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第3'章 溢れだしてきたものは②
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目の前を走る時乃のフォームは一切ぶれないけど、こっちは既に息が乱れてきた。
時乃によって家から強制的に連れ出された俺は、そのまま家の近くの湧水公園に連れていかれて一周二キロの外周を走らされている。時乃と一緒に走ることは昔から時々あったけど、今日の時乃はいつもよりペースも早いし、三周目に差し掛かるといよいよ俺の体力では限界が近かった。
「時乃、少しっ、ペース落とせっ!」
返事はなかったけど、時乃はペースを下げてくれた。それで一息付けて、色々と考える余裕が出てくる。どうして急に時乃が俺を走りにつれ出したのか。別に神崎みたいに夕暮れ時の公園を走ることで「青春だ!」とかしたいわけではないだろうし。
「なあ、悪かったよ。何度も時乃から陸上部に誘われてたのに、他の部活に入ったりして」
「別に、気にしてないし。どの部活に入ろうが翔太の勝手じゃん」
言葉の内容と声がまったく一致していない。ツンとした声がズシリとのしかかってくる。
「怒ってないし」
自分に言い聞かせるように、時乃が続ける。
「時乃」
「別に翔太がいつの間にか他の部活に入ってたこと怒ってるわけじゃないし!」
足を止めて振り返った時乃は肩で大きく息をしていた。それが走ったせいではないことはわかってる。ハッとしたように目を見開くと、小さく俯いて髪をグチャグチャと乱暴にかき回す。
「怒ってないっていうのは本当だから。香子ちゃんが来てから翔太の居場所が少しずつ増えてるのは、いいことだって思ってる」
顔をあげた時乃の顔にはいくつもの表情が浮かんでは引っ込んでいく。不安とか困惑とか、苛立ちとか。その瞳がゆらゆら揺れて震えていた。
「だいたい翔太が体育会系じゃないっていうのは私がよくわかってるし。でも、なんか翔太が急に遠くなったように感じちゃって。それでイライラしている自分がわけわかんなくて、そんな自分に一番イライラしてっ……」
時乃はそこまで言ってからまた前髪を握りしめて、行き場のないため息をつく。
「私の方こそごめん。いきなりこんなことに付き合わせて」
時乃と違って息も絶え絶えになってる俺からすれば、苦笑いを浮かべてみるしかなかったけど、せめて首を横に振る。呪いのことについて調べるのに根を詰めてしまっていたからちょうどいい気分転換だったし、何より時乃には部活のこと、ちゃんと話したいと思っていた。
「でも、これだけついてこられるんだったら、やっぱり陸上部でもやってけると思うんだけどなあ」
「俺には時乃みたいな向上心とか、速く走れるようになりたいって熱量が足りないから」
一応それなりに走れるようになったのは、今日みたいに時乃の練習にたまに付き合っているうちに自然と身に着いただけだ。だから、もっと速くだったり、長く走れるようになりたいなんて領域には辿り着けそうにない。
「……ねえ、翔太。私が陸上部に入ったか、知ってる?」
「それは、速く走れるようになりたいからって」
時乃自体がずっとそう言ってきたし、この前深安山の社でも神崎から聞かれてそう答えていたはずだ。俺の答えに時乃はすっと首を縦に振る。
「じゃあ、私が速く走れるようになりたいって思うようになった理由は?」
今度はすぐに答えることはできなかった。時乃が陸上を始めたのは中学からだけど、速く走れるようになりたいってことしか聞いていなかった。だから、てっきりそれ自体が目的だったと思っていたけど、そうじゃなかったのか。
俺が答えられないことに時乃が不満を抱くそぶりはなくて、ずっと強張っていた顔から少し力を抜くと俺に背を向けてゆっくりと歩き出した。
「小学校の頃さ。一度だけ私がいじめられそうになったことあったじゃん」
「……あったな」
