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昨日、どうやって帰宅したのか――カインの記憶は曖昧だった。
サナは、騒ぎを聞きつけたレインフォード伯爵夫人に付き添われ、先に帰っていった。その背中だけは、なぜか鮮明に覚えている。
あの控室での出来事。サナとクラウスが並んで眠っていたあの光景は、今も脳裏に焼きついて離れなかった。理解が追いつかないまま、動揺と混乱のままに帰宅して――気づけば、もう数日が過ぎていた。
そして今。
アルヴェスタ侯爵家。重厚な扉の奥、執務室に足を踏み入れたカインの靴音だけが、ひどく虚しく響いていた。
室内には、父である当主リチャードと、母、イザベルがすでに並んで座っていた。二人とも表情を崩さず、ただ沈痛な空気だけが漂っている。
カインは、しばし沈黙ののち、かすれるような声で尋ねた。
「……婚約、解消ですか」
カインの声はかすれていた。口にした瞬間、現実感がまた遠のく。あれは悪い夢だったのではないか、そんな淡い期待を押し潰すように、父が頷いた。
「……誰が決めたんです? 父上ですか。母上……あなたが?」
思わず声を荒げるカインを、母は静かに見つめた。叱ることも、否定することもなく、むしろ彼の傷に寄り添うような視線だった。
「父上も母上もサナを気に入っていましたよね?!なぜ、婚約解消なんて・・・!」
「レインフォード家からの正式な申し出があった」
リチャードは厳しい表情でカインに伝える。続いてイザベルが口を開く
「あなたに何も告げず決めたこと、許されることではないとわかっているわ。でも、今回は私たちではなく……レインフォード家の意向が強かったのです」
「・・・っ!何故ですか!」
椅子の背に両手を突き、カインは俯いたまま呻いた。
額を伏せ、声が震える。あの夜の光景――あの、扉の向こうで見た、信じがたい情景が脳裏に焼き付いて離れない。
「クラウス殿との件について、詳しい釈明は双方からまだ得られていない。ただ……醜聞となってしまった以上、当事者の家として、責任を取る形で決断したのだろう」
父の言葉が胸に突き刺さる。
「ですが」と、母が言葉を継いだ。
「私は、あの子が不貞など働いたとは思っていません。あの子の育ちも、性格も知っています。あんな騒ぎになったことは確かに痛手でしたが、私個人は、婚約を維持し、サナに名誉を回復する機会を与えたかったのです。けれど、レインフォード家の意向がそれを拒んだのです」
カインは、ようやく顔を上げた。だが、目はどこか虚ろで、焦点を結んでいない。
「僕のせいだ」
「カイン――?」
「僕が……あの夜、サナを一人にしなければ。あの時、ちゃんと向き合って、なにか、なにか一言でも声をかけていたら……!」
拳が震え、机の縁に打ちつけられる。父も母も黙っていた。否定も、慰めもしない。ただ、息子の慟哭を静かに受け止めていた。
「彼女は、何も言わなかった……ずっと静かで……『カイン様のお心一つでございましょう』だなんて、そんな……」
声が掠れ、喉の奥で嗚咽がつかえる。サナが冷静だったのは、自分に何の期待もしていなかったからだ。あの夜、サナの瞳は泣いていなかった。ただ、すべてを受け入れるように――諦めていた。
(僕は……あんなふうに、彼女を見たくなかったのに)
カインの脳裏には、幼い日のサナの笑顔が次々と蘇る。庭園を案内したこと。日持ちするクッキーを喜んでくれたこと。定例のお茶会では、いろんな話をしたこと。
そんな記憶の一つひとつが、今は皮肉のように思えてならない。
「――どうして・・・・・・」
呟きが空気の中に消える。
婚約は、両家の事業提携の為の政略目的であったが、サナと共に過ごしたことによって、自分にとって、唯一無二の存在で、最も信頼する人になっていた。どれだけ周囲に美辞麗句を並べられても、彼女が微笑んでくれるだけで、救われた。
(なのに……僕は、その彼女を守ることも、信じることもできなかった)
カインは、深く、深く自分を責めた。冷静だったサナの姿が、余計に胸に刺さる。
そのとき、母が小さな声で呟いた。
「……あの子は、最後まで何も言い訳をしなかったのですね・・・」」
カインは顔を上げた。母の目にも、わずかに潤みがあった。
「サナさんは、賢く、強い子だったわ。あの子の中で何が起きていたのか……今となっては、もう知る術もないけれど」
カインは唇を噛みしめ、席から立ち上がった。自分の中に渦巻く悔恨と、今さらどうにもならない現実。その狭間で、息が詰まりそうになる。
「僕は……」
