっくりとアデルの方へ向き直る。何かを言おうとするが、すぐには言葉が出てこない。

 しばらく沈黙が続いたあと、ようやく口を開いた。

「……アデル……ごめん」

 その一言には、重い後悔が滲んでいた。

「リゼットが……あんなふうに考えて生きていたなんて……弟のくせに……何も気づけなかった……ごめん…」

 固く握った拳が小さく震えている。

「アデルの命を狙って……なんて愚かな真似を……ルイまで傷つけてしまった……本当に申し訳ない……」

 アデルはゆっくりと首を振った。

「……ロイク……あなたが謝ることではないわ」

 しかしロイクは顔を上げない。
 やがて、かすれた声で続けた。

「ルイは……ずっと戦っていたんだな……」

 視線がベッドの上のルイへ向く。

「裏切り者だと思われても、自分の信念を貫いた……愛している人のために……気持ちを偽ってでも……」

「ええ……」

 アデルの瞳から涙がこぼれた。
 ロイクは静かに言葉を続ける。

「アデルを守るために、憎い相手のになる道を選んだんだ……」

 その言葉が落ちた瞬間、アデルの胸の奥に何かが深く響いた。

 ロイクは目を閉じ、静かに続ける。

「……ルイは本物だ。誰よりも強くて、誰よりも不器用で……そして、誰よりもアデルを愛している」

 涙が頬を伝う。
 アデルはルイの手を握りしめた。

「……ええ…そうね。彼は変わっていなかった。昔のままだった。何も気づけなかったのは、私もだわ…」

 震える声だったが、そこには確かな想いが宿っていた。

「ルイ…目を覚まして…」

 静かな病室に、その言葉だけが残った。

 しばらく沈黙が続いたあと、リセラがためらうように口を開いた。

「ロイク様。その……今、リゼット様は?」

 ロイクは一瞬だけ視線を落とし、それから静かに答えた。

「今は王都へ向かっている。到着次第、貴族牢に収容されることになる」

 感情を抑えた声音だったが、その奥に複雑な痛みが滲んでいるのが分かった。

 リセラは小さく息を吐き、何か言いかけてやめる。

 代わりにアデルが尋ねた。

「……ロイクは、どうしてあのとき男爵邸に来られたの?あまりにもタイミングが良かったわ」

 アデルが静かに尋ねると、リセラも大きく頷いた。

「わだすも、それが不思議だったんだぁ。来てくれて本当に助かったけども」

 ロイクは一瞬だけ眉を上げ、それから小さく息を吐いた。

「クロード先生から頼まれたんだ」

「え……?」

 アデルの瞳がわずかに見開かれる。

「アデルのところに、クロード先生から手紙が来ただろう?」

「ええ。くれぐれも気をつけてほしいと気遣ってくださった内容の手紙だったわ」

 ロイクは静かに頷いた。

「俺の遠征先にも急書が届いたんだ。内容は短かった。“急ぎドルン男爵邸へ向かってほしい。危険が迫っている可能性が高い”とだけ書かれていた」

 その言葉を思い出すように、ロイクはゆっくりと続ける。

「先生は、普段ああいう書き方をしない。確証がない段階で危険を断定するような人じゃないんだ。だからこそ、逆に嫌な予感がした」

 リセラが目を丸くした。

「メガネ先生も、こうなることを予想していただか……」

 ロイクは首を横に振った。

「予想というより、直感に近かったんだと思う。証拠はまだ揃っていなかったはずだ。それでも危険だけは察していたんだろうな」

 アデルの胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。

 遠く離れた王都からでも、自分の身を案じてくれていた人がいた。

 それも、ただの気遣いではなく、実際に命を救う行動として。

「……先生らしいわ」

 アデルが小さく呟くと、声がわずかに震えた。ロイクは静かに頷き、続けた。

「ああ。あの手紙を読んだからこそ、団長にも事情を説明することができたんだ。遠征の予定を早めに切り上げさせてもらって、こうして駆けつけることができた」

 そのときの焦りが蘇ったのか、ロイクは無意識に拳を握った。

「もし遅れていたらと思うと……今でもぞっとする」

 彼はそこで言葉を切り、ゆっくりと視線をルイへ向けた。

「……間に合って良かった」

 その声には、心からの安堵が滲んでいた。

 命がここに残っているという事実だけで、どれほど救われるのかを誰もが理解していた。

 病室の空気は重いままだったが、それでも確かに守られた命がここにあることを、全員が感じていた。

「とにかく……ルイには目を覚ましてもらわないとな」

 ロイクはそう言って、眠り続けるルイの手をそっと握った。

「……ええ、そうね」

 アデルも頷き、反対側の手を握り直した。
 ルイの体温はまだ温かい。
 それが、かすかな希望のように感じられた。

 病室の外、窓辺の影に溶け込むようにしてノクスはその様子を見ていた。

 誰にも気づかれない場所から、静かに。

(あの弁護士…やはりな)

 思考の続きを言葉にする前に、ノクスは小さく首を振った。

 余計な感情に名前を付ける必要はない。
 視線を眠るルイへ戻す。

(とにかく、目を覚ませ、ルイ)

 胸の奥でそう呟く。

 不器用で、回りくどくて、損な生き方しかできない男だと思う。

 だが、その生き方をノクスは嫌いではなかった。

 むしろ――

 少しだけ、羨ましいとすら思っていた。







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