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第8話
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「テルハ、調子はどう?」
いよいよ選考会の直前になって、人の調子を心配している場合ではない人が、微笑みながらそんなことを聞いてくる。
結局、茅吹先輩は何事もなかったように部活に顔を出して、選考会を走ろうとしている。
「いいですよ。すこぶるいいです」
油断すると顔を出しそうになる心配を、昼休みにもみじからかけてもらった言葉を思い出しながら押し込める。
実際、昼までメンタルがボロボロだったと思えないくらい身体は軽かった。まずはわたしが頑張る。シンプルに割り切った途端、今度は走りたくてウズウズしている。
「そっか。そりゃよかった」
笑っている茅吹先輩は、さっきからずっと右足首を固定するテーピングに苦戦していた。何度か巻いては納得がいかないのか剥がしてを繰り返してる。表情は笑顔だけど、心なしか手元が焦っている気がする。
「苦手なんですか、テーピング?」
「うーん、ほとんど故障とかしなかったから」
「ああ、なるほど……」
確かに、わたしが知ってるのはこの半年程度だけど、茅吹先輩が故障したとかどこかを痛めた様子を見たことはなかった。そういう走り方ができるから速いのか、故障しないから着実に練習できるて強いのか。
とにかく問題は、次々とムダになっていくばかりのテーピングの方だった。選考会のスタートまでもうあまり時間はない。
ああ、もう、こうなったら。
「あの、わたしがやりましょうか?」
「え、いいのか?」
みんなの目があるところで気にならないと言えば嘘だけど、テーピングもなしに先輩を走らせるよりマシだ。
「中学時代はちょこちょこ痛めたりしてたので、先輩よりはマシなはずです」
「そうなんだ。全然そんな印象なかったな」
そういえば、わたしも高校に入ってからは中学時代が嘘のように故障をしていない。全然ケガをしない先輩といい、もしかしたら本当に徒歩通学がきいているのかもしれない。
そんなことを考えている間に、先輩はためらうことなくテーピングと右足をわたしに差し出した。少し撥ねる心臓に、これは治療だと言い聞かせる。
「ちょっとガッツリ目に固定頼むわ」
「……そこまでして、走らなきゃいけないんですか?」
言い方は悪いけど、次の大会はあくまで県内の大会で、その先の地方大会とか全国大会があるわけではない。今回は見送って、さらに次の大会に備えても構わないはずだった。
「俺らはさ、来年の夏には引退だから」
テーピングを足に当てて様子を見る。先輩が痛がる様子はないので、そのまま作業を進めていく。
「だから、これからは一つ一つが最後の大会なんだ。走れる可能性があるなら、全部大事に走りたい」
まだ出会ってから半年なのに、来年には先輩がここにいないというのは、今はまだあまり考えたくなかった。
だから、手元の作業に集中する。走っているときに足首が変な動き方をしない様に、慎重にテーピングを巻いていく。
「でも、先輩なら選考会なしで代表にもなれるんじゃないですか?」
選考会といっても、あくまで重要な参考に過ぎない。一週間の安静で治るんだったら大会当日には全然間に合うし、これまでの練習の状況なんかで代表になるのは全然あり得る話だと思う。
だけど、先輩は首を横に振った。
「この日の為に、みんな練習してきてるから。だから、大会に出るからにはきちんと選考会で勝って自信もって俺が代表だっていえるようにして走りたいんだ。そうじゃないと不義理っつーか」
「難儀な性格ですね」
「残念だけど、俺は自分の性格を気に入ってる」
わたしもです、という言葉は飲み込んだ。
これだけ走りに対して真摯だったから、わたしは先輩の走りに憧れて。
ようやく、少しは近づけたかなって思えることが、嬉しくなっていた。
「はい、できました」
「おー、スゲー」
思っていたより上手にいった。茅吹先輩は早速靴下とシューズを履くと、右足を地面に着いたり離したりし始めた。
「どうですか?」
「うん、ばっちり。すごい楽になった。ありがとな、テルハ」
すぐ近くで笑顔を向けられて、咄嗟に下を向く。もうすぐスタートなのに、真正面から見たら動揺してしまいそうだった。
ちょうどマネジャーさんから「女子スタート5分前です!」という声が響いてきた。じゃあ、と口元でもごもご言って、逃げるようにスタート地点の方に向かう。
「あ、そうだ。テルハ」
呼び止められて、いつもの癖で自然に振り返ってしまう。
「頑張れよ。朝も言ったけど、無理とか思わずに、自信を持って」
わたしが頷くと、茅吹先輩は右足をあげてニッと笑った。
「それに、テルハが頑張ってたら、俺も頑張らざるを得ないしさ。あ、いや、別に俺の為に頑張れってわけじゃないけど……うん、でも、楽しみにしてる」
ふっと笑った先輩にがばっと頭を下げて、逃げるようにスタート地点に駆ける。
失敗だ。平静を保とうと思ってたのに、顔が熱い。あと5分弱で落ち着いて走れるようにしなきゃ。
スタート地点の内側に座って、軽くストレッチをして体をほぐす。落ち着こうとしているのに、相変わらず走る前なのに鼓動が早い。
ポンと肩に手を置かれた。そのまま隣にもみじが座る。わたしを見るもみじには優しげな笑みが浮かんでいた。けれど、別に何も言うわけでもなく、もみじも隣で準備を進めていく。
多分、全部見られてたんだろうな。そう思うと、また顔が熱くなってきた。
ああ、もう、落ち着こうとするだけ無駄かもしれない。いっそ、このテンションのまま走った方が上手くいくかもしれない。
それに。
そっと胸に手を当ててみる。レース前の緊張感に、先輩からもらったドキドキやワクワクが重なっていた。
