君と普通の恋をした

アポロ

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普通の光

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「あといくら払えばいい?」

 舞香まいかさんが朝まで過ごすために必要な金額を恐る恐る知りたがった。

「ロングの基本は一時間二万円です。もっと安くて良い気もするんですが。店の決まりなので割引しちゃいけないことになっています。だからもし五時まで延長という場合は」

「十万円」

「ですね」

 良いホテルだった。宿泊代だって当たり前だがかなり高い。
 ぼくたちはしばし口をつぐみ、巨大な窓から嘘みたいに美しい街の光を眺めた。
 舞香さんがどこで何の仕事をしていていくら稼いでいるのかは全然知らなかったが、眠くなれないくらいの理由で朝まで遊ぶなんておすすめしたくなかった。

「うーん、十万かあ。高いと思うか安いと思うかだなあ。ひかる君の一晩だもん、きっと買った人はいるんだろうね」

「他の人がどうかは関係ありません。ぼくは舞香さんと過ごせれば嬉しいだけです。いつも通り、一時間でも」

 深まった夜の街は頼りなく点滅していた。小さく見える車たちを切れ切れに走らせている。見下ろせるビルの窓群は、そのほとんどの灯が消されていた。

「私も光君と過ごせればそれだけで嬉しい。でも一緒に過ごせる時間が短すぎて切ないよ」

「ええ。ずっと一緒にいられたらいいのに。それはぼくも同じですよ」

 そう言えば喜ばれると思った。ほんの少し寄り添って笑ったつもりだ。なのに、舞香さんはまるでダムに穴が開いたように泣き出してしまった。

「ごめんね」

「ううん。ぼくの方こそ」

「違うの。聞いてよ。私、結局はさびしいだけなんだよ。君のことは好き。だから君に有り金を使うのは別に全然かまわない。だけど、もしもそうしたらもっとさびしくなるに決まってるって気付いてこのザマ。十万? 払えばいいじゃん。そしたらもっと遊べるじゃん。それでいいじゃん。お金を出すだけで自分が救われるし光君も助けられる。本当はどうしたら良いか、ちゃんとわかってるんだよ。でもどっちにしろこんな自分じゃ駄目になるんだって思ったらうわあああ」

 タイマーが鳴った。
 店に持たされていた、百均で買えるタイマーだ。

「え。もう終わり?」

「はい。すみません。店に電話します」

「もう終わりかあ」

「すみません、決まりなので仕方が、あ、もしもしお疲れ様です。光です。これから戻ります。はい。いえ、大丈夫です。はい、わかりました」

 スタッフと電話で話すと、自分の立場を淡々と思い出す。光。そんな綺麗な名前を付けられて、得体の知れない客らに売られている。光は売れるためには何でもやるし、金にならないことはやらない。

 とにかく金が必要だった。
 生きるためにどうしても金がいる。

「光君、どうしたの?」

「いえ、少し立ちくらみしただけで。もう大丈夫。出ましょう。また会ってくださいね」

 舞香さんが何の仕事をしていてどれだけ稼いでいるのか知らない。でも何百万円も借金があることは分かっていた。それは店が提携する闇金経由の情報だから確実だった。
 店が把握している客の秘密や懐具合はマネージャーが教えてくれる。

 彼女は切羽詰まっていた。もう風俗で働くかAVに出るしかないってぐらいに。
 だからぼくを買うのはこの夜を最後にするしかなかったのだ。

 *

 舞香さんのことについてマネージャーに相談したことはあった。

「あの人が呼ぶのは、ぼく一人だけだそうです。それにしても使う額はたかが知れてます。月に十万もいかない。なのに、何でそんなにたくさん借金があるんですかね?」

「光君は彼女が好きなのか?」

「はい。普通に好きになりました」

「じゃあ教えてやる。あの人が呼ぶのは光君だけじゃない。だまされるな」

「それは……そうかもしれない」

「それでも好きだと思う?」

「はい」

「じゃあ、がんばれとしか言えない」

「ええ」

 *

 何の仕事をしていてどれくらい稼いでいようが、何のためにどれくらい借金をしていようが、ぼくにとって彼女が彼女であればそれで良かった。

 一目惚れだったんだ。
 ぼくの初恋だったんだ。

 あれから十年経った。それでも最後に受け取った二万円を忘れられない。

 ぼくは夜の世界を抜けた。それから十年、普通に昼職で稼いでいる。
 普通に働きながら、普通の女と結婚して、夜は趣味で短い小説を書く。
 そんな十年後の生活があるなんて、あの頃のぼくは想像もしなかった。

「今度は何を書いてるの」

 妻がお茶を持ってきた。

「普通の恋かな」

 妻が首を傾げた。

「具体的には?」

 それを説明したら台無しだ。短い小説の説明なんか先にしたら、読む意味がなくなるじゃないか。
 お茶を濁せば良いところだ。

「馬鹿な女が十万使うか馬鹿な男が五百万振り込むか、そんな普通の恋だよ」

 ぼくたちはもう幸せに暮らせている。豪華なホテルの部屋を使う必要はなく、タイマーの音でハイサヨナラなんてことにはならない。

「うふふ、普通ねえ。私は普通の恋なんてしたことがないなあ」

 ペンネームだけは誰かさんのお気に入りだから変わらなかった。
 夜を抜けても、何を失って何を手に入れても、ぼくの名は光のままになった。
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