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小学校時代
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保育園にはほとんど行っていなかったうちだが、卒業式だけはしっかりと参加している。
卒業式が終わったあと三鷹に引っ越しをした。
三鷹に引っ越しをすると、親父、おばあちゃんに加わって継母の四人での生活が始まった。
継母が来てからうちの生活パターンが、ころっと180度変わってしまった。
まず、今までは朝起きると着替えてそのまま外に遊びに出れたのが出来なくなり、当然夜も出歩くことが出来なくなってしまった。
そして、小学校は休むことなく毎日通うようになった。
継母と一緒に生活をするようになると、うちは家に帰るのがとても嫌だった。
小学校はうちのいい逃げ場所になってしまったから、毎日通っていたのである。
また、体にも大きな変化をきたした。それまでおねしょなどしたことがなかったのに、おねしょをするようになってしまったのである。
うちは、親父も嫌いだったがそれ以上に継母は大嫌いだったし、恨んでもいた。
親父とは親父の仕事が夜だったことと、引っ越しをしたことにより顔を合わすことはほとんどなくなった。
仕事が終わると始発で帰ってくるのだが、うちが朝起きる頃には寝ていたし、学校から戻るともう仕事に行っていたので合うことがなかった。
おばあちゃんも一緒に生活をしていたときはまだ継母に怒られたりすると庇ってくれたから良かったのだが、おばあちゃんが田舎に帰ってからは、ひどい怒られ方ばかりしていた。
今なら間違いなく“幼児虐待”で大騒ぎになっていたことと思う。
そのことについては、もう少し後で述べることにする。
うちは、三鷹市にあるイグチ小学校に入学をした。
ランドセルは、継母の兄嫁が入学祝いとしてプレゼントしてくれた。
入学式は、親父と継母の三人で行き、うちは1年3組になった。
担任の先生は女の先生で井上先生という。
普段はとても優しい先生だった。井上先生は、1年生と2年生の2年間お世話になった。
2年生になってから少し厳しくなったと思う。
1年生のときはまだ引っ越してきたばかりだったこともあり、学校が終わるとあちこちを探検した。
新宿と違い、森や野原、畑が身近になり遊ぶところがたくさんあった。そういった意味からも、新宿よりも三鷹の方がうちにはあっていた。
三重で過ごした数カ月間が影響しているのだと思うが、都会でビルばっかりのところよりも、山や川があるところ、人工的なものばかりあるところよりも、自然の多いところが今でも大好きである。
小学校に入学したばかりの頃は、継母もまだ仕事をしていた。
しかし、夏休みに入った頃から継母は仕事を辞めて しまった。
継母は美容師だった。だからうちは小学校からは、継母に髪を切ってもらっていた。
継母と一緒に住むようになってそれまでしたことのなかったおねしょをするようになったと述べたが、もう1つそれまで風邪さえひいたことがなかったうちが、しょっちゅう風邪をひいたり、熱を出したりするようになった。
これも継母と一緒に生活をするようになって、うちの体が拒否反応を起こした結果ではないかと思う。
一番嫌だったのは、夏休みに入ってから大好きだったおばあちゃんが三重に帰ってしまったことである。
しかも、おばあちゃんが三重に帰るとき、まさかもう帰ってこないとは思っていなかったから、継母の兄嫁の実家である栃木に泊まりに行ってしまったのである。
継母に、三重と栃木のどっちが良いかと聞かれ栃木を選んでしまったのである。
あの時、三重ではなく栃木に行ってしまったことを今でも後悔している(普通は聞かないで三重に行かすよ)。
こうしておばあちゃんが三重に帰ってしまってからは、三人の生活になった。
おばあちゃんがいなくなってから、うち毎日継母に日記を書かされるようになったのだが、うちは日記を書くのが大嫌いであった。
なぜかというと、字を間違ったりするだけで、毎日ひっぱたかれていたからである。
まだ、字も覚えたてで“今日は”とか“○○へ”といった字を書くときに“今日わ”とか“○○え”などと間違って字を書くたびに、
「何度教えたら覚えるの!!」
と言って、ひっぱたかれていたからである。
日記はいつも泣きながら書いていた記憶しかない。
日記だけではない。勉強をさせられるのだが、算数の計算でもなんでも理解できなくて間違うたびにひっぱたかれたり、外に追い出されたりした。
最初の頃は手でひっぱたかれたりしていたが、だんだんエスカレートしていき、足で体中を踏みつけられたり、プラスチックの定規で体中を叩かれたり、お盆、布団たたき、インスタントコーヒーの瓶などありとあらゆるもので殴られた。
小学校2年生のとき、布団たたきで全身を叩かれて、全身に布団たたきの跡がつき学校の先生がビックリしていたことがあったがそれだけである。
今だったら虐待を受けているということで大問題になっていただろうに、あの時は問題にもされなかった。
全身ミミズ腫れになっていたのにである。
うちは継母に暴力を受けるたびに、いつか大人になったら仕返しをしてやろうといつも思っていた。
たまに内緒で女子プロレスを見ていたことがあった。確か小学校4年生前後だったと思うが、ダンプ松本やブル中野を見るたびに、継母をボコボコにやっつけてくれないかな?と、本気で思っていた。
お盆で頭を殴られて、お盆の底が突き抜けて壊れたことがあった。その時の一言が、
「お前の頭は石頭だ!!お盆が壊れたじゃないか!!」
である。
お盆の底が突き抜ける程の力で子供の頭を殴っておいて、あの言いぐさはないと思う。
一歩間違えば、死んでいたかもしれないのに。だから、継母を許すことなど絶対にありえないのである。
逆にもし許されるのであれば、やられたことをそっくりやり返して殺してやりたいくらいである。
間違ってもおばあちゃんと同じお墓には入れたくない。それだけは絶対に許さない。
風邪をひいて熱を出し、食欲がないのに無理やり食事を取らされ(このときの無理矢理とは、言葉通りの無理矢理である)、気持ち悪くなり食べたものを全部吐き出すと、 ひっぱたかれたこともあった。
普通、熱を出して体調の悪い子供をひっぱたいたりするだろうか。
とても考えられないし、食べれないものを無理矢理食べさせるから吐いてしまうのだ。
どっちが悪いんだ!!という話である。
無理矢理食事をさせられることがなければ、気持ち悪くなって吐くこともなかったのである。
吐くといえば、学校の廊下に吐いてしまったこともあった。
授業中気持ち悪くなり、先生が気付いてくれてトイレに行かせてくれたのだが間に合わず、教室を出た瞬間に、ゲロゲロ!!
