35 / 42
35 静かな余韻
しおりを挟む
夜明け直前の薄明かりの中、森の外れの小道に、ユリアンはリリエルの手を引いて現れた。背後では崩れかけた屋敷が静かに沈黙している。森の中から現れたティムとアベルが、気配に気づいて駆け寄ってきた。
「リリエル嬢……!」
ティムの声が震える。ユリアンの肩越しに彼女の姿を確認し、ほっと息を吐いた。
「無事で……いてくれて、本当に……」
アベルが感極まったように目を伏せた。
ユリアンは疲労のにじむ声で言った。
「……ひとまず、ここを離れる。奴らの動きが予想以上に早い。再編された追撃隊が来る前に、安全圏に入るぞ」
「準備はできてる。馬も隠してある」
ティムが頷き、リリエルに上着を渡す。
彼女は小さく頭を下げて礼を言った。
山を越え、王都の外縁部にある古い教会跡地へ。そこはすでに信頼できる修道士たちによって人払いがされ、仲間の待機所となっていた。
「ここなら追手も来ない。旧派閥に寝返っていない、数少ない教会関係者が協力してくれている」
アベルの説明に、リリエルは深く息を吐いた。
教会の奥、暖炉の残る一室。ユリアンは火を起こし、冷え切ったリリエルに毛布を掛ける。
「・・・君が生きていてくれて、よかった」
その低い声は、今にも崩れそうな感情を抑えているようだった。
リリエルはかすかに微笑み、震える指でユリアンの手を取った。
「ユリアンさんこそ……無事で、本当によかったです……」
焚き火がはぜ、しばし二人の間には言葉のいらない沈黙が満ちた。
風の音さえ聞こえるほど、静かな夜だった。
一行は山間の避難小屋へ身を潜め、仲間たちは交代で見張りについていた。
小さな炉にくべられた火が、微かに揺れている。その前で、ユリアンとリリエルは肩を並べて座っていた。
「……寒くないか?」
ユリアンの問いに、リリエルは首を横に振った。
「ええ……大丈夫です。ありがとうございます」
返す声が少し震えていたのは、疲れのせいだけではない。
リリエルの指先は膝の上でそっと重ねられ、そこからぴんと緊張が伝わってきた。
ユリアンは、視線を彼女の横顔に落とした。安堵とともに、胸の奥から溢れそうになる感情に、唇を噛みしめる。
彼女が無事でよかった――
それ以上に、もう二度と、失いたくない。
「……君を巻き込んでしまってすまない。こんな目に合わせたくなかった」
絞り出すような低い声に、リリエルが目を見開く。
「・・・悪いのはユリアンさんじゃありません。ユリアンさんが助けに来てくれると、私は信じていました。あの闇の中で、何度も……」
そう言って、リリエルは自分でも気づかぬうちに手を伸ばし、彼の指先に触れた。
その瞬間、ユリアンの中で、何かがはじけた。
もう、止められなかった。
「リリエル……」
名を呼ぶと同時に、彼女の肩をそっと抱き寄せ、唇を重ねた。優しく、けれど確かに、心の奥に触れるような深いキスだった。
驚きにリリエルは瞳を見開いた。
身体がふわりと浮かぶような感覚に包まれ、息を忘れた。
そして、彼の胸元にそっと手を置いた時――ユリアンが、はっと身を引いた。
「……すまない。俺は……」
一瞬、理性が戻った。
リリエルがどれほど怖い思いをしたか、どれほど心細かったか、
今はその傷を癒す時なのに、己の衝動で触れてしまったことを、深く悔いた。
「君を……大切にしたいのに、俺は……」
俯いたユリアンに、リリエルはしばらく何も言わなかった。
ただ、胸の奥で高鳴る鼓動を静かに受け止めながら――ゆっくりと言った。
「私……驚いたけれど、嫌じゃなかったです」
頬を赤らめながら、けれどまっすぐに彼を見つめて言うリリエルに、ユリアンの喉が鳴る。
「君は、優しすぎる……」
「ユリアンさんも、です」
ふたりはしばらく黙っていた。
けれどその沈黙は、不安でも、気まずさでもなかった。確かな想いを、互いに心の奥で確かめ合う、静かな余韻だった。
~~~~~~~~~~~
朝の陽光が、やわらかく山々を染めていた。
夜通しの見張りと移動を経て、馬車はようやく修道院の丘を越える。
「見えてきたな……」
ユリアンが小さく呟くと、リリエルは窓の外に目をやった。
赤い屋根と白い壁、懐かしい鐘楼の姿が、朝もやの中に浮かび上がる。
「……戻ってこられたんですね」
その声には、安堵と少しの名残惜しさが混じっていた。
ユリアンは何も言わずに頷き、馬車が修道院の前に停まると、そっとリリエルの手を取った。
「ここまで、無事に来られたのは君のおかげだ」
「……私こそ・・・」
ふたりはしばらく見つめ合い、そしてリリエルは一歩、馬車から降りる。
修道女たちが駆け寄り、彼女の無事を確かめて歓声を上げた。
その輪の中で、リリエルは何度も頷き、笑顔を見せたあと――ふと、振り返った。
ユリアンは、何も言わずに彼女を見ていた。その瞳には、誇らしさと、名残惜しさと、どこか温かな決意が浮かんでいた。
「……行ってきますね」
リリエルのその一言に、ユリアンは微笑み、小さく頷いた。
