秋空雨恋

粟生深泥

文字の大きさ
12 / 13

第12話

しおりを挟む
 夏の夕立のような激しい雨の中、いつもは歩いて通る通学路を駆け抜ける。
 走りにくい靴も制服も煩わしい。こんなことなら、ウェアのままで来るんだった。
 走るのに邪魔で傘をたたむ。降りしきる雨に逆らうように走る。
 まだ、そんなに遠くにはいけていないはず。
 選考会に負けないくらい必死で走る。今度はもう、届かないのは嫌だった。

――見つけた。

 傘を杖のようにして、降りすさぶ雨に打たれて歩く背中。
 その背中に全力で駆け寄る。

「何してるんですか!」

 ようやく追いつくことができて、急いで傘を差して頭の上に掲げる。
 滝のような雨。傘を差して歩いている人すらほとんどいないのに、この先輩は傘もささずに。

「……テルハ?」

 振り返った茅吹先輩は、信じられないといった様子でわたしの名前を呼んだ。
 ずぶ濡れになった髪からは絶えず雫が零れ落ちていて、すっかり冷えてしまった頬は青白い。

「どうして、ここに?」

「わたしが先輩と帰るなんて、いつものことじゃないですか」

「でも、秋浜と……」

 茅吹先輩の声は、自信なさげだ。

「やっぱり、見てたんですね」

 茅吹先輩がハッとしたような表情の後、弱々しく笑う。

「ようやく痛みが引いてきて、部室から出たら月代がいて『急いで行け』って言うから。そしたら、その……」

「それで、逃げたんですか」

 意識するよりも先に鋭い言葉が出て行って、先輩の表情に痛みが浮かぶ。
 その表情に後追いのように理解する。ああ、わたしは怒ってるんだ。
 でも、何に?

 そうだ。ずっとずっと、茅吹先輩のことが心配で、気がかりで、大切で。
 それなのに先輩は、わかったようなふりをして行ってしまう。
 本当はただ、隣を歩いていてほしいだけなのに。

「秋浜君には『本気の先輩に勝ってから出直せ』って言っちゃいました」

「は……? なんで、お前、そんな……」

「先輩は、わたしに秋浜君と付き合ってほしかったんですか!?」

 思いの丈があふれ出てきて、それをそのまま言葉に乗せて先輩へ叩きつける。
 先輩はゆっくりと首を横に振って、うつむいた。
 本当は先輩のことが心配で、今だって庇うようにしている足のことも気になるし、ずっと濡れて歩いてきた先輩自身のことも気がかりだった。けれど、今はもっと直接的な感情に引っ張られていた。

「先輩は――」

「本当は、ただの臆病者なんだ」

 ポツリと、先輩が零す。
 茅吹先輩とわたしの言葉以外に響くのは、傘を打つ雨の音だけ。
 俯いたままの先輩の声は、雨に紛れてしまうほど小さい。

「1年前くらいかな、部内で先頭を走るようになってさ。そこからは誰かに抜かれるのが怖くて、負けるのが怖くて、走りたくなくなる日もあって」

 うつむいたままの先輩の表情は見えないけど、声には自嘲的な色が混ざっていた。

「でも、自分に負けるのが一番怖くて、怯えるように走り続けてた。俺には、陸上しかないから」

 今日だけで何度目かになる、わたしの知らない先輩の姿。
 先輩の走りは躍動的で、魅力的で、いつもわたしの目を惹きつけてやまない。そんな走りしか知らなかった。そんな風に悩んでいたことがあったなんて、気づかなかった。
 
「でもさ、テルハと一緒に通学するようになって。いつからかわからないけど、俺には陸上だけじゃないのかもって思えたんだ。いつの間にかまた、走るのが楽しくなって。秋浜なんかと本気で勝負するのが面白いなって感じられるようになった」

 まくしたてるように一気に話して、茅吹先輩が顔を上げる。
 その顔は雨でグチャグチャに濡れていて、けれど、それは雨だけのせいではないような気がした。
 言葉を紡ぐ唇はずっと震えている。きっとそれも、雨のせいだけじゃない。

「そしたら今度は、テルハと離れるのが怖くなって。今日だって、秋浜にとられるんじゃないかって思ったら、見てられなくて……。いつも偉そうなことに言っといて、大事な場面から逃げ出すただのちっぽけな臆病者なんだ!」

 吐き捨てるような剥き出しの言葉。その言葉が胸の中を奔流のように駆け抜けて、強い衝動がじわじわと湧き出してきた。

「テルハの前でいいカッコしてるだけの、臆病者なんだ……」

「先輩。いつも、一番前を走るのは大変なことだと思います。だから、辛かったら、たまには逃げてもいいんじゃないですか?」

 そっと、手を伸ばす。すっかり冷えてしまった茅吹先輩の頬に触れる。

「でも、お願いです。わたしからは逃げないでください」

 傘を下ろす。
 視界を覆う雨に紛れるように、精一杯、顔を先輩に近づける。
 その距離がなくなったのは、ほんの一瞬。

「テルハ……」

 先輩の頬に触れるわたしの手に、先輩の手が静かに重ねられた。
 大事そうに重ねられたその手に、今更ながら自分が勢いのまま何をしてしまったか気づいて、冷たい雨でずぶ濡れなのに顔が熱くなってくる。

「ごご、ごめんなさい! あ、そうだ。傘、傘ささないと!」

 わたしが傘を差すより先に、わたしの手に重ねられていた先輩の手が、わたしの頭をくしゃりと撫でる。

「ありがとう、テルハ」

 茅吹先輩が笑っていた。困ってたり弱々しい笑みじゃなくて、いつものように明るい笑顔が浮かんでいる。
 おし、と気合を入れるような声にも、生気が戻っていた。

「目、覚めた。次の大会で決勝行って、絶対秋浜にリベンジする」

 ハッキリとした力強い言葉。
 いつもの先輩が帰って来て、ワクワクとした気持ちがわたしの方まで伝播してくる。

「はい」

 茅吹先輩の手が、わたしの頬に沿えらえる。

「そしたら、改めて、俺からちゃんと言わせてほしい」

「……はいっ、待ってます!」

「違うぞ?」

「えっ」

「テルハも一緒に走るんだから、な?」

 ただ隣を歩いていてほしかったと、そう思っていた。
 けれど、その思いを少しだけ改める。
 歩くときも、走るときも、その隣に並んでいたい。その場所は、誰にも譲りたくない。

 そこはいつも雨が降っているけど、暖かくて大切な場所だから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

白衣の下 スピンオフ 18歳 町田柊士の若き日の過ち

高野マキ
キャラ文芸
町田柊士はその厳つく大柄な体躯にも関わらず街の画材店の二階で時を忘れたかのようにデッサンに没頭していた。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。

ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。 彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。 婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。 そして迎えた学園卒業パーティー。 ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。 ガッツポーズを決めるリリアンヌ。 そのままアレックスに飛び込むかと思いきや―― 彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

処理中です...