うん、そうだ。今なら、思いっきり自信を持って走ることができる。
いよいよ選考会の直前になって、人の調子を心配している場合ではない人が、微笑みながらそんなことを聞いてくる。
結局、茅吹先輩は何事もなかったように部活に顔を出して、選考会を走ろうとしている。
「いいですよ。すこぶるいいです」
油断すると顔を出しそうになる心配を、昼休みにもみじからかけてもらった言葉を思い出しながら押し込める。
実際、昼までメンタルがボロボロだったと思えないくらい身体は軽かった。まずはわたしが頑張る。シンプルに割り切った途端、今度は走りたくてウズウズしている。
「そっか。そりゃよかった」
笑っている茅吹先輩は、さっきからずっと右足首を固定するテーピングに苦戦していた。何度か巻いては納得がいかないのか剥がしてを繰り返してる。表情は笑顔だけど、心なしか手元が焦っている気がする。
「苦手なんですか、テーピング?」
「うーん、ほとんど故障とかしなかったから」
「ああ、なるほど……」
確かに、わたしが知ってるのはこの半年程度だけど、茅吹先輩が故障したとかどこかを痛めた様子を見たことはなかった。そういう走り方ができるから速いのか、故障しないから着実に練習できるて強いのか。
とにかく問題は、次々とムダになっていくばかりのテーピングの方だった。選考会のスタートまでもうあまり時間はない。
ああ、もう、こうなったら。
「あの、わたしがやりましょうか?」
「え、いいのか?」
みんなの目があるところで気にならないと言えば嘘だけど、テーピングもなしに先輩を走らせるよりマシだ。
「中学時代はちょこちょこ痛めたりしてたので、先輩よりはマシなはずです」
「そうなんだ。全然そんな印象なかったな」
そういえば、わたしも高校に入ってからは中学時代が嘘のように故障をしていない。全然ケガをしない先輩といい、もしかしたら本当に徒歩通学がきいているのかもしれない。
そんなことを考えている間に、先輩はためらうことなくテーピングと右足をわたしに差し出した。少し撥ねる心臓に、これは治療だと言い聞かせる。
「ちょっとガッツリ目に固定頼むわ」
「……そこまでして、走らなきゃいけないんですか?」
言い方は悪いけど、次の大会はあくまで県内の大会で、その先の地方大会とか全国大会があるわけではない。今回は見送って、さらに次の大会に備えても構わないはずだった。
「俺らはさ、来年の夏には引退だから」
テーピングを足に当てて様子を見る。先輩が痛がる様子はないので、そのまま作業を進めていく。
「だから、これからは一つ一つが最後の大会なんだ。走れる可能性があるなら、全部大事に走りたい」
まだ出会ってから半年なのに、来年には先輩がここにいないというのは、今はまだあまり考えたくなかった。
だから、手元の作業に集中する。走っているときに足首が変な動き方をしない様に、慎重にテーピングを巻いていく。
「でも、先輩なら選考会なしで代表にもなれるんじゃないですか?」
選考会といっても、あくまで重要な参考に過ぎない。一週間の安静で治るんだったら大会当日には全然間に合うし、これまでの練習の状況なんかで代表になるのは全然あり得る話だと思う。
だけど、先輩は首を横に振った。
「この日の為に、みんな練習してきてるから。だから、大会に出るからにはきちんと選考会で勝って自信もって俺が代表だっていえるようにして走りたいんだ。そうじゃないと不義理っつーか」
「難儀な性格ですね」
「残念だけど、俺は自分の性格を気に入ってる」
わたしもです、という言葉は飲み込んだ。
これだけ走りに対して真摯だったから、わたしは先輩の走りに憧れて。
ようやく、少しは近づけたかなって思えることが、嬉しくなっていた。
「はい、できました」
「おー、スゲー」
思っていたより上手にいった。茅吹先輩は早速靴下とシューズを履くと、右足を地面に着いたり離したりし始めた。
「どうですか?」
「うん、ばっちり。すごい楽になった。ありがとな、テルハ」
すぐ近くで笑顔を向けられて、咄嗟に下を向く。もうすぐスタートなのに、真正面から見たら動揺してしまいそうだった。
ちょうどマネジャーさんから「女子スタート5分前です!」という声が響いてきた。じゃあ、と口元でもごもご言って、逃げるようにスタート地点の方に向かう。
「あ、そうだ。テルハ」
呼び止められて、いつもの癖で自然に振り返ってしまう。
「頑張れよ。朝も言ったけど、無理とか思わずに、自信を持って」
わたしが頷くと、茅吹先輩は右足をあげてニッと笑った。
「それに、テルハが頑張ってたら、俺も頑張らざるを得ないしさ。あ、いや、別に俺の為に頑張れってわけじゃないけど……うん、でも、楽しみにしてる」
ふっと笑った先輩にがばっと頭を下げて、逃げるようにスタート地点に駆ける。
失敗だ。平静を保とうと思ってたのに、顔が熱い。あと5分弱で落ち着いて走れるようにしなきゃ。
スタート地点の内側に座って、軽くストレッチをして体をほぐす。落ち着こうとしているのに、相変わらず走る前なのに鼓動が早い。
ポンと肩に手を置かれた。そのまま隣にもみじが座る。わたしを見るもみじには優しげな笑みが浮かんでいた。けれど、別に何も言うわけでもなく、もみじも隣で準備を進めていく。
多分、全部見られてたんだろうな。そう思うと、また顔が熱くなってきた。
ああ、もう、落ち着こうとするだけ無駄かもしれない。いっそ、このテンションのまま走った方が上手くいくかもしれない。
それに。
そっと胸に手を当ててみる。レース前の緊張感に、先輩からもらったドキドキやワクワクが重なっていた。
うん、そうだ。今なら、思いっきり自信を持って走ることができる。
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