「また、会おう。必ず」
扉が閉まり、鐘の音が高く鳴り響く。
ユリアンはひとり、背を向け、歩き出した。
その背中に、朝の光が静かに差し込んでいた。
「リリエル嬢……!」
ティムの声が震える。ユリアンの肩越しに彼女の姿を確認し、ほっと息を吐いた。
「無事で……いてくれて、本当に……」
アベルが感極まったように目を伏せた。
ユリアンは疲労のにじむ声で言った。
「……ひとまず、ここを離れる。奴らの動きが予想以上に早い。再編された追撃隊が来る前に、安全圏に入るぞ」
「準備はできてる。馬も隠してある」
ティムが頷き、リリエルに上着を渡す。
彼女は小さく頭を下げて礼を言った。
山を越え、王都の外縁部にある古い教会跡地へ。そこはすでに信頼できる修道士たちによって人払いがされ、仲間の待機所となっていた。
「ここなら追手も来ない。旧派閥に寝返っていない、数少ない教会関係者が協力してくれている」
アベルの説明に、リリエルは深く息を吐いた。
教会の奥、暖炉の残る一室。ユリアンは火を起こし、冷え切ったリリエルに毛布を掛ける。
「・・・君が生きていてくれて、よかった」
その低い声は、今にも崩れそうな感情を抑えているようだった。
リリエルはかすかに微笑み、震える指でユリアンの手を取った。
「ユリアンさんこそ……無事で、本当によかったです……」
焚き火がはぜ、しばし二人の間には言葉のいらない沈黙が満ちた。
風の音さえ聞こえるほど、静かな夜だった。
一行は山間の避難小屋へ身を潜め、仲間たちは交代で見張りについていた。
小さな炉にくべられた火が、微かに揺れている。その前で、ユリアンとリリエルは肩を並べて座っていた。
「……寒くないか?」
ユリアンの問いに、リリエルは首を横に振った。
「ええ……大丈夫です。ありがとうございます」
返す声が少し震えていたのは、疲れのせいだけではない。
リリエルの指先は膝の上でそっと重ねられ、そこからぴんと緊張が伝わってきた。
ユリアンは、視線を彼女の横顔に落とした。安堵とともに、胸の奥から溢れそうになる感情に、唇を噛みしめる。
彼女が無事でよかった――
それ以上に、もう二度と、失いたくない。
「……君を巻き込んでしまってすまない。こんな目に合わせたくなかった」
絞り出すような低い声に、リリエルが目を見開く。
「・・・悪いのはユリアンさんじゃありません。ユリアンさんが助けに来てくれると、私は信じていました。あの闇の中で、何度も……」
そう言って、リリエルは自分でも気づかぬうちに手を伸ばし、彼の指先に触れた。
その瞬間、ユリアンの中で、何かがはじけた。
もう、止められなかった。
「リリエル……」
名を呼ぶと同時に、彼女の肩をそっと抱き寄せ、唇を重ねた。優しく、けれど確かに、心の奥に触れるような深いキスだった。
驚きにリリエルは瞳を見開いた。
身体がふわりと浮かぶような感覚に包まれ、息を忘れた。
そして、彼の胸元にそっと手を置いた時――ユリアンが、はっと身を引いた。
「……すまない。俺は……」
一瞬、理性が戻った。
リリエルがどれほど怖い思いをしたか、どれほど心細かったか、
今はその傷を癒す時なのに、己の衝動で触れてしまったことを、深く悔いた。
「君を……大切にしたいのに、俺は……」
俯いたユリアンに、リリエルはしばらく何も言わなかった。
ただ、胸の奥で高鳴る鼓動を静かに受け止めながら――ゆっくりと言った。
「私……驚いたけれど、嫌じゃなかったです」
頬を赤らめながら、けれどまっすぐに彼を見つめて言うリリエルに、ユリアンの喉が鳴る。
「君は、優しすぎる……」
「ユリアンさんも、です」
ふたりはしばらく黙っていた。
けれどその沈黙は、不安でも、気まずさでもなかった。確かな想いを、互いに心の奥で確かめ合う、静かな余韻だった。
~~~~~~~~~~~
朝の陽光が、やわらかく山々を染めていた。
夜通しの見張りと移動を経て、馬車はようやく修道院の丘を越える。
「見えてきたな……」
ユリアンが小さく呟くと、リリエルは窓の外に目をやった。
赤い屋根と白い壁、懐かしい鐘楼の姿が、朝もやの中に浮かび上がる。
「……戻ってこられたんですね」
その声には、安堵と少しの名残惜しさが混じっていた。
ユリアンは何も言わずに頷き、馬車が修道院の前に停まると、そっとリリエルの手を取った。
「ここまで、無事に来られたのは君のおかげだ」
「……私こそ・・・」
ふたりはしばらく見つめ合い、そしてリリエルは一歩、馬車から降りる。
修道女たちが駆け寄り、彼女の無事を確かめて歓声を上げた。
その輪の中で、リリエルは何度も頷き、笑顔を見せたあと――ふと、振り返った。
ユリアンは、何も言わずに彼女を見ていた。その瞳には、誇らしさと、名残惜しさと、どこか温かな決意が浮かんでいた。
「……行ってきますね」
リリエルのその一言に、ユリアンは微笑み、小さく頷いた。
「また、会おう。必ず」
扉が閉まり、鐘の音が高く鳴り響く。
ユリアンはひとり、背を向け、歩き出した。