廊下中に吐いてしまった。あの時は、子供ながらにとても恥ずかしかった。
小学校に入学してから毎年春休み、夏休み、冬休みは継母の兄嫁の実家である栃木に行っていた。
おじさん、おばさん、そして従兄弟に混じって電車や車で連れて行ってもらっていた。
電車で行くときは、“氏家”という駅まで行くと、従兄弟のおじいちゃんが迎えに来てくれていた。
氏家から車で20分くらいのところに家があった。
おじいちゃんの家は農家で、周りは田んぼに囲まれたところで、三重の次にうちのお気に入りの場所だった。
夏に行くと、稲がとてもきれいで、うちのお気に入りの風景である。
夏はいつもより早く起きると、おじいちゃんとおじさんと従兄弟とで山に連れて行ってもらい、カブト虫やクワガタをたくさん捕まえていた。
山には軽トラで向かうのだが、従兄弟とうちは軽トラの荷台に乗りいつもはしゃいでいた。
おじいちゃんの家から車で30分くらい走ると山に着くのだが、人の手を加えられていない山で藪の中に入っていく。するとカブトムシやクワガタがあちらこちらの木に沢山いた。
おじいちゃんとおじさんはカブトムシやクワガタがいない木を蹴飛ばす。すると、木の上からカブトムシやクワガタが落ちてくる。
楽しくて楽しくて仕方がなかった。
うちも真似をして木を蹴飛ばすのだが、力がないので落ちてこなかった。
クワガタはいろんな種類のクワガタを捕まえたが、“ミヤマクワガタ”はとても強いクワガタだった。
カブトムシと一緒に入れておくと喧嘩をしてしまい、カブトムシはズタズタにされて死んでいた。
だから、ミヤマクワガタを捕まえたときは必ず別の入れ物の中に入れるようにしていた。
夏休みといえば、毎年カブトムシやクワガタを捕まえに行くのが楽しみだった。
藪の中を進むから蜂の巣があるのがわからず、おじさんの後を追いかけてハチに刺されまくり大泣きしたこともある。
緊急退去したのは言うまでもない。だから今でも蜂は大の苦手で、蜂を見るとフリーズして動けなくなる。
午後になるとおじさんに鬼怒川に連れて行ってもらい、従兄弟と二人で川で泳いだりして遊んだ。
従兄弟はうちより2つか3つ年下だったが、スイミングに通っていたから泳ぎは上手かった。
普段出掛けないときは、従兄弟と田んぼや畑の周りで遊んでいた。
おじいちゃんの家からちょっと車で行くと、田んぼに水を引くための川があった。
イメージ的には多摩川上水みたいなところで、そこにはザリガニがたくさんいた。
従兄弟とうちは川に入るとザリガニをバケツに溢れるくらい捕まえて遊んでいた。
冬はお正月の3日前くらいから行く。餅つきをしたり、田んぼでタコを上げたりして遊んでいた。
おじいちゃんは、猟銃を持っていて、イノシシや鳥を狩ったりしていた。狩り用の犬も飼っていた。
犬はタコを上げるとタコを鳥と勘違いしてものすごく興奮する。それがとても面白かった。
たまに綱を解いてあげて、ボールを思い切り投げて取りに行かせたりして遊んでいた。
うちは猟にもとても興味があって、たまにおじいちゃんに連れて行ってもらっていた。
猟に連れて行ってもらうのはうちだけだった。
山の中に入っていき、一緒になって鳥を探した。
都会で遊ぶよりも遥かに楽しかった。
今も思うことだが、うちは都会より田舎での生活のほうが性に合っていると思う。
田舎で生活をしていたら、少年院や刑務所なんかに入ったりすることもなかったんじゃないかな……なんて思うことがよくある。
栃木に行くと、1つだけうちがやる仕事があった。
おじいちゃんが猟をして狩ってきた鳥の羽をむしる仕事である。
その日の夕方は、食卓に鳥の料理が並ぶ。新鮮な鳥の刺し身は最高に美味しかった。うちの大好物である。
イノシシの猟は危険だからといって連れて行ってもらうことはなかったが、本当は凄く行きたかった。
イノシシの肉も最高に美味しかった。
田舎はうちにとって最高の場所である。飽きるということがまったくないところである。
冬はおじいちゃんの家から車で2時間くらいのところにスキー場があり、そこへ連れて行ってもらったが、うちはスキーが全然だめでもっぱらソリ遊びばかりしていた。
上まで登っていき、ソリで下まで滑り降りるだけだったが最高のスリルだった。
しかし、スキー場に連れて行ってもらったのは低学年までで、それ以降は一度もスキー場には行ってない。
春休み、夏休み、冬休みといつ行ってもその季節季節で楽しいことが田舎にはたくさんあった。
人間は人工物しかない都会なんかに住むより、自然に囲まれたところで生活をするほうが人間らしい生き方ができるのではないかとうちは思う。
都会はろくなことしか起こらない。
1年生のとき、女の子が転校をしてきた。その女の子はアメリカ人で“エリカ”という名前の子だったが、うちの初恋の女の子でもある。
エリカは日本語もペラペラだったからよく話をしたりもした。
うちはこの頃から、外国人とも全然気にすることなく遊んだり、話しかけたりしていた。
小学校2年生のときにも男の子が転校してきたが、その子は全然日本語が話せない子だったが、いつもエリカに通訳をしてもらい一緒に遊んでいた。
男の子は“ジョン”という名前の子だった。
同じクラスの男の子たちは、いつもジョンをからかったり、いじめたりしていたからジョンが覚えた日本語は“バカ”と“アホ”である。
井上先生もあまり英語は話せなかったらしく、よくエリカに通訳をしてもらっていた。
外国人が好きだったうちはジョンとばかり遊んでいたが、残念なことにジョンはすぐに転校してしまいいなくなってしまった。
1年生の頃は学校にいるときは友達ともよく遊んだが、学校が終わってから遊ぶということはあまりなかった。
2年生になってから、学校以外のところでも友達と遊ぶようになった。
三鷹は森や公園、野原がたくさんあったからそういうところでよく遊んでいた。遊ぶ場所に困ることはなかった。
うちの住んでいた家の近くにコミュニティーセンターがあり、そこは体育館もあった。
卓球をしたり、バドミントンをしたり、夏はエアコンが効いていてとても良い遊び場であった。
屋上にはプールがあり、夏休みにはよく友達と泳ぎに行ったものである。
家ではしょっちゅう継母から虐待を受けていた分、目の届かない外でやんちゃばかりしていた。
2年生のときに学校で流行っていた遊びがドッジボールである。
クラスのみんなでチームを作ってやったり、よそのクラスと試合をしたりしていた。
たまにヒートアップして喧嘩になってしまうこともあったが、男の子も女の子も関係なく一緒に遊んだものである。
うちが通っていた井口小学校は、いつでも男の子と女の子が一緒になって遊んでいた。