その言葉の先を、誰も促さなかった。
サナは、騒ぎを聞きつけたレインフォード伯爵夫人に付き添われ、先に帰っていった。その背中だけは、なぜか鮮明に覚えている。
あの控室での出来事。サナとクラウスが並んで眠っていたあの光景は、今も脳裏に焼きついて離れなかった。理解が追いつかないまま、動揺と混乱のままに帰宅して――気づけば、もう数日が過ぎていた。
そして今。
アルヴェスタ侯爵家。重厚な扉の奥、執務室に足を踏み入れたカインの靴音だけが、ひどく虚しく響いていた。
室内には、父である当主リチャードと、母、イザベルがすでに並んで座っていた。二人とも表情を崩さず、ただ沈痛な空気だけが漂っている。
カインは、しばし沈黙ののち、かすれるような声で尋ねた。
「……婚約、解消ですか」
カインの声はかすれていた。口にした瞬間、現実感がまた遠のく。あれは悪い夢だったのではないか、そんな淡い期待を押し潰すように、父が頷いた。
「……誰が決めたんです? 父上ですか。母上……あなたが?」
思わず声を荒げるカインを、母は静かに見つめた。叱ることも、否定することもなく、むしろ彼の傷に寄り添うような視線だった。
「父上も母上もサナを気に入っていましたよね?!なぜ、婚約解消なんて・・・!」
「レインフォード家からの正式な申し出があった」
リチャードは厳しい表情でカインに伝える。続いてイザベルが口を開く
「あなたに何も告げず決めたこと、許されることではないとわかっているわ。でも、今回は私たちではなく……レインフォード家の意向が強かったのです」
「・・・っ!何故ですか!」
椅子の背に両手を突き、カインは俯いたまま呻いた。
額を伏せ、声が震える。あの夜の光景――あの、扉の向こうで見た、信じがたい情景が脳裏に焼き付いて離れない。
「クラウス殿との件について、詳しい釈明は双方からまだ得られていない。ただ……醜聞となってしまった以上、当事者の家として、責任を取る形で決断したのだろう」
父の言葉が胸に突き刺さる。
「ですが」と、母が言葉を継いだ。
「私は、あの子が不貞など働いたとは思っていません。あの子の育ちも、性格も知っています。あんな騒ぎになったことは確かに痛手でしたが、私個人は、婚約を維持し、サナに名誉を回復する機会を与えたかったのです。けれど、レインフォード家の意向がそれを拒んだのです」
カインは、ようやく顔を上げた。だが、目はどこか虚ろで、焦点を結んでいない。
「僕のせいだ」
「カイン――?」
「僕が……あの夜、サナを一人にしなければ。あの時、ちゃんと向き合って、なにか、なにか一言でも声をかけていたら……!」
拳が震え、机の縁に打ちつけられる。父も母も黙っていた。否定も、慰めもしない。ただ、息子の慟哭を静かに受け止めていた。
「彼女は、何も言わなかった……ずっと静かで……『カイン様のお心一つでございましょう』だなんて、そんな……」
声が掠れ、喉の奥で嗚咽がつかえる。サナが冷静だったのは、自分に何の期待もしていなかったからだ。あの夜、サナの瞳は泣いていなかった。ただ、すべてを受け入れるように――諦めていた。
(僕は……あんなふうに、彼女を見たくなかったのに)
カインの脳裏には、幼い日のサナの笑顔が次々と蘇る。庭園を案内したこと。日持ちするクッキーを喜んでくれたこと。定例のお茶会では、いろんな話をしたこと。
そんな記憶の一つひとつが、今は皮肉のように思えてならない。
「――どうして・・・・・・」
呟きが空気の中に消える。
婚約は、両家の事業提携の為の政略目的であったが、サナと共に過ごしたことによって、自分にとって、唯一無二の存在で、最も信頼する人になっていた。どれだけ周囲に美辞麗句を並べられても、彼女が微笑んでくれるだけで、救われた。
(なのに……僕は、その彼女を守ることも、信じることもできなかった)
カインは、深く、深く自分を責めた。冷静だったサナの姿が、余計に胸に刺さる。
そのとき、母が小さな声で呟いた。
「……あの子は、最後まで何も言い訳をしなかったのですね・・・」」
カインは顔を上げた。母の目にも、わずかに潤みがあった。
「サナさんは、賢く、強い子だったわ。あの子の中で何が起きていたのか……今となっては、もう知る術もないけれど」
カインは唇を噛みしめ、席から立ち上がった。自分の中に渦巻く悔恨と、今さらどうにもならない現実。その狭間で、息が詰まりそうになる。
「僕は……」
その言葉の先を、誰も促さなかった。
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