それは、ちょっとだけ苦い記憶だ。祖父と父さんを亡くした後、それが呪いのせいだという噂は小学校でもあっという間に流れていった。昨日まで仲が良かった友だちが俺から距離を置き、子どもらしい無邪気でえげつない嫌がらせが降ってくる。
気がついたら、俺と普通に接してくれるのは誰よりも付き合いの長かった時乃だけになっていた。でも、そうなると初めは俺だけに向いていた矛先が、今度は時乃に向こうとした。
「翔太さ。自分の時は何されても黙って耐えてるばっかりだったのに」
小さく振り返った時乃がニッと笑う。その笑顔は夕日で紅く照らされた。
「私が嫌がらせを受けた途端、突然ガキ大将に向かっていって」
そのまま時乃が当時のことを思いだしたかのようにクスクスと笑い出す。全然愉快な話じゃないはずなのに、時乃の笑顔は晴れやかだった。
「あの頃の翔太、ひょろっちくて。すぐにボコボコにされちゃって。だけど、相手がビビって私に手を出さないって言って逃げ出すまで何度も何度も向かっていって」
当時の顛末はよく覚えている。俺と一緒にいる頃をからかわれた時乃が言い返すと、クラスのガキ大将的な存在が時乃に手をあげようとした。そこからは無我夢中で、ガキ大将に届かない拳を振り回し続けた。
結局あの頃の俺の拳は一発もガキ大将に当たらなかったけど、それからは少なくとも俺が見ているところでは時乃がからかわれるようなことはなくなった。
「あの時の翔太、かっこよかったよ。優しくて、強くて……」
小さく目を閉じた時乃は小さく息を吸い込んで、目を開けると同時に表情を崩す。
「それがどうして、こんなに生意気でひねくれたふうに育っちゃったんだか」
「うるせえ。近くにいた相手の影響受けたに決まってるだろ」
「何。私のせいだっていうつもり?」
「他にどう聞こえたんだよ」
「ほら。そうやってまた生意気なこと言う!」
ピタリと時乃が足を止めて、時乃との距離がギュッと詰まる。クスリと笑ってからくるっと振り返った時乃は両手を後ろに組んで真っすぐ俺を見上げる。
「でも、翔太が助けてくれたあの時、決めたの。この世界が翔太の敵になるんだったら、私はどこにいても翔太のところまでダッシュで駆け付けられるようになろうって。今度は私が翔太のこと守るんだって。今思えば単純だけど、それで陸上部に入った」
「……それなら、時乃はこれまでずっと、ちゃんと俺のこと守ってくれてたよ」
中学にあがったころまではなかなか背も伸びなくて、呪いの件も相まって俺はイジメられる側だった。
そうなるはずだった。
そうならなかったのは、一番最初に俺をからかってきた奴が時乃にボコボコにされたからだった。
おかげで友達と呼べるような存在はほとんどできなかったけど、学校に通うのはそんなに苦じゃなかった。周りより幾分遅れて成長期に入ると自分で思ってた以上にデカくなって、それからはなおさら直接的に嫌がらせされることはなくなった。
「うん。だから、これからも」
時乃がぎゅっとグーを作って俺の胸をぐっと押す。
「ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい」
勝気に笑う時乃は水平線に沈みかけた夕日に照らし出されて眩しくて。
「ありがとな、時乃。幼馴染がお前でよかった」
伝えられる言葉は少なかったけど、その五文字に全てを込める。
時乃の顔がしばらく固まったかと思うとふにゃりと崩れて、それを隠すようにバタバタと俺に背中を向けた。
そして、そのままヨーイドン。一気に駆け出した時乃の背中を慌てて追いかける。
「じゃ、完全に日が落ちる前に後一周ね!」
「は!? なんでそうなるんだよ!」
「いいじゃん。水曜日丸一日分をたった一周で済ませてあげてるんだから、感謝してよね!」
「無茶苦茶だろ! ってか、ここまでの二周はノーカンかよ!」
そうは言いつつ、さっきまでより速いペースで走る時乃の後をほとんどダッシュみたいに全力で追いかける。部活に入ることを決めてからずっと靄のように広がっていたモヤモヤはすっかりなくなっていた。ただ走るってそれだけのことが、嘘みたいに心を軽くしてくれる。