うちは男の子と女の子が一緒に遊ぶのは当たり前のことだとずっと思っていた。しかし、後に転校する小学校は男の子と女の子は必ず分かれてしまい、一緒に遊ぶということはなかった。
結構うちは女の子に人気があった。
学校でみんなと何かをして遊ぶときは、大体うちが中心になっていた。
指示されたり、命令されたりするのが嫌いなうちは、学校では先生の言うこと以外は聞かなかった。
同じクラスの男の子で、いつもうんちを漏らす子がいた。
最初は誰も気付かなかったのだが、あるとき凄く臭くて、犯人探しが始まった。
みんなで「お前だろう」「お前臭いぞ!!パンツ脱いでみろ!!」とはやし立てる。
犯人はM君。
うんちを漏らして気持ち悪いはずなのに、本人は絶対にしていないと言い張る。しかし、明らかに臭い匂いを発しているのは、M君しかいない。
結局、本人は絶対に違うと言い張るから、最終的にはみんなで先生に
「先生!!M君がうんち漏らしてます!!」
と言われ、M君は先生にトイレに連れて行かれる。
この出来事以来、クラスの男の子の間ではしばらくM君のお尻の匂いを嗅ぐのが流行った。
M君は大体毎日うんちを漏らしていたから、いつも
「先生!!M君がまたうんち漏らしてます!!」
と言われ、毎回先生にトイレに連れて行かれていた。
M君はいつも否定していたが、子供ながらに恥ずかしいなら漏らさなきゃいいのにと思っていたものである。
M君は別に知能遅れだったりしたわけではない。
そういえば、M君の机の中には絶対にパンが入っていた。
井上先生は好き嫌いを許さない先生だったから、多分パンが嫌いなM君はパンを食べたふりして、机に隠していたのであろう。
結局M君はウンコ事件でクラスの中心人物になってしまいパンのこともバレてしまったのである。
一度、M君の家に遊びに行ったことがある。
その時、M君の家の洗面台にうんちが付いたパンツがつけておいてあった。
パンツを発見してしまったうちにM君が行った一言は、言うまでもないだろうが、
「僕じゃないよ」
だった......。
うんちといえば、小学校の頃はなぜか皆、学校のトイレでするのを嫌がった。
臭いとかとバカにされるからだ。
便器にドンとしてあって、流さずに残っていようものならそれだけで大騒ぎである。
そんなある時、催したうちはトイレに行きブリブリ!!とてつもない長さのものが出て嬉しくなってしまい、わざと流さずにそのままにしておいた。
しかし、誰にも気付いてもらえなくて自分から
「でっけえうんこがあるぞ!!」
と言ってみんなに見せたことがあった。
あの時のものは本当に立派なものだった。
2年生になってからよく遊ぶようになった子が、斎藤君だ。
斎藤とは本当に仲が良かったし、斎藤のおじさんとおばさんには色々と助けてもらったり、家族ぐるみで付き合いをしていた。
斎藤のおばさんは、絵を教えていた。うちも毎週水曜日に絵を習っていたが、全然上手く描くことはできなかった。
今でも絵を描くことが一番苦手で、絵を描ける人がとても羨ましく思う。
絵を教わっていたこともあり、おばさんのことは“先生”と呼んでいた。
先生は、非行少年とか、問題のある家庭に関わるような仕事もしていた。
その関係でも斎藤家とは家族ぐるみで付き合いをしていた。
家族ぐるみで付き合うようになったきっかけは、親父と継母の夫婦喧嘩が元である。
夫婦喧嘩の原因は、いつもうちのことだった。
その日が、記念すべき初の夫婦喧嘩だった。
親父は、仕事が休みのときはいつも家でお酒を飲んでいた。その日もやっぱりお酒を飲んでいた。
何がきっかけで喧嘩に発展したのかは知らないが大喧嘩になり、継母は外に逃げてしまった。
親父も継母を追いかけて外へ出ていってしまったがしばらくすると帰ってきて、なぜかうちに「お前の友達のところに行こう」と言いだし、斎藤の家に行くことになった。
なぜ親父がいきなりそんなことを言い出したのかは分からないが、夜だったのに斎藤の家まで親父を連れて行った。
その途中、継母が後ろからついてきてどこへ行くのかと聞いてきたが、うちも親父も何も言わなかった。
こうして家族ぐるみの付き合いが始まったのである。
春休み、夏休み、冬休みは斎藤の家がうちにとってはちょうど都合の良い逃げ場所でもあった。
継母と少しでもいたくなかったうちは、ほとんど毎日斎藤の家に行っていた。そして、斎藤の家で勉強や宿題をやっていた。
先生もうちのそういった事情は知っていたから、いつも裏で助けてもらっていた。
継母に怒られて、
「家に帰ってくるな!!」
と言われたことがあった。その日は家に帰らないで斎藤の家に行った。
ところが、誰もいなくて外で暗くなるまで待っていた。みんなで出かけていたようだったが、待ってると先生が声をかけてくれて家にあがり、継母に帰ってくるなと言われたから家には帰りたくないということを話した。
継母は継母で、うちが暗くなっても家に帰ってこないから大騒ぎして斎藤の家にも連絡をしてきた。
先生は、うちが一緒にいるということを内緒にしてくれて電話を切る。
そして親父の仕事場に電話をして親父にはうちと一緒にいるということを話して、事情を説明してくれて、継母にはそのことを内緒にしておくことと、心配はいらないということを伝えると一度電話を切る。
その間うちは何をしていたかというと、斎藤と遊んだり、夕食を食べさせてもらったりしていた。そして1時間ちょっとすると、先生が継母のところにうちを見つけたと言って連絡をする。
斎藤のおじさんは車を持っていた。
おじさんと斎藤が車でうちを探し、歩いているところを見付けたと継母に話をする。
継母に帰ってくるなと言われたから交番に行こうとしていたところを見付けたと、先生が話してくれる。そして先生と一緒に家に戻る。
継母は家の周りをウロウロしていて、
先生とうちの姿を見ると駆け寄ってきた。その時、初めて継母が泣いている姿を見た。
うちは継母が泣いている姿を見て、内心は愉快で愉快で仕方がなかった。
気分がスッキリしたことを今でもはっきりと覚えている。
普段、継母に虐待を受けていたことを考えるとほんの些細な仕返しである。
怒られて外に追い出されたりすれば、うちはそのまま斎藤の家に逃げていた。その度に、先生がうまく対応をしてくれていた。
何回か同じことをやるうちに、継母もうちには「帰ってくるな」ということを言わなくなったし、外に追い出そうとすることもしなくなった。
力ではかなわなかったうちは、何かをやることによって継母を困らせることをいつも考えていた。
そもそもうちは生まれてから小学校に入るまで自由気ままに朝から晩まで遊んでいたし、ほとんど怒られたこともない生活を送っていたのである。
継母の手におえるはずがないのだ。だから継母は暴力でうちを思うように従わせようとしていたのだろうが、そもそもそこが間違っているのである。
