奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 病室には、ゆっくりとした静寂が流れていた。

 窓の外では夕暮れの光が傾き始め、薄い橙色が白い壁に淡く滲んでいる。

 ベッドの傍らでは、アデルが椅子に腰掛けたまま、ルイの手を両手で包み込んでいた。

 体温を確かめるように指先を重ねながら、彼の顔をじっと見つめている。

 熱はまだわずかに残っているが、呼吸は先ほどよりも落ち着いてきていた。

 それでも意識が戻る気配はなく、長いまつ毛は閉じられたままだった。

「……ルイ」

 小さく名前を呼んでも、返事はない。

 じっと握る手を離すことができなかった。
 指先に伝わる温もりだけが、彼がここに生きている証のように思えたからだった。

 少し離れた場所では、リセラが椅子に腰掛けたままうたた寝をしていた。首元にはノクスが巻いた布がそのまま残っている。

 何度も緊張を重ねた疲れが一気に出たのだろう。腕を組んだ姿勢のまま、静かな寝息を立てていた。

 その様子を一度だけ振り返り、アデルは小さく息を吐いた。

 どれほど周囲に支えられているのかを、アデルは改めて実感していた。

 しばらく席を外していたロイクが再び病室へ戻り、アデルに静かに声を掛ける。

「アデル、ごめん。俺は……もう戻らないといけない」

 言葉を濁してはいたが、リゼットの身柄が動き始めた以上、騎士団としての責任が一気にのしかかっていることは明らかだった。

 それでもロイクは足を止め、ベッドに横たわるルイへ視線を落とす。

「……また様子を見に来る。それと、アデルの家にも寄って、伯父さんと伯母さんの様子を見ておく。事情も説明しておくから」

 その言葉には、従姉弟としての気遣いがにじんでいた。

「ええ。ありがとう、助かるわ。ロイク……」

 アデルが微笑むと、ロイクは一度だけ深く頷いた。

 そして静かに扉を閉め、病室を後にした。
 再び病室は静けさに包まれる。

 リセラの寝息と、ルイの呼吸の音だけがゆっくりと重なっていた。

 そのとき、ルイの眉がかすかに動いた。

 ほんのわずかな反応だったが、アデルは息を呑む。

「ルイ……?」

 だが、まぶたが開くことはない。
 意識は深い闇の底に沈んだままのようだった。

 そのとき、ルイの閉じられた瞳の奥で、ゆっくりと何かが揺れた。

 ルイの遠い記憶の断片が、まるで水面に浮かび上がる影のように、形を持ち始める。

 ――あの頃は、まだ何も起きていなかった。
 

 そう思っていた。
 けれど今なら分かる。
 すべては、あのときから始まっていたのだと。


***


 十三歳の春。

 王立貴族学園の入学祝いのため、モントレー伯爵邸の大広間には穏やかな祝福の空気が満ちていた。

 華やかな宴のざわめきの中で、ルイはふと視線を上げた。先ほどまで隣にいたはずのアデルの姿が見えないことに気づいたからだった。

 招待客に声をかけられて応じているうちに、互いにはぐれてしまったらしい。

 周囲を見渡すと、少し離れた場所に見慣れた後ろ姿を見つけた。

 淡い色のドレスをまとった少女が、広間の端に立っている。

 リゼットだった。

 彼女の視線は、はっきりと一点へ向けられていた。その先にいるのが誰かを確認するまでもなかった。人々に囲まれ、楽しそうに話しているアデルの姿が見える。

 だが次の瞬間、ルイの胸に小さな違和感が生まれた。

 リゼットの目に浮かんだ感情が、あまりにも明確だったからだ。

 それは尊敬でも、羨望でもない。
 冷たい感情だった。

 ほんの一瞬だけ口元がわずかに歪み、笑みとは呼べない形に変わる。その視線の奥に浮かんでいたのは、嫌悪に近いものだった。

 まるで、自分より下にあるものを見るかのような、冷ややかな眼差しだった。

 ルイは思わず足を止めた。

(……今のは…)

 違和感が消える前に確かめようと、彼は静かに歩み寄り、背後から声をかける。

「リゼット嬢?」

 少女の肩がわずかに揺れた。
 振り向いた瞬間、表情はすでに変わっていた。

 柔らかく控えめで、どこか儚げな笑みがそこにある。ほんの数秒前まで別人のような表情をしていたとは思えないほど自然だった。

「ルイ様。お久しぶりです」

 声も仕草も完璧だった。

 その変わり身の速さに、ルイは内心で驚いた。同時に、小さな警戒心が芽生える。

(……こんなにも簡単に変わるものなのか)

 リゼットはそのまま、アデルの居場所を教えながら視線を伏せた。

「お姉様は、本当に人気者ですもの。こうして、たくさんの方に囲まれて……それに比べて、私なんて……」

 儚げな声音だったが、ルイの胸には先ほど見た眼差しが残っていた。

 あれは、誰かを慕う目ではなかった。
 もっと別の感情だった。
 言葉にできない違和感が、心の奥に小さく残る。

 そのとき、ふと気づいた。
 俯いた彼女の瞳が、わずかにこちらへ向いている。

 そして、その奥に浮かんでいたのは――粘りつくような視線だった。

 まるで値踏みをするように、じっとりと絡みつく眼差し。

 その瞬間、ルイははっきりと理解した。

(……何なんだろう?)

 何かが違う。
 本能に近い感覚が告げていた。
 目の前の少女は、表に見えている姿だけではない。

 彼は何事もないように微笑み、手を差し出す。

「さあ、僕と一緒にアデルのところへ行こう」

 リゼットは一瞬だけ間を置き、それから静かに頷いた。

 そのとき胸の奥に残った違和感は、まだ名前を持っていなかった。

 だが後になって、ルイは何度も思い出すことになる。

 あの瞬間こそが、すべての始まりだったのだと。

 ――そして同時に、誰にも言えなかった始まりでもあった。

 当時の彼はまだ十三歳だった。

 確かな証拠があるわけではない。
 ただ一瞬、表情を見ただけだ。感情を読み違えた可能性もある。

 何よりも、相手はアデルの従妹だった。

 家族同然に接している少女を疑っているなどと口にすれば、アデルを傷つけるかもしれない。

 それが間違いだったとき、自分は取り返しのつかない亀裂を生むことになる。

(……ただの思い過ごしかもしれない)

 そう自分に言い聞かせた。

 あの粘つくような視線を向けられた瞬間、ルイの中で警鐘が鳴ったのは事実だった。

 しかし同時に、それを言葉にすることに、どうしようもない嫌悪感があった。

 まるで、まだ形にもなっていない不安を、口にした瞬間に現実へ変えてしまうような気がしたからだ。

 だから彼は、胸の奥にその違和感を押し込めた。確かめるまでは、何も言わない。

 もし自分の勘違いなら、それで終わればいい。そう考えた。

 ――その判断が、後にどれほど長い時間を要することになるのか、このときのルイはまだ知らなかった。

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