奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 その日は、あまりにも突然に訪れた。

 夫婦で招かれたお茶会の帰り、馬車の中には穏やかな午後の空気が流れていた。

 窓から差し込む柔らかな光が、向かいに座るリゼットの横顔を淡く照らしている。

 リゼットは、ふわりと微笑んでから視線を伏せ、少し甘えた声音で言った。

「たまには、ルイ様を独占したくなる時もあるのよ。ルイ様、いつも執務でお忙しいから……」

 その言葉に、ルイは小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。

「それはすまなかったね。夫失格だな」

 そして穏やかに続ける。

「今日は、君に付き合うことにしよう」

 笑みは崩れていないはずだった。
 外から見れば、気遣いのできる優しい夫に見えているだろう。

 しかし、胸の奥では別の思考が静かに働いていた。

 リゼットがこうして甘えた声を出し、二人で出かけたいと言ってくる時には、必ず何か意図がある。この三年間で、それを嫌というほど思い知らされてきた。

 だからこそ警戒していた。

 それでも、ここまで露骨に動く理由は分からないままだった。

 王都の中心部へ差しかかった頃、突然リゼットが窓の外に身を乗り出した。

 次の瞬間、切迫した声が響く。

「止めてください!」

 馬車が急停止する。

 ルイが問いかけるより早く、リゼットは扉を開けて外へ飛び出していた。

(何事だ……?)

 内心では辟易しながらも、無視するわけにはいかない。ルイは後を追うように馬車を降りた。

 その瞬間だった。

 視界の端に入った姿に、呼吸が止まった。

 ーーアデルだった。

 三年間、忘れたことなど一度もない。
 遠目でも、すぐに分かった。

 以前よりも痩せている。衣服は質素で、髪も少し短くなっていた。かつての伯爵令嬢の面影はなかった。

 それでも、彼女の存在そのものは何ひとつ変わっていなかった。

 胸の奥で何かが激しく揺れ、心臓の鼓動が制御できなくなる。

 生きている。
 彼女が、生きている。

 その事実を理解した瞬間、三年間押し込め続けていた感情が一気にせり上がってきた。

 今すぐ駆け寄りたい。
 抱きしめたい。
 名前を呼びたい。

 その衝動が身体を突き動かそうとする。
 しかし、次の瞬間には無理やり押し殺していた。

 傍にリゼットがいることを思い出したからだった。

 リゼットは驚いた表情を浮かべ、涙を流していたが、ルイはその表情をまったく信用していなかった。

 彼女は無垢で従順な妻を演じながら、裏では常に状況を操ろうとする性質を持っている。感情すらも道具として使う人間だ。

 もし自分が少しでもアデルに未練を見せれば、リゼットの悪意は確実にアデルへ向かう。

 それだけは避けなければならない。
 だからこそ、ルイは瞬時に選んだ。
 最も冷酷に見える仮面を。


「お嬢様!!」

 アデルを庇うようにして、リセラの姿を見た瞬間、胸の奥に別の感情が広がっていた。

 あの侍女だけは、最後までアデルのそばに残った。

 エドモン夫妻が没落し、給金を払えなくなり、使用人が一人また一人と去っていった中で、彼女だけは去らなかった。

 寝たきりだったアデルを抱え、世話をし、支え続けたのは間違いなく彼女だ。

 今もこうして隣に立っている。

 それだけで、どれほど救われる思いがしたか分からない。

 アデルは一人ではなかったのだと知ることができた安堵と、言葉にできない感謝が胸の奥に静かに広がっていた。

 しかし、それを表に出すことはできない。

 ルイは口を開いた。

「その山猿のような侍女は、とっくに山に帰ったものだと思っていたが」

 本心とは正反対の言葉だった。
 侮辱する必要があると分かっていたからだ。

 リセラが激昂する方がいい。
 怒りが向けば向くほど、アデルは守られる。

「な、な、なんだとー!!」

 怒声が通りに響く。
 ルイは一顧だにせず、視線をアデルへ向けた。

 彼女の表情を直視すること自体が苦しかったが、それでも逸らさなかった。

 続けて言葉を重ねる。

「次期伯爵夫人に、このような無礼に及ぶとはな。それをたしなめもしない主人」

 刃のような声音を意図的に選んだ。
 距離を作るためだった。

「……。貴族としての常識も矜持も、とうに失ったと見える」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が強く軋んだ。

 本当は逆だと分かっている。

 矜持を失っていないのはアデルの方で、失ったのは自分の方だ。

 だが、今はそれを示してはいけない。
 沈黙を破ったのはロイクだった。

「ふざけんなよ!!」

 低く荒れた声。
 一歩前に出てくる姿を見た瞬間、別の感情が胸に浮かんだ。

 十五歳で家を出た少年は、もういなかった。

 目の前にいるのは、自分の足で立ち、生き抜いてきた男だった。

 両親との関係がここまで悪化したのは、リゼットの影響が大きいとルイは理解している。

 彼女は巧妙に不信と対立を煽った。

 ロイクはそれに抗い、家を出て騎士団に入り、自分の力で道を切り開いた。

 立派だと思った。

 そして同時に、彼の怒りは正しいとも思っていた。自分は、彼に軽蔑されて当然のことをしている。

 それでも、表情は変えない。
 ロイクの言葉が続く。

「何が貴族の矜持だ?常識だ?お前は何なんだ?妻が意識不明になった途端、妻の従妹と再婚する男が、よくもまあ、そんな台詞を吐けるな」

 その言葉は真っ直ぐ胸に刺さった。
 反論する気持ちは一切なかった。
 むしろ、その通りだと思っていた。

 しかし、ここで認めるわけにはいかない。ルイは静かに口元を緩めた。

「……おや?家出同然で騎士団に入った、我が義弟じゃないか。久しぶりだな」

 本心ではない。距離を作るために、抉る言葉を選んだ。

「義父上が、会いたがっているよ」

 ロイクの拳が震える。

「そんな汚い実家には……二度と帰らない!!」

 その叫びを聞きながら、ルイは心の奥で静かに思っていた。

 それでいい。

 戻らなくていい。
 あの家はもう、お前が帰る場所ではない。

 巻き込まれるな。
 ここから離れていろ。
 だが、その言葉は決して口には出さなかった。

 代わりに浮かべたのは、感情のない冷たい微笑だけだった。

 やがて、アデルが一歩前に出る。

「私の侍女の不始末、誠に申し訳ありませんでした」

 背筋を伸ばし、静かに頭を下げる姿を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。

 彼女は何も変わっていなかった。

 誇りも、強さも、優しさも、すべてそのまま残っている。

 自分が壊したはずのものが壊れていないことに気づき、胸の奥が激しく痛んだ。

「……お姉様…ごめんなさい」

 リゼットが儚げに涙を流す。
 その涙に、ルイの内側では激しい嫌悪が走ったが、外側には優しい夫の姿だけを見せ続けた。

「ああ、リゼット……泣かないでくれ。今日はもう帰ろう」

 馬車に乗り込む直前、アデルと視線が交わった。

 一瞬だけだった。

 彼女の瞳には責める色はなかったが、深い痛みが確かに宿っていた。

 ルイはすぐに目を逸らした。
 逸らさなければ自分が崩れてしまうと分かっていたからだ。

 馬車が動き出し、距離が少しずつ離れていく。窓の外で彼女の姿が小さくなっていくのを感じながら、ルイは一度も振り返らなかった。

 自分はまだ、狂うほど彼女を愛している。
 その事実を否定することはできなかった。

 しかし、もう近づくことはできない。
 近づけば彼女を危険にさらすことになると理解していた。

 

 

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