“三つ子の魂百まで”というではないか。継母が来る前のうちの生き方が生き方なのだから、どうこうできるわけがないのだ。
うちに継母なんか不必要だったのである。変に継母なんかがうちのことを何も知りもせずに来たからいけないのである。
親父が再婚などして継母を連れてきたから、少年院や刑務所に入るようなことになったのである。
親父も継母も世間の体裁をすごく気にする。うちが少年院や刑務所に入ったことを、とても恥だと思っている。
そう、うちが少年院や刑務所に入ることで、精神的なダメージを与えることができる。
いわばこれが復讐である。そればかりで入っているわけではないが、奴等にとっては、うちがそういうところへ入るのは耐え難いことであり、恥なのである。
とうのうちはそんなこと何とも思っていないのにである。
もし、継母が来ることさえなかったら、暴力をふるわれることはなかったのである。
学校にはもしかすると、あまり行くことがなかったかもしれないが、継母を恨むほどの傷を心に負うことは絶対になかったのである。
継母なんかが来なかったら、少年院や刑務所にも入るようなことも、のちのち家出をすることもなかったのである。
大人の勝手な事情が、子供に与える影響はものすごく大きいのである。だから今だに親父と継母をものすごく恨んでいる。
もっともっと、滅茶苦茶にしてやりたいと思ってもいる。
よく、親には感謝をしなくてはいけないなどと、偉そうに言うやつがいる。
事情も何も知らないやつが偉そうなことを言ってるんじゃねぇよ!!と思う。
うちは、親なんかに感謝など何一つしていないし出来ない。
子育てもろくにできないやつが、子供のことも考えずに、簡単に離婚をするようなやつが子供を作るなと言いたい。
いつでも子供が大きな犠牲を受けて、傷を受けるのも子供である。
大人にとってはたいしたことじゃなくても、小さな子供にとっては一生傷を負うのである。親父と継母のことは一生死ぬまで許すことはないし、感謝も一切していない。
よく親を亡くしたとき、初めて親のありがたみを知ると一般的には言われているようだが、うちにはそんな日は来ないと思っている。
うちは特殊な家庭環境だったから、一般論は当てはまらないのである。
むしろ、親父も継母もうちに感謝をしてもらいたいくらいである。
なぜなら、殺されずに未だに生きているのだから。
2年生の誕生日に自転車を買ってもらった。それまでは自転車を持っていなかったから友達に借りて乗っていた。
初めて自転車を借りて乗ったときも、練習することなくすんなりと補助輪無しで乗ることができた。
斎藤にもよく自転車を借りていた。
自転車を買ってもらってからは、斎藤とも色んなところに出かけたりした。
斎藤とは家族ぐるみの付き合いをしていたこともあり、バーベキューに行ったり、斎藤の家のベランダでバーベキューをしたりもした。
そんなときの二人の遊びが自転車だった。ただ二人であちこち走り回るだけだったが、それはそれで楽しかった。
うちは、小学校に入学するようになってから、もっというと、継母と一緒に暮らすようになってから、季節に関係なく風邪を引くようになり、体を鍛えるためにスイミングスクールに通わされる
ようになった。
うちが風邪を引いたり、熱を出したりしていたのは、体が弱いから?笑ってしまう。見当違いも良いところである。
なぜならうちが覚えている限り、3歳から小学校に入学するまでの間で、風邪な熱で寝込んだことなど一度もないのである。
原因は、継母以外に考えられない。
継母との生活に重いストレスを感じて風邪を引いたり、熱を出していたのである。
継母さえいなかったら、それまで風邪を引いたことさえないうちがそう簡単に風邪など引くはずがないではないか。
スイミングスクールには2年間通っていたが、バタフライ以外の泳ぎは全てマスターした。
バタフライだけはどうしてもできない。
小学校の3年生になるとクラス替えがあり、うちは二組になった。
斎藤とはクラスが離れて別々になってしまったが、毎週水曜日には必ず斎藤の家に行っていたし、春休み、夏休み、冬休みも行っていたからクラスが別々になっても問題はなかった。
斎藤との関係は引っ越しをする五年生の1学期までは変わらなかったし、引っ越しをしたあとも小学校を卒業するまでは毎週行っていた。
クラスが変わることによって、遊ぶ友達も変わった。
それまでは斎藤と遊ぶことが多かったが、3年生、4年生のときは、五十嵐君とよく遊んだ。
うちはいつも“いがちゃん”と呼んでいた。いがちゃんとのことはもう少し後で述べることにする。
先生も変わった。大久保先生という女の先生で、とても優しい良い先生だった。
3年生のときのうちは自分で言うのも恥ずかしいのだが、クラスの人気者だった。
20分休みや、昼休みはクラスの男の子、女の子から引っ張りだこ状態であった。
流行っていた遊びは“ドロ刑”である(場所によっては“刑ドロ”というところもある)。
2チームに別れて追いかけっこをしていた。
雨の日は外で遊べない。そんなときは、学校の中でドロ刑をしていた。学校内をあっちこっち駆けずり回っていた。
何をするにも、クラスのみんなといっしょにやった。
冬になると学校では、縄跳びをやらされる。縄跳びには級があって、みんなで一緒に練習をしたり、競い合っていた。
うちは好きな女の子が3人いた。友達とも好きな子の話をしたりしていた。
そんなある時、一人の女の子から手紙をもらった。それが初めて女の子からもらったラブレターである。
“吉野ありさ”という子で、その子は誰かからうちが吉野のことを好きだということを聞いたらしい。そしてうちに手紙をくれたのである。
手紙の内容は、吉野もうちのことが好きであるといったことが書かれていた。
うちも返事を書いて渡した。
その後もよく手紙を貰ったり、返事を書いたりしていた。
学校ではいつも一緒にいた。一緒に遊んだりしていた。
席も隣だったから、授業ではお互いに教え合ったりもしていた。
テストのときもお互い分からないところがあったりすると、先生の目を盗んで答えを教え合ったりしていた。
学校が終わると、用事のない日は大体いがちゃんと遊んでいた。
いつもいがちゃんに家に来てもらっていた。
理由は、継母に遊びに行くというと、駄目だと言われるのではないかといつも思っていたからである。
いがちゃんの方から来てもらうことで、確実に遊びに出れる形を取っていた。
いがちゃんとはよく自転車で色々なところに行った。
自転車で右、左、右、左と路地があるたびに曲がり、行き止まりになったりすると戻ってその先の道を曲がり、また同じことを繰り返すという遊びをよくしていた。“阿弥陀サイクリング”である。
出発地点はその日、その日でどこにするか決めていた。
