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しばしの沈黙のあと、カインはようやく口を開いた。
「……どうして、そんなにあっさりしていられるんだ。突然、いなくなって、それで……こんな、泥だらけの格好で……!」
声が震えていた。怒りではない。ただ、目の前のサナがあまりに変わらず、あまりに淡々としていることが、混乱を煽った。
サナは、少し首を傾げて、日陰のベンチを指差した。
「少し……お話ししても、いいですか?」
頷くしかなかった。二人は並んで腰を下ろす。初夏の風が温室のガラス越しに通り抜け、土と草花の匂いが満ちていた。
サナは、まるで誰かの昔話を語るような口調で言った。
「……フォルクス男爵領は、昔から自然災害が多い土地なんです。干ばつもあれば、水害も突風も来る。土は痩せていて、作物がうまく育たないことも多くて……。私が生まれた年も、ちょうどひどい不作だったと聞いています」
カインは黙って聞いていた。サナの目は前を向いたまま、少し遠くを見るような色をしていた。
「領民は冬を越せるかどうかの瀬戸際でした。私財はほとんど売り払い、もう打つ手がなかった。そんな時……レインフォード伯爵家から申し出があったそうです。――“二女を引き取りたい”と」
「……サナを?」
「ええ」
風が吹き、三つ編みの先が揺れた。
「レインフォード家は、かなり裕福で、手広く事業を展開していました。子供がいないことだけが問題だったようです。政略結婚に使える“駒”が必要だったんです。そこで、遠縁にあたるフォルクス家に話が来ました……多額の金銭と引き換えに、子を引き取る、という交渉でした」
カインは何も言えなかった。ただ、唇を結んでサナの言葉を待つ。
「私はその時、まだ一歳でした。記憶はありません。でも……後で聞きました。母は、泣きながら私を抱いて、何度も『不甲斐ない両親でごめんなさい』と謝っていたそうです」
彼女は、そっと目を伏せる。小さな指がエプロンの裾をきゅっと握っていた。
「私自身は、その時のことは覚えていません。でも、母は……季節が変わるごとに手紙をくれました。幼い私には難しい言葉ばかりだったけど、毎回、折り紙で花や動物を作って、封筒に入れてくれていて。それが、とても嬉しかったんです。ああ、私はちゃんと愛されていたんだなって……」
その声は穏やかだったが、微かに滲む寂しさが、胸に刺さる。
「レインフォード家は、いかにも貴族らしい考えの家でした。養女を迎えたと世間に知られれば、どこで足元をすくわれるかわからない――そう言われ、私は形式上“実子”として届け出されました。養女であることが露見しないよう、人目を引かぬようにと、静かに過ごすことを強いられてきました」
サナの瞳に、わずかに陰が落ちる。
「私は、ただの道具でした。政略の、駒。扱いを誤れば捨てられる存在……。そう思うようになってからは、もう、何も期待しなくなったんです」
カインは、サナの横顔をじっと見ていた。あの頃、ふんわりとした笑みを浮かべていた彼女の奥に、こんな感情が渦巻いていたとは――想像すらできていなかった。
「それでも、怒らせてはいけない、失望されてはいけない。ずっとそう思って、精一杯ふるまってきました。“良い子”でいれば、捨てられずにいられるかもしれない……それだけを頼りに、生きていました」
そこまで語って、サナはふっと息を吐いた。
「でも……心のどこかでは、ずっと思っていたんです。――もし、いつか自由になれたら、この貧しい土地を何とかしたい。家族も、領民も、飢えないようにしたい。……そういう未来を、夢見てもいいのかなって」
その言葉に、カインは胸が締めつけられた。
彼女は、ただ与えられた役割に耐えていたのではない。絶望の中でも、小さな希望を捨てずにいたのだ。
「サナ……」
彼女はゆっくりとカインの方を向いた。そして、少し照れたように笑った。
「だから、今はあの頃より幸せなんです。土に触れて、ここで暮らして、自分の意思で何かを選べる日々がある……それだけで、十分なんですよ」
「……どうして、そんなにあっさりしていられるんだ。突然、いなくなって、それで……こんな、泥だらけの格好で……!」
声が震えていた。怒りではない。ただ、目の前のサナがあまりに変わらず、あまりに淡々としていることが、混乱を煽った。
サナは、少し首を傾げて、日陰のベンチを指差した。
「少し……お話ししても、いいですか?」
頷くしかなかった。二人は並んで腰を下ろす。初夏の風が温室のガラス越しに通り抜け、土と草花の匂いが満ちていた。
サナは、まるで誰かの昔話を語るような口調で言った。
「……フォルクス男爵領は、昔から自然災害が多い土地なんです。干ばつもあれば、水害も突風も来る。土は痩せていて、作物がうまく育たないことも多くて……。私が生まれた年も、ちょうどひどい不作だったと聞いています」
カインは黙って聞いていた。サナの目は前を向いたまま、少し遠くを見るような色をしていた。
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「……サナを?」
「ええ」
風が吹き、三つ編みの先が揺れた。
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カインは何も言えなかった。ただ、唇を結んでサナの言葉を待つ。
「私はその時、まだ一歳でした。記憶はありません。でも……後で聞きました。母は、泣きながら私を抱いて、何度も『不甲斐ない両親でごめんなさい』と謝っていたそうです」
彼女は、そっと目を伏せる。小さな指がエプロンの裾をきゅっと握っていた。
「私自身は、その時のことは覚えていません。でも、母は……季節が変わるごとに手紙をくれました。幼い私には難しい言葉ばかりだったけど、毎回、折り紙で花や動物を作って、封筒に入れてくれていて。それが、とても嬉しかったんです。ああ、私はちゃんと愛されていたんだなって……」
その声は穏やかだったが、微かに滲む寂しさが、胸に刺さる。
「レインフォード家は、いかにも貴族らしい考えの家でした。養女を迎えたと世間に知られれば、どこで足元をすくわれるかわからない――そう言われ、私は形式上“実子”として届け出されました。養女であることが露見しないよう、人目を引かぬようにと、静かに過ごすことを強いられてきました」
サナの瞳に、わずかに陰が落ちる。
「私は、ただの道具でした。政略の、駒。扱いを誤れば捨てられる存在……。そう思うようになってからは、もう、何も期待しなくなったんです」
カインは、サナの横顔をじっと見ていた。あの頃、ふんわりとした笑みを浮かべていた彼女の奥に、こんな感情が渦巻いていたとは――想像すらできていなかった。
「それでも、怒らせてはいけない、失望されてはいけない。ずっとそう思って、精一杯ふるまってきました。“良い子”でいれば、捨てられずにいられるかもしれない……それだけを頼りに、生きていました」
そこまで語って、サナはふっと息を吐いた。
「でも……心のどこかでは、ずっと思っていたんです。――もし、いつか自由になれたら、この貧しい土地を何とかしたい。家族も、領民も、飢えないようにしたい。……そういう未来を、夢見てもいいのかなって」
その言葉に、カインは胸が締めつけられた。
彼女は、ただ与えられた役割に耐えていたのではない。絶望の中でも、小さな希望を捨てずにいたのだ。
「サナ……」
彼女はゆっくりとカインの方を向いた。そして、少し照れたように笑った。
「だから、今はあの頃より幸せなんです。土に触れて、ここで暮らして、自分の意思で何かを選べる日々がある……それだけで、十分なんですよ」
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