もしどこかで一度選択をやり直せるのなら、時乃に誘われるまま陸上部に入るっていうのも案外本当に悪くないのかもしれない。
時乃によって家から強制的に連れ出された俺は、そのまま家の近くの湧水公園に連れていかれて一周二キロの外周を走らされている。時乃と一緒に走ることは昔から時々あったけど、今日の時乃はいつもよりペースも早いし、三周目に差し掛かるといよいよ俺の体力では限界が近かった。
「時乃、少しっ、ペース落とせっ!」
返事はなかったけど、時乃はペースを下げてくれた。それで一息付けて、色々と考える余裕が出てくる。どうして急に時乃が俺を走りにつれ出したのか。別に神崎みたいに夕暮れ時の公園を走ることで「青春だ!」とかしたいわけではないだろうし。
「なあ、悪かったよ。何度も時乃から陸上部に誘われてたのに、他の部活に入ったりして」
「別に、気にしてないし。どの部活に入ろうが翔太の勝手じゃん」
言葉の内容と声がまったく一致していない。ツンとした声がズシリとのしかかってくる。
「怒ってないし」
自分に言い聞かせるように、時乃が続ける。
「時乃」
「別に翔太がいつの間にか他の部活に入ってたこと怒ってるわけじゃないし!」
足を止めて振り返った時乃は肩で大きく息をしていた。それが走ったせいではないことはわかってる。ハッとしたように目を見開くと、小さく俯いて髪をグチャグチャと乱暴にかき回す。
「怒ってないっていうのは本当だから。香子ちゃんが来てから翔太の居場所が少しずつ増えてるのは、いいことだって思ってる」
顔をあげた時乃の顔にはいくつもの表情が浮かんでは引っ込んでいく。不安とか困惑とか、苛立ちとか。その瞳がゆらゆら揺れて震えていた。
「だいたい翔太が体育会系じゃないっていうのは私がよくわかってるし。でも、なんか翔太が急に遠くなったように感じちゃって。それでイライラしている自分がわけわかんなくて、そんな自分に一番イライラしてっ……」
時乃はそこまで言ってからまた前髪を握りしめて、行き場のないため息をつく。
「私の方こそごめん。いきなりこんなことに付き合わせて」
時乃と違って息も絶え絶えになってる俺からすれば、苦笑いを浮かべてみるしかなかったけど、せめて首を横に振る。呪いのことについて調べるのに根を詰めてしまっていたからちょうどいい気分転換だったし、何より時乃には部活のこと、ちゃんと話したいと思っていた。
「でも、これだけついてこられるんだったら、やっぱり陸上部でもやってけると思うんだけどなあ」
「俺には時乃みたいな向上心とか、速く走れるようになりたいって熱量が足りないから」
一応それなりに走れるようになったのは、今日みたいに時乃の練習にたまに付き合っているうちに自然と身に着いただけだ。だから、もっと速くだったり、長く走れるようになりたいなんて領域には辿り着けそうにない。
「……ねえ、翔太。私が陸上部に入ったか、知ってる?」
「それは、速く走れるようになりたいからって」
時乃自体がずっとそう言ってきたし、この前深安山の社でも神崎から聞かれてそう答えていたはずだ。俺の答えに時乃はすっと首を縦に振る。
「じゃあ、私が速く走れるようになりたいって思うようになった理由は?」
今度はすぐに答えることはできなかった。時乃が陸上を始めたのは中学からだけど、速く走れるようになりたいってことしか聞いていなかった。だから、てっきりそれ自体が目的だったと思っていたけど、そうじゃなかったのか。
俺が答えられないことに時乃が不満を抱くそぶりはなくて、ずっと強張っていた顔から少し力を抜くと俺に背を向けてゆっくりと歩き出した。
「小学校の頃さ。一度だけ私がいじめられそうになったことあったじゃん」
「……あったな」
それは、ちょっとだけ苦い記憶だ。祖父と父さんを亡くした後、それが呪いのせいだという噂は小学校でもあっという間に流れていった。昨日まで仲が良かった友だちが俺から距離を置き、子どもらしい無邪気でえげつない嫌がらせが降ってくる。