いつも最終的には、二人の知らないところまで行っていた。
大体帰りは迷子になる。そんなときはいつもバスを探して、バスを追いかけていた。
三鷹駅行きのバスさえ見つけてしまえば、知らないところへ行っても全然問題はなかった。生活の知恵(?)である。
夏は井の頭公園に行き、エビを釣ったりして遊んだり、夏休みは朝早くから起きて、カブトムシを捕まえに行ったりしていた。
家の近くには畑や森もたくさんあったから、コオロギ、バッタ、カミキリムシ、カマキリ、カブトムシ、トンボなど色々な昆虫を捕まえることができた。
いがちゃんとうちは、“西部警察”が好きだった。
西部警察に出てくる車が好きで、プラモデルやミニカーも売っていたが、うちは全部持っていた。
プラモデルは、継母の財布からお金を毎日少しづつ、少しづつ盗んで買った。
いがちゃんのお母さんは山形県の出身で、継母と同じだった。
3年生のときだったか、4年生のときだったかは忘れてしまったが、三鷹にも大雪が降ったことがある。
いがちゃんのお母さんは、鎌倉を作ってくれたり、雪でアイスを作ってくれたりした。
継母にそんなことをしてもらったり、教えてもらったことは一度もない。
いがちゃんのお母さんは、雪での遊びを色々と教えてくれた。山形の話もしてもらった。
継母にそういったことをしてもらったことは何もない。親父もそうだった。
例えばテレビを見ていて、分からないことを親父に聞いてもただ一言、
「黙って見てろ」
と言うだけで、教えてくれるということはなかった。
まだ、掛け算の習いたてで、100×100といった計算をまだ知らなかったころ、親父に「100×100は、100だよね?」と聞いたときに言われた一言は「馬鹿か」である。
子供がわからなくて聞いているのに、それはないだろう。
教えてくれたって、バチは当たらないはずだ。
そういうこともできない奴が、偉そうにするなと思う。
家にいるときはテレビを見ながらゴロゴロして酒を飲んで酔っ払って、最低なクソ親父だった。
なんでこんなクソ親父の子供として生まれてきてしまったのかと思う。
そういえば、一つ疑問がある。それは、腹違いの妹のことである。
確か妹は、うちが1年生のときの12月27日に生まれたと思う。
逆算するとまだ結婚していなかったはずである。“できちゃった結婚”なのではないだろうかという疑問である。
もしそうだとしたら、親父も継母もだらしがなかったということではないか。
“できちゃった結婚”で、大迷惑を被ったのはうちだ。
その当時のできちゃった結婚は、かなりの恥さらしではなかっただろうか。
親父の女を見る目は、全然なかったとしか言えない。
1人目は淫乱女!!2人目は暴力女!!こんな家に生まれてきたうちは本当に不運だとしか言えない。
子供の頃のうちは、友達の家族とうちとをいつも比較してみていた。
小学校5年生になるまでうちは、継母だということを知らなかったのである。
自分の本当の(血のつながりのある)母親だと思っていたのである。
その話はまた後ほど。
いつも友達の家と比較しては、友達を羨ましく思っていた。
親父も継母も世間体ばかり気にしていたが、仕事中にてめえのオーナーに“嫁を好きにされていた”なんて話のほうが、よっぽど恥さらしな話ではないか。チャンチャラおかしな話である。
継母にしたって、時代が時代であれば犯罪者(つまりは、うちと何も変わらない)に変わりないのである。
幼児虐待は立派な犯罪である!!
それに、親父も警察沙汰は起こしている。詳しいことは後ほど記すが、本来ならこのときパクられていてもおかしくないことをやらかしている。
継母が訴えていたら、立派な前科者になれたのである。
そういう都合の悪いことは忘れて、人のことばかりよくも偉そうなことを言えたものである。
世間体を気にするなら、うちのことよりも先に、自分の行動を振り返ってもらいたいものである。
都合の悪いことは棚上げして、よく人のことをいけしゃあしゃあと言えたものである。
自分たちは常に正しいと思っているのかもしれないが、大きな勘違いである。
むしろ無抵抗な小さな子どもに向かって、精神的暴力や身体的暴力を振るって何とも思っていないことのほうが卑劣で、非人道的であり、非難されてもおかしくないはずである。
簡単に離婚したり、再婚したり大人はそれで良いかもしれない。しかし、子供の立場からしたら冗談ではない。
子供は何もできない無抵抗者であり、いつの時代も心に深い深い傷を負っている。
それでも、我慢して耐えるしかないのである。
小さな子供は、一人で生きていくことができないのだから。
だから、結婚や離婚を簡単に考えているような奴、子供を傷つけておいて何とも思っていないような奴は、結婚などするものではない。
そういう人間をうちは、とても軽蔑する。
親父と継母はたまにうちのことで夫婦喧嘩をした。
口喧嘩で終わるときもあれば、暴力に発展することもあった。
継母が親父に暴力を振るわれ、
「痛い、痛い!!やめて!!」
なんて大声で叫んでいようものなら嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
心の中で“いいぞ、いいぞ、もっとやれ!!”と思っていた。
継母がうちに向かって、
「おじさんのところに電話して!!」
と言ってうちに助けを求めるが、もちろんそんなものは無視である。
うちだって継母からそれ以上の暴力を受けていた。
ちょっとくらいやられてうちに助けを求めるなどフェアではない。
継母が叫べば叫ぶほどうちの心はとても弾んで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。
親父はお酒を飲んで酔っ払っているから、なかなか止まらないのである。
うちにとっては、夫婦喧嘩は毎日でも起きてほしいくらいだった。
一番大きな夫婦喧嘩は、小学校4年生の夏休みに起きた。
このときの夫婦喧嘩は本当に凄いものであった。
継母は妹を抱いて外に逃げ出し、親父はそれを追いかけて外へ出た。
その直後ものすごい音がした。
継母と妹は外の家を支えている鉄柱に頭を打ち付けられて血だらけになったのである。
継母の血だらけになった姿を見て、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
さすがに、妹は少しかわいそうに思った。
うちは、妹の頭をティッシュでおさえたりしたが、とてつもない血の量で、傷もとてもひどくかち割れたようになっていた。
継母より、妹のほうがひどい怪我を負っていた。きっと、妹を盾にでもしたのであろう。酷い女である。
第一、喧嘩の最中になぜ、妹を抱いて逃げる必要があったのだろうか?
