奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 あの日の午後の光を、ルイははっきりと覚えていた。

 モントレー邸の図書室の大きな窓から差し込む光が机の上に落ちて、紙の白さを柔らかく照らしていた。
 インクの匂いと紙の手触りに包まれた空間は、彼にとって落ち着ける場所だった。

 向かいにはアデルが座っている。
 問題集の一行を指でなぞりながら、彼女は迷いなく言った。

「この設問、ここで一度、前提を疑ったほうがいいわ」

 ルイは少し考え、すぐに頷いた。

「確かに。条件をそのまま受け取ると矛盾が出るね」

 言葉は少なくても通じる感覚があった。  
 思考の進み方が似ていると感じる瞬間は、この頃すでに何度もあった。

 そのとき、控えめなノックの音がした。
 扉の外から聞こえたのはリセラの声だった。

「お嬢様。リゼット様が来てますだ。ルイ様とお勉強中だと伝えたんだけども、何でも一緒に勉強したいだとか」

 アデルは顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせた。

「あら、そうなのね。ならお通しして」

 リセラは戸惑ったように言った。

「良いんだべか」

「ええ。リゼットも勉強したいのでしょう?ルイ、良いかしら?」

 ルイはわずかに考えた。

 学校も学年も違うリゼットが勉強に来る理由に、引っかかるものを感じないわけではなかった。
 それでも、断る理由があるわけでもない。

「構わないよ」

 そう答えた直後に、扉が開いた。

「お姉様とルイ様がお勉強中なのに……来てしまってごめんなさい。わたしも勉強が、したくて……」

 申し訳なさそうな表情でリゼットが足を踏み入れてくる。

 アデルはすぐに微笑んだ。

「リゼット。いいのよ。あなたも勉強をしたいのね?」

「はい……でも、お邪魔でしょうか?」

「そんなことないわ。一緒に勉強しましょう」

 その言葉に、リゼットはほっとしたように微笑んだ。

「お姉様、ありがとうございます」

 ルイはその様子を静かに観察していた。
 視線は伏せられ、声は控えめで、仕草も申し分なく整っている。

 表面だけを見れば、非の打ちどころがない令嬢だった。だが彼は、別の部分を見ていた。

 リゼットの手元に目を向けると、そこには何もない。ノートも教本も筆記具も見当たらなかった。

 内心でため息が漏れそうになるのを、かろうじて押しとどめる。

 勉強をしたいと言いながら準備がない時点で、目的が別にあることは明らかだった。

 ここへ来た理由が学習そのものではないことを、ルイはすぐに理解していた。

 そして同時に、ひどく呆れてもいた。

 それでも表情には一切出さない。
 アデルの前でそれを指摘する意味はない。

 ルイは自然な口調で尋ねた。

「……リゼット嬢は、何か勉強道具を持って来ているかい?」

 リゼットはゆっくりと視線を伏せた。

「いいえ……今日は、その……お姉様の横で、本を読ませていただこうと思って……」

 儚げに言葉を選ぶ仕草は、よくできていた。
 おそらく、これまで多くの場面で通用してきたのだろう。

 アデルはすぐに応じた。

「それなら、好きな本を持ってきて、ここで読むといいわ」

 リゼットは小さく微笑み、「ありがとうございます」と答えて本棚の方へ歩いていく。

 背中を見送りながら、ルイは静かに考えていた。

(……何をしに来たんだ)

 彼女は本棚の前に立ちながら、何度もこちらを振り返っていた。

 視線が向けられているのはアデルではない。自分だった。

 その事実に気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。

 そして同時に、もう一つの違和感が浮かぶ。
 彼女の振る舞いは、「控えめで儚い少女」だった。しかし、その奥にあるものは違う。

 自分の立ち位置を理解し、利用している。年齢にしては、あまりにも計算されていた。

 ルイはそのとき初めて思った。

(この子は……もしかしたら…)

 危ういものを持っている。
 ただの直感だったが、その感覚は胸の奥に残った。


***


 ある日の学園の昼休み。
 食堂で昼食を終えたあと、アデルとルイは友人たちと中庭に面した回廊へ移動していた。

 春の陽気が心地よく、石造りの床にもやわらかな光が落ちている。

 他愛ない雑談が続く中で、友人のアントワーヌ・フィッツが楽しそうに口を開いた。

 赤みの強い髪を高く結い上げた彼女は、伯爵家の令嬢らしい気品を持ちながらも、歯に衣着せぬ物言いで知られていた。

 きりりとした目元の美しさも相まって、一見すると気が強そうに見えるが、実際は裏表のないさっぱりした性格で、友人たちからの信頼も厚い。

「そういえば、この前、観劇に行ってきましたの」

 アデルはすぐに顔を向ける。

「あら、婚約者の方と?」

 アントワーヌは肩をすくめて笑った。

「違うの。スタンリー様は観劇に興味がないのよ。だから妹のミザリーと一緒に行ってきたの」

 その言葉に、隣にいたジェイク・フェイマールが即座に反応した。

 侯爵家の次男である彼は、整った顔立ちをしているものの、細縁の眼鏡と常に思考を巡らせているような表情のせいで、どこか学者肌の印象が強かった。

 体格は中肉中背で目立つ華やかさはないが、理路整然とした物言いと冷静な判断力で、同級生たちからは一目置かれている存在でもある。

「僕も観劇は苦手だな。話が急に飛躍するし、現実的じゃないだろう? 婚約者に誘われても、友人と行くように言ってしまう」

 アントワーヌは少し呆れたように眉を寄せる。

「男の方って、本当に現実的よね。夢を見る能力が足りなくて、お可哀想だわ」

「その“夢を見る能力”って、具体的に何なんだい?」

 ジェイクが真顔で問い返すと、周囲に小さな笑いが起きた。

 ルイも口元に微笑を浮かべる。

「男には、確かに足りないのかもしれないな」

 穏やかな調子だったが、どこか楽しんでいる響きがあった。

 アデルはくすりと笑い、話を戻す。

「それで、アントワーヌ。ミザリーと行って楽しかったのでしょう?」

 アントワーヌの表情が明るくなる。

「ええ、とても。あの子もすっかり感動してしまって、屋敷に帰ってからもずっと二人で感想を言い合っていたのよ」

「楽しそうね。姉妹がいるって、やっぱり素敵だわ」

 アデルの声には、素直な憧れが滲んでいた。
 アントワーヌは優しく微笑む。

「アデルは一人娘ですものね」

「ええ。でも、一つ下に従姉妹がいるの。とても可憐で、優しい子なのよ。あの子が妹みたいな存在かしら」

 そう言って、アデルは目を輝かせた。

 リゼットの話をするときの彼女は、いつも嬉しそうだった。心から大切に思っていることが、誰の目にも分かるほどに。

 その無邪気な笑顔を見た瞬間、ルイの胸の奥に小さな重さが落ちる。

 拭えない違和感は、すでに芽生えていた。

 あの日、宴で見たリゼットの眼差し。
 そして図書室で感じた、言葉にならない不自然さ。

 だが、それは確証とは呼べないほど曖昧なものだった。

 何より――

 アデルがあれほど信じている相手について、軽々しく疑いを口にすることができなかった。

 もし自分の勘違いだったらどうするのか。
 根拠のない疑念で、彼女の大切な関係を傷つけることになる。

 そう思うと、言葉は喉の奥で止まってしまい、ルイは結局、何も言わなかった。

 

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