気がついたら、俺と普通に接してくれるのは誰よりも付き合いの長かった時乃だけになっていた。でも、そうなると初めは俺だけに向いていた矛先が、今度は時乃に向こうとした。
「翔太さ。自分の時は何されても黙って耐えてるばっかりだったのに」
小さく振り返った時乃がニッと笑う。その笑顔は夕日で紅く照らされた。
「私が嫌がらせを受けた途端、突然ガキ大将に向かっていって」
そのまま時乃が当時のことを思いだしたかのようにクスクスと笑い出す。全然愉快な話じゃないはずなのに、時乃の笑顔は晴れやかだった。
「あの頃の翔太、ひょろっちくて。すぐにボコボコにされちゃって。だけど、相手がビビって私に手を出さないって言って逃げ出すまで何度も何度も向かっていって」
当時の顛末はよく覚えている。俺と一緒にいる頃をからかわれた時乃が言い返すと、クラスのガキ大将的な存在が時乃に手をあげようとした。そこからは無我夢中で、ガキ大将に届かない拳を振り回し続けた。
結局あの頃の俺の拳は一発もガキ大将に当たらなかったけど、それからは少なくとも俺が見ているところでは時乃がからかわれるようなことはなくなった。
「あの時の翔太、かっこよかったよ。優しくて、強くて……」
小さく目を閉じた時乃は小さく息を吸い込んで、目を開けると同時に表情を崩す。
「それがどうして、こんなに生意気でひねくれたふうに育っちゃったんだか」
「うるせえ。近くにいた相手の影響受けたに決まってるだろ」
「何。私のせいだっていうつもり?」
「他にどう聞こえたんだよ」
「ほら。そうやってまた生意気なこと言う!」
ピタリと時乃が足を止めて、時乃との距離がギュッと詰まる。クスリと笑ってからくるっと振り返った時乃は両手を後ろに組んで真っすぐ俺を見上げる。
「でも、翔太が助けてくれたあの時、決めたの。この世界が翔太の敵になるんだったら、私はどこにいても翔太のところまでダッシュで駆け付けられるようになろうって。今度は私が翔太のこと守るんだって。今思えば単純だけど、それで陸上部に入った」
「……それなら、時乃はこれまでずっと、ちゃんと俺のこと守ってくれてたよ」
中学にあがったころまではなかなか背も伸びなくて、呪いの件も相まって俺はイジメられる側だった。
そうなるはずだった。
そうならなかったのは、一番最初に俺をからかってきた奴が時乃にボコボコにされたからだった。
おかげで友達と呼べるような存在はほとんどできなかったけど、学校に通うのはそんなに苦じゃなかった。周りより幾分遅れて成長期に入ると自分で思ってた以上にデカくなって、それからはなおさら直接的に嫌がらせされることはなくなった。
「うん。だから、これからも」
時乃がぎゅっとグーを作って俺の胸をぐっと押す。
「ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい」
勝気に笑う時乃は水平線に沈みかけた夕日に照らし出されて眩しくて。
「ありがとな、時乃。幼馴染がお前でよかった」
伝えられる言葉は少なかったけど、その五文字に全てを込める。
時乃の顔がしばらく固まったかと思うとふにゃりと崩れて、それを隠すようにバタバタと俺に背中を向けた。
そして、そのままヨーイドン。一気に駆け出した時乃の背中を慌てて追いかける。
「じゃ、完全に日が落ちる前に後一周ね!」
「は!? なんでそうなるんだよ!」
「いいじゃん。水曜日丸一日分をたった一周で済ませてあげてるんだから、感謝してよね!」
「無茶苦茶だろ! ってか、ここまでの二周はノーカンかよ!」
そうは言いつつ、さっきまでより速いペースで走る時乃の後をほとんどダッシュみたいに全力で追いかける。部活に入ることを決めてからずっと靄のように広がっていたモヤモヤはすっかりなくなっていた。ただ走るってそれだけのことが、嘘みたいに心を軽くしてくれる。
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