わざわざ寝ていた妹を、抱いて逃げる必要はなかったはずである。
土地狂っていたとしか思えない。
継母がわざわざ妹を抱いて逃げなければ、少なくとも妹は頭をかち割られることはなかったのである。
寝ていた妹をわざわざ抱かずに、一人で逃げ出せばよかったのである。
そう、初めて夫婦喧嘩をしたときのように。
冷静に考えて、子供を抱いてまともに逃げ出せるはずがないではないか。ガキだってわかることである。
救急車がサイレンを鳴らして家の近くに来たのを知ったうちは外に出て、救急車に向かって手を降って合図を送った。
うちはその時、継母に突き飛ばされて、憎々しげな目つきで睨まれた。
その時の形相は本当にすごかった。
土地狂って いたとしか思えない顔つきをしていた。
今でもあの顔はハッキリと覚えている。
恨みのこもった化物みたいな形相をしていた。
救急車に向かって合図を送っていたうちを平気で突き飛ばすのだから、土地狂っている。
夫婦喧嘩の原因はうちも知らない。いかし、お酒を飲んで酔っ払っている親父に喧嘩をふっかけたのは継母である。うちを恨むのは、お門違いも甚だしい。
正直なところ、このときに継母が死んでくれればよかったのにと心の底から思った。それだけが残念である。
この件で警察も来た。
そして警察は、親父を逮捕するはずだった。しかし、継母が警察に親父を逮捕されては困るからやめてほしいと頼んだらしい。
だから親父は逮捕されることも、前科がつくこともなく助かったのである。
うち的には、鉄柱に頭を打ちつけられた継母が出血多量で死亡して、親父がパクられるというのが一番良かったのだが、人生はなかなか思い通りにはならないものである。
この喧嘩のおかげで、うちは一週間斎藤の家に預けられた。
一週間、継母の顔を見ずに過ごすことができた。しかし、それだけである。
それ以来、夫婦喧嘩も暴力まで発展するような大きなものはしなくなってしまった。
せめて離婚だけでもしてもらえたら、邪魔者が一人減り、うちはまたおばあちゃんと一緒に生活をできたのである。
多分離婚をしなかったのは、妹がいたからではないかと思う。うちのときとは、大違いである。
ちょっと話がそれてしまうが、昔こんな話を聞いたことがある。
それは、アメリカの話である。
アメリカの刑務所では、殺人や強盗、傷害といった事件を起こした人は、レベルの低い低能者が犯す犯罪であり、誰からも相手にされない。
日本はその逆で、殺人や強盗といった犯罪を起こして刑務所に入った人は一目置かれる。
アメリカでは、詐欺事件など頭を使った犯罪を侵した人は、英雄扱いされる。バカには絶対に考えつかないからである。
しかし日本はその逆で、詐欺犯では箔が付かないと見なされるようである。
そう、親父と継母は、アメリカ流で行くと、暴力でしか物事を解決できない低脳者!!つまり、早い話が“バカ”ということである。
考えてみたら、映画やテレビ、アニメの世界でも、ルパン三世やキャッツアイ、ねずみ小僧はヒーローであり、英雄扱いされているが、刑事ものや戦争ものなどは、最終的には悪党は殺されているではないか。
親父と継母は後者。うちは前者。
うちのほうがランク、レベル(?)的には上なのである。
だから本来、親父と継母はうちに敬意を払わなくてはならないのである。
そして、うちが子供だったときのうちの扱い方について、深く深く反省し、後悔をしながら地獄へ旅立たなくてはいけないのである。
畜生道と餓鬼道を半年ごとに彷徨い、深く深く反省をした頃、天国からうちが慈悲の心を持って蜘蛛の糸を垂らしてあげよう。
200年くらい先のことになるとは思うが……。
針山地獄や血の池地獄なんかも、親父と継母には似合っているかもしれない。
もう200年くらいプラスしないと、200年では短すぎるかもしれない。
親父と継母がしてきたことは、決して軽くない。
3年生の夏休みに、継母の実家がある山形県のの酒田市に行った。
酒田には、おばあちゃんが一人で住んでいた。
家のすぐ裏は海で、天気が良ければ毎日海に行って泳いだ。
このときは、継母の兄弟姉妹が揃い、3家族が集まった。
この年は、群馬県にジャンボ機が墜落した年で、このニュースはうちも酒田で見た。
三重と栃木は大好きだったが、酒田はあまり好きではなかった。
田舎ではあったが、どうも田舎としてもあまりピンとこなかった。
うちにとっての田舎とは、山と川、そして田んぼと畑があるところであって海ではない。
継母の実家ということも、大きな理由だったと思う。
生理的に受け付けなかった。
おばあちゃんのこともあまり好きではなかった。
海で泳げばクラゲに刺されるし、防波堤で釣りをすれば竿を海の中に落としてしまうし、嫌な思い出しかない。
3年生のときの担任、大久保先生は、4年生も本来なら受け持ちになるはずだったが、1年しかお世話になっていない。
学校を辞めてしまったからである。
4年生のときの担任の先生は金子先生と言って、初めて男の先生になった。
金子先生は話がとても上手な先生で、社会の授業などのとき、色々な話をしてくれた。
先生は普段、メガネをしていたが、話が長くなるときは必ず決まってメガネを外す。
先生がメガネを外すと、今日はどんな話をしてくれるのだろう?と思い、ワクワクしながら先生の話を聞いたものである。
金子先生は初老に近い先生だったが、元気で凄く助平な先生でもあった。
忘れ物をしたり、宿題を忘れると、1列に整列させられるのだが、男の場合はげんこつ一発で終わる。
しかし、女の子の場合椅子に座り、女の子に足を絡めてニタニタと笑いながら、お尻や太ももを撫で回したりする。
うちはいつもそれを友達と見て、「始まった、始まった」
と言って笑いながら見ていた。
金子先生はきっとロリコンで、少女が好きだったのではないかと思う。
そんな先生ではあったが、うちは好きな先生の一人だった。
4年生になって悲しい出来事が二回起こった。
三重のおばあちゃんが倒れて、病院に入院をしたのである。
親父の兄貴(親父は三人兄弟だった)、おばさん、従姉妹とうちの家族とで学校を休んで三重に行った。
おばあちゃんは食欲もなくて、食事もあまり食べていなかったようである。
うちはおばあちゃんに、学校の授業のときに作った鈴をあげた。
うちがおばあちゃんにあげた最初で最後のプレゼントである。