その背中に、朝の光が静かに差し込んでいた。
417
あなたにおすすめの小説
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
王子様への置き手紙
あおた卵
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
【完結】8年越しの初恋に破れたら、なぜか意地悪な幼馴染が急に優しくなりました。
大森 樹
恋愛
「君だけを愛している」
「サム、もちろん私も愛しているわ」
伯爵令嬢のリリー・スティアートは八年前からずっと恋焦がれていた騎士サムの甘い言葉を聞いていた。そう……『私でない女性』に対して言っているのを。
告白もしていないのに振られた私は、ショックで泣いていると喧嘩ばかりしている大嫌いな幼馴染の魔法使いアイザックに見つかってしまう。
泣いていることを揶揄われると思いきや、なんだか急に優しくなって気持ち悪い。
リリーとアイザックの関係はどう変わっていくのか?そしてなにやら、リリーは誰かに狙われているようで……一体それは誰なのか?なぜ狙われなければならないのか。
どんな形であれハッピーエンド+完結保証します。
【完結】あなたの瞳に映るのは
今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。
全てはあなたを手に入れるために。
長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。
★完結保証★
全19話執筆済み。4万字程度です。
前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。
表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。
彼は政略結婚を受け入れた
黒猫子猫
恋愛
群島国家ザッフィーロは臣下の反逆により王を失い、建国以来の危機に陥った。そんな中、将軍ジャックスが逆臣を討ち、王都の奪還がなる。彼の傍にはアネットという少女がいた。孤立無援の彼らを救うべく、単身参戦したのだ。彼女は雑用を覚え、武器をとり、その身が傷つくのも厭わず、献身的に彼らを支えた。全てを見届けた彼女は、去る時がやってきたと覚悟した。救国の将となった彼には、生き残った王族との政略結婚の話が進められようとしていたからだ。
彼もまた結婚に前向きだった。邪魔だけはするまい。彼とは生きる世界が違うのだ。
そう思ったアネットは「私、故郷に帰るね!」と空元気で告げた。
よき戦友だと言ってくれた彼との関係が、大きく変わるとも知らずに。
※関連作がありますが、これのみで読めます。
※全13話です。
捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。
蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。
これで、貴方も私も自由です。
……だから、もういいですよね?
私も、自由にして……。
5年後。
私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、
親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、
今日も幸せに子育てをしています。
だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。
私のことは忘れて……。
これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。
はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?
【完結】その仮面を外すとき
綺咲 潔
恋愛
耳が聞こえなくなってしまったシェリー・スフィア。彼女は耳が聞こえないことを隠すため、読唇術を習得した。その後、自身の運命を変えるべく、レイヴェールという町で新たな人生を始めることを決意する。
レイヴェールで暮らし始めた彼女は、耳が聞こえなくなってから初となる友達が1人でき、喫茶店の店員として働くことも決まった。職場も良い人ばかりで、初出勤の日からシェリーはその恵まれた環境に喜び安心していた。
ところが次の日、そんなシェリーの目の前に仮面を着けた男性が現れた。話を聞くと、仮面を着けた男性は店の裏方として働く従業員だという。読唇術を使用し、耳が聞こえる人という仮面を着けて生活しているシェリーにとって、この男性の存在は予期せぬ脅威でしかない。
一体シェリーはどうやってこの問題を切り抜けるのか。果たしてこの男性の正体は……!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる