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第三章 毒入り林檎

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目の前にいる少女が銀桃の髪を揺らして、俺を振り返る。



まさか王国に来て早々、最初に観光するのが王都の下町だとは思ってもみなかった。



昨夜から、啖呵を切って自身の願いを心から叫んだ彼女に俺は視線を奪われてばかりだ。



舞踏会用のドレスが窮屈だったのもあるだろうが、星空のワンピースで生き生きと駆け回っている今の姿の方がパトリシアらしい、とよく知りもしないで、それでも確固たる自信を持ってそう思う。



ついつい緩んでしまう頬や細めてしまう目を、彼女にだけはバレないように隠して、出来るだけうきうきした心の内を見せないように、俺はパトリシアの背中を追いかける。



青空の下で彼女と出店を回っているとき、彼女が知り合いらしき酔っ払いたちと気の抜けた会話の応酬をしているのを横で聞いているとき、あるいは安い綿菓子を口に含んでその甘さに眉を顰めているとき、そして横から伸びて来た柔らかい頬が手を掠め、俺の持っていた綿菓子にパトリシアが噛み付いたとき。



俺は初めて生きる実感を得た。

血生臭い王宮での駆け引きも、民たちの敵意に塗れた視線も、香水塗れの女の身体も、舌を痺れさせる毒入りの晩餐も、これまで俺を取り巻いてきた全てがまるで嘘だったかのようで。



それを何の取り柄もなさそうな公爵令嬢が与えてくれたことにまた驚きは加速して。



他愛もない会話など、生まれて初めての経験だった。

軽い社交辞令が成立したのも、辺りを警戒することなく人混みの多い露店を巡り歩いたのも、どれもこれもが初めてで、この感覚はなんと言えばいいのだろう。



とにかく、初めての感情が湧き上がってきては俺の心を支配し、一向に消えていく気配がなかった。



夕暮れが街を包む頃には、心地よい疲労感と共にパトリシアと横に並んで中央広場の噴水に腰掛けていた。



「今日が終わって欲しくねぇなぁ」

「だよねぇ、私も明日が来たらまた王子の婚約者だもん」



むすっと眉間に皺を寄せてそんなことを言っている。

半日を通して随分と砕けた口調になったパトリシアの言葉に、ちょっとだけ腹立たしさが募った。



何故だろう。

気がつけば俺は静かに口を開いていた。



「パトリシア、お前が本気で平民として生きる覚悟があることは今日一日を通して嫌というほど理解した」



「でしょう?」



「それなのに、どうしてまだ王子の婚約者役に甘んじている?」



先程までの自信に満ち溢れていたパトリシアの表情が、途端に脆く淡く崩れていく。

その蠱惑的な薄桃色の瞳を揺らして、彼女は言葉をたどたどしく紡ぐ。



「だって、でも。……私には、責任があって。任されたからには、やり遂げなければならなくて。…………あぁ、だけど、そっかぁ。私、今は会社員じゃないんだった。そっか、そっかぁ」



途中から意味が分からない単語が飛び出してきたが、そんなことよりも今は。



「パトリシア」

「うん?」



焦点の合わない彼女の瞳が心配で、俺は思わず無理矢理に彼女の意識を俺の方へと、こちら側へと、引き戻した。



「こっちを見ろ。……俺がこのまま連れ去ってやろうか?」



パトリシアが息を呑む。



彼女の華奢で繊細な顎を指で摘み、俺は彼女に顔を近づけた。

彼女からは男を魅了してやまない、甘い香りがしていた。



「お前が本気なら、今すぐに婚約破棄できる方法が一つだけある。お前自身を、俺に賭けてみないか?」
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