この年、おばあちゃんが亡くなった。
おばあちゃんが亡くなった日は12月27日で、妹の生まれた日である。
亡くなった時間も、妹が生まれた時間とほぼ同じ時間に亡くなった。
継母は、
「おばあちゃんに恨まれていたんだ」
と言っていた。
きっとおばあちゃんは、うちが継母にひどい仕打ちを受けていたことを分かっていたのではないかと思う。
しかし、継母もよくそんなことをうちのいる前でぬけぬけと言えたものである。
常識のかけらもない言葉である。
子供はそういった自分がやられた仕打ちや、大切な人を傷つけるような言葉を一生忘れないのである。
大人はそういうことを、しっかりと肝に銘じるべきである。
子供の小さな心は、そういう大人の良識のない一言一言で傷付いているのである。
てめえがやられたときだけ、ピーピーピーピー喚くなと言いたい。
うちはそれ以上のことを毎日のようにやられていた。
恥をしれ!!と言いたい。
三重のお葬式は土葬だった。しかもそこの風習で、死者が暴れださないようにということで、縛ってから棺に入れるのだが、それがとてもかわいそうだった。
そうしてから、お墓まで皆で棺を担いだりして向かう。
うちは、おばあちゃんが天国で使う杖を持って歩いた。
きっと天国で、その杖を使ってくれていることと思う。
こうして、おばあちゃんとさようならをした。一人のおばさんに、
「もう、おばあちゃんと会えないね」
と言われたのを覚えている。
とても悲しかった。
おばあちゃんとの最後のお別れの日、うちは泣かなかった。しかし、三鷹に戻ってから、布団の中で位牌を見ていたら寂しくなってしまい、声を押し殺して泣いた。
本当に悲しかった。
4年生の頃から友達と釣りの話をしたり、友達同士で釣りに行く計画を立てたりした。
しかし、友達同士で釣りに行ったのはたったの一回だけである。
いつも計画を立てても継母に反対されて、行くことができなかったのである。
それでも、いがちゃんとは年中、井の頭公園公園の行けに行ったり、多摩川に行ったりしていた。
要するに、言わなければ近くで遊んでいると思っていた継母である。
まさか、自転車で1時間以上もかかるところまで行って遊んでいたなどとは思っていない。
要するに、バレなければ良かったのである。
それは、うちの最も得意とする分野であった。
4年生のとき、うちは友達とKという子をいじめていた。
休み時間になると、使われていない教室にKを呼び出し、プロレス技をかけたり、殴る蹴るの暴力を振るっていた。
まるで継母にやられていたことを、そのままKにするような感じであった。
自習で先生が来なかったりすると鉛筆を全部折ったり、鉛筆削りで短くなって使えなくなるまで鉛筆を削ったり、鉛筆を削ったカスを頭にかけたりしてKをいじめていた。
それが原因で、吉野に嫌われてしまった。
最終的には思い切り蹴飛ばして、机の角に頭を打ち付け、病院に運ばれるほどの大怪我を負わせてしまった。
このときは流石にまずいことをしたと子供ながらにも思い、反省し、自分からKの家に謝りに行った。
うちも、継母にやられていた暴力を、クラスメイトにやってしまったのである。
最低なことをしてしまったと思う。
虐待を受けて育った子は大人になると、あれだけ憎んでいた暴力を自分の子供にもやると言われている。
なぜなのかは分からないが、うちはそれをクラスメイトに向けてやってしまった。恐ろしい話である。
どんなことがあろうと、子供には暴力を振るいたくないと思っている。
小学校5年生になるとクラス替えとなり、1組になった。
先生は男の先生で、秋山先生という先生だった。
秋山先生は若い先生で、放課後はいつもみんなとレクリエーションに楽しんで参加してくれる先生だった。
4年生のときはあまり女の子と遊ぶということはなかったが、5年生のときは毎日のように放課後になると、校庭て、女の子たちとも一緒になって遊んだ。
5年生になると、委員会に入らなくてはならない
うちは放送委員会を希望した。
しかし、放送委員会はとても人気があり、じゃんけんで決めることになった。
じゃんけんの結果うちは……見事放送委員になれた。とても嬉しかった。
放送委員の仕事は、朝一からある。
音楽を流したり、朝礼で使うマイクの用意をしたり、昼食時間は音楽や物語が録音されたカセットテープを流したり、放課後の放送を流したりと、仕事はたくさんあった。
放送を流すときは、放送室に行く。
マイクで放送をしたりするのがとても楽しかった。
放送委員の担当の先生は、4年生のときの担任だった金子先生で、毎日先生のところに行き、放課後の放送を何時に流せばよいかを聞いた。
時間が来ると音楽を流し、マイクで
「放課後の時間になりました。また、明日も元気に投稿しましょう。今日の担当は、唯、山本(同じクラスの友達)でした」
と言って、1日の放送が終わる。
この放送の声は、斎藤の家まで聞こえていたらしい。先生が言っていた。
放送委員は朝一番に学校に行き、最後まで学校に残れたから、ちょっとでも長く家にいたくなかったうちにとっては、とても都合の良い仕事だった。
5年生のときに、一人の女の子が転校してきた。Sさんという。
とても大人しい女の子だった。
うちは色々と話しかけたりするのだが、それがエスカレートしてしまい、最終的にはその子を口でいじめていた。
うち的には、もっと明るくなってもらおうとしてやったことが、結果的にはその子を精神的に追い詰めていたのである。
「お前、暗すぎるんだよ!!もっと明るくしろ!!」
「お前と一緒にいるとこっちまで暗くなるじゃないか!!」
「飯を食べるときは大きな声で“あっ”ていってからパク、“いっ”ていってからパクと食え」
などと毎日ひどいことを言って、傷付けていたのである。
言葉の暴力というものを知らなかったうちは、暴力を振るわなければ、それはいじめにならないと思っていたのである。
しかし、力の暴力より言葉の暴力のほうが、人は傷をつくのだということを後になって知ったのである。
Sさんはうちのいじめが原因で、学校を休んでしまった。
うちは秋山先生に呼び出され、Sさんの家に誤りに行くことになった。
学校が終わってから一度家に帰り、Sさんの家に行った。
Sさんの家に行くと、Sさんの友達(クラスメイト)の女の子もいた。うちはSさんに謝り、二度とやらないと約束をした。
そして誤ったあとみんなと遊んでから、家に帰った。
あのとき二度とやらないと約束をしたのに、またやらかしている。
やった内容は違えど、Sさんからしたら同じことだったのであろう。
2回目のとき、自分ではそれほど大したことを言ったつもりはなくても、相手によってはひどく傷つくのだと知った。
このあと、夏休みに入りうちは転校をしてしまい、Sさんには会っていない。
しかし今でもたまに、Sさんのことを思い出すときがある。
うちが転校したあと学校に行ってくれてたのか、あのときの心の傷をまだ背負っていないだろうかと。
Sさんひどく傷つけていたことを、今でも後悔している。あのときのことを、Sさんにもう一度謝りたい。
5年生のときに、斎藤の家に行ったとき、先生から継母の話を聞いた。
このとき初めてうちは、母親が継母だと知り、怒りを覚えた(もしかすると、6年生のときだったかもしれない)。
うちはそれまでずっと、本当の母親だと思っていたからだ。
なんで本当の母親でもないやつに殴られたり、蹴飛ばされたり、怒られたりしなきゃいけないのかという気持ちでいっぱいであった。
そのことを知ったうちは、親父に生みの母親に会いたいといった。
先生と親父は母親の居場所を探して、どこに住んでいるかを調べた。
しかし、親父はうちを生みの親には合わせたくないの一点張りで、なぜ合わせたくないのか、理由は一言も教えてくれなかった。
「お前が会いに行くなら二度とうちには戻ってくるな」
とか、
「会いに行くなら二度と敷居をまたがせない」
などと言われた。
そんなに合わせるのが嫌なら、そもそもなぜ、先生にその話をしたのかと思う。
親父が話をしたのか、継母が話をしたのかは分からないが、そんな話がうちの耳に入らないとでも思っていたのだろうか。
それとも、そういう話をしても、うちがそんなことを言い出すとは思っていなかったのであろうか。
考えが甘すぎる。
理由も何もいいもせず、合わせたくないなどと、卑怯そのものである!!
「お前がまだ小さかったときに、俺が仕事に行っていた間に、俺のオーナーと浮気をしてたんだ。だから会ってほしくない」
と男らしく言えば良いではないか。
いくら格好つけても、それが事実なのだから。
格好つけるところを勘違いするのも甚だしい。
それができないなら、そんな話を最初から先生にしなければ良いのである。本当に情けのない男である。
結局この話は、うちが諦めるという形で終わった。
毎日、毎日親父と継母に、
「母親のところに行って知らない人の子供がいても良いのか」
「お前の知らない人と結婚していてもよいのか」
「こっちのお母さんより怖い人でもよいのか」
などとうちが嫌になりそうなことばかり言ってくるのである。
卑怯で卑劣なやり口である。
てめえらのことしか考えていない。子供の気持ちを全く無視したやり口である。
こんな情けない女々しい野郎だから、てめえのオーナーに嫁をつまみ食いされるのである!!
男としての器量がまったくなかったから、つまみ食いなんかされるのである!!
大人の勝手な事情は、子供には全く関係のない話ではないか!!そこを一緒にしてもらいたくないものである。
それ以来、母親の話をすることは一度もない。
しかし、うちはそれ以後母親に怒られるたびに、“何でこんなおばさんに怒られたり、殴られたりしなきゃならないんだ”と、反発心しかなかった。
早く二人とも死んでくれないかと、いつも思っていた。
うちは、小学校と中学校時代は身長も低く、いつも前の方に並んでいたし、体も小さかった。
もし、体も大きくて力もあったら、継母か親父を殺していたかもしれない。
実際、中学生のころ、寝てる親父を包丁で刺殺してやろうと何度か考えたことがあった。
しかし、血が苦手だったうちは、刺した後の血を見るのが嫌だった。
もっというと、血を見るのが怖かった。だから、やれなかったのである。
それさえなかったら、中学1年生のときに親父はとっくにうちに刺されて死んでいる。
その時うちは12歳だったし、まだ少年法も全然ゆるい時代だった。
血さえ克服できていたら、間違いなく親父を殺していた。
うちが血を見ることが苦手だったことを、感謝したほうが良い。
ちなみに今は、克服している。
夏休みが終わる頃に引っ越しをした。理由は、うちがあっちこっちで継母のことを本当の母親じゃないと言いふらし、住みづらくなったからと継母はうちに言った。
しかし、うちはそんなことを言いふらした覚えはない。
継母の被害妄想である。子供のせいにして、引っ越しをするなど情けのない話ではないか。呆れてしまう。
虐待をしてたことを恥ずかしがるならわかるが、理由はそっちかよ!!
被害妄想になるくらいなら、先生にも話をしなければ良かったのである。
もっと言うなら、最初から親父と結婚などしなければ良かったのである!!
そこまでの覚悟がなくて、結婚などするのがいけないのだ!!
うちは、母親など一度も求めたことなどない。母親、否暴力女などうちには不必要だったのである。
こんなことになるくらいなら、ずっと三重で生活をしていたかった。おばあちゃんと、ずっと暮らしていたかった。
そうしていたら、おじさんもおばあちゃんも、あんなに早く亡くなることはなかったのである!!
親父と継母が、おじさんとおばあちゃんを殺したと言っても過言ではない。
親父と継母のことは、恨んでも、恨んでも、恨みきれない。憎んでも、憎んでも、憎みきれない。八つ裂きにしてやりたいものである。
うちがどれだけ恨んでいるかを知らしめしてやりたい。
だから今回自伝を投稿しようと思ったのである。
子供も小さいながらに、こういうことを考えているのだということを知らしめしてやりたかったのである。
全国の子供を持つ親に、自分の子供を平気で殺すような野郎に、幼児虐待をなんとも思っていない最低な野郎に、DVをなんとも思っていない野郎に、子供の心の叫びを知らしめしてやりたい。
子供は親を選べないのである。
全国の最低最悪、手の施しようのない馬鹿者たちよ!!
子供に責任はない。子供を傷つけるな!!と、声を大にして言いたい。
責任を持てないやつが、子供を作る資格などない。
子供を守れないやつが、家庭など持ってはいけない。
だからうちは、KとSさんをいじめてしまったこと、心に深い傷を負わせてしまったことを、