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柔らかな陽射しが差し込む早朝、サナは畑の縁を静かに歩いていた。
朝露に濡れた地面はまだ少し冷たく、足元の草には小さな露がきらめいている。だが、彼女の足取りには迷いがなかった。
ほんのり湿った風が頬を撫で、草の香りが胸いっぱいに広がる。
その空気に包まれながら、サナはどこか安堵するように目を細めた。
(この春を越えて、土はまた豊かになる。人の手で耕された大地は、きっと応えてくれる)
遠くで、牛を引く農夫が帽子を取ってサナに軽く頭を下げた。
サナも微笑み、小さく会釈を返す。
領主の娘としてではなく、同じ土地に立つ者として、彼らと肩を並べて働きたい――その想いは、知らぬ間に彼女の心の根となり、支えとなっていた。
だが最近、身体のだるさを感じる日が増えていた。
夜になると咳が止まらず、微熱も続いている。それでも、それを誰かに伝えるつもりはなかった。
「ちゃんと、食べないと……」
そう呟いたものの、朝食のパンは半分も喉を通らなかった。
午前中には温室の確認を終え、商会との打ち合わせをこなし、午後は書類整理と教育部門から依頼された小学校の教材の見直しに目を通す。
机に向かっていると、目の奥に鈍い痛みが走った。
(風邪……かな。でも、すぐに治るはず)
自分にそう言い聞かせて立ち上がる。思ったよりふらつきが強かったが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
そのとき――
「サナ、入っていいかしら?」
姉、クラリスの穏やかな声が扉越しに響いた。
「どうぞ」
扉が開き、春に生まれたばかりの赤ん坊を抱いたクラリスが現れる。
「久しぶりに、あなたの顔を見たくなって」
「そんな、毎日顔を合わせてるのに」
「でも最近は、ちゃんとした時間が取れてなかったから。……体調、崩してない?顔色が悪いわ」
その問いに、サナはわずかに微笑み、そっと首を振った。
「大丈夫です。ちょっと夜更かしが続いたせいかもしれません」
クラリスは妹の顔をじっと見つめ、小さくため息をついた。
「……無理しないでね。あなたが元気でいてくれることが、私たちにとって一番大事なんだから」
その言葉に、サナの胸がほんの少しだけあたたかくなった。
「お姉さまの方こそ。赤ちゃんのお世話でお忙しいでしょう? ご自身のお身体も、ちゃんと休めてくださいね」
やがて姉が部屋を後にすると、サナは机の引き出しから小さな箱を取り出した。
その中には、かつて伯爵家の養女として過ごしていた頃から、母が送り続けてくれた手紙と、最近届いたばかりの便りの束が一緒に納められていた。
一番上にあったのは、王都にいるカインからの手紙だった。
『無理はしていませんか。フォルクスの春はどうですか? サナが元気でいてくれることが、僕にとって一番の安心です』
不器用で飾り気のない文章。けれど、その一文一文が、不思議と胸に染み入る。
少しずつやり取りを交わすようになってから、心のどこかが、ふわりとあたたかくなるのを感じていた。
カインに心配をかけたくなくて、いつも「元気です」と書き送っていた。
本当は、ほんの少し――声が聞きたいと思う夜もあったけれど。
母の手紙も、カインの手紙も、似たような言葉ばかり。
それでも、その優しさが、今のサナを支えていた。
(お母さま……カインさま……)
目を閉じると、遠い記憶の中に、レインフォード家で暮らしていた頃の自分が浮かんでくる。
冷たい空気の中、孤独な心を慰めてくれたのは、母の手紙だけではなかった。
――カインとのお茶会もまた、心を癒してくれていたのだと、今になって気づく。
(あの人の、あの温かい眼差しに……昔も今も、救われていたのね)
サナはそっと目を開け、箱の蓋を閉じる。
まだ終わりじゃない。
不調も、疲れも、不安も――全部、自分で乗り越えてみせる。
「頑張ろう、私」
小さく、けれど確かにそう口にしたその声は、誰に聞かせるでもなく、それでいて確かな決意に満ちていた。
その夜も、微熱は引かなかった。
けれどサナはそれを気にする素振りも見せず、翌朝も変わらぬ時間に起きて畑へ向かった。
その姿に、周囲の誰もが「いつも通り」と思った。
だが、その身体は――静かに、確実に限界へと近づいていた。
──そして、初夏の陽がやわらかく空を染めるある朝。
誰よりも早く目覚めたサナは、普段と変わらぬ微笑みを浮かべて、離れの扉を開けた。
その背中はどこか頼りなく、ふわりとした足取りで、朝露の残る地面を踏みしめていく。
小さな違和感が、誰かの胸を掠めながら、音もなく一日が始まっていく。
──誰もまだ、その日、彼女が倒れることを知らなかった。
朝露に濡れた地面はまだ少し冷たく、足元の草には小さな露がきらめいている。だが、彼女の足取りには迷いがなかった。
ほんのり湿った風が頬を撫で、草の香りが胸いっぱいに広がる。
その空気に包まれながら、サナはどこか安堵するように目を細めた。
(この春を越えて、土はまた豊かになる。人の手で耕された大地は、きっと応えてくれる)
遠くで、牛を引く農夫が帽子を取ってサナに軽く頭を下げた。
サナも微笑み、小さく会釈を返す。
領主の娘としてではなく、同じ土地に立つ者として、彼らと肩を並べて働きたい――その想いは、知らぬ間に彼女の心の根となり、支えとなっていた。
だが最近、身体のだるさを感じる日が増えていた。
夜になると咳が止まらず、微熱も続いている。それでも、それを誰かに伝えるつもりはなかった。
「ちゃんと、食べないと……」
そう呟いたものの、朝食のパンは半分も喉を通らなかった。
午前中には温室の確認を終え、商会との打ち合わせをこなし、午後は書類整理と教育部門から依頼された小学校の教材の見直しに目を通す。
机に向かっていると、目の奥に鈍い痛みが走った。
(風邪……かな。でも、すぐに治るはず)
自分にそう言い聞かせて立ち上がる。思ったよりふらつきが強かったが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
そのとき――
「サナ、入っていいかしら?」
姉、クラリスの穏やかな声が扉越しに響いた。
「どうぞ」
扉が開き、春に生まれたばかりの赤ん坊を抱いたクラリスが現れる。
「久しぶりに、あなたの顔を見たくなって」
「そんな、毎日顔を合わせてるのに」
「でも最近は、ちゃんとした時間が取れてなかったから。……体調、崩してない?顔色が悪いわ」
その問いに、サナはわずかに微笑み、そっと首を振った。
「大丈夫です。ちょっと夜更かしが続いたせいかもしれません」
クラリスは妹の顔をじっと見つめ、小さくため息をついた。
「……無理しないでね。あなたが元気でいてくれることが、私たちにとって一番大事なんだから」
その言葉に、サナの胸がほんの少しだけあたたかくなった。
「お姉さまの方こそ。赤ちゃんのお世話でお忙しいでしょう? ご自身のお身体も、ちゃんと休めてくださいね」
やがて姉が部屋を後にすると、サナは机の引き出しから小さな箱を取り出した。
その中には、かつて伯爵家の養女として過ごしていた頃から、母が送り続けてくれた手紙と、最近届いたばかりの便りの束が一緒に納められていた。
一番上にあったのは、王都にいるカインからの手紙だった。
『無理はしていませんか。フォルクスの春はどうですか? サナが元気でいてくれることが、僕にとって一番の安心です』
不器用で飾り気のない文章。けれど、その一文一文が、不思議と胸に染み入る。
少しずつやり取りを交わすようになってから、心のどこかが、ふわりとあたたかくなるのを感じていた。
カインに心配をかけたくなくて、いつも「元気です」と書き送っていた。
本当は、ほんの少し――声が聞きたいと思う夜もあったけれど。
母の手紙も、カインの手紙も、似たような言葉ばかり。
それでも、その優しさが、今のサナを支えていた。
(お母さま……カインさま……)
目を閉じると、遠い記憶の中に、レインフォード家で暮らしていた頃の自分が浮かんでくる。
冷たい空気の中、孤独な心を慰めてくれたのは、母の手紙だけではなかった。
――カインとのお茶会もまた、心を癒してくれていたのだと、今になって気づく。
(あの人の、あの温かい眼差しに……昔も今も、救われていたのね)
サナはそっと目を開け、箱の蓋を閉じる。
まだ終わりじゃない。
不調も、疲れも、不安も――全部、自分で乗り越えてみせる。
「頑張ろう、私」
小さく、けれど確かにそう口にしたその声は、誰に聞かせるでもなく、それでいて確かな決意に満ちていた。
その夜も、微熱は引かなかった。
けれどサナはそれを気にする素振りも見せず、翌朝も変わらぬ時間に起きて畑へ向かった。
その姿に、周囲の誰もが「いつも通り」と思った。
だが、その身体は――静かに、確実に限界へと近づいていた。
──そして、初夏の陽がやわらかく空を染めるある朝。
誰よりも早く目覚めたサナは、普段と変わらぬ微笑みを浮かべて、離れの扉を開けた。
その背中はどこか頼りなく、ふわりとした足取りで、朝露の残る地面を踏みしめていく。
小さな違和感が、誰かの胸を掠めながら、音もなく一日が始まっていく。
──誰もまだ、その日、彼女が倒れることを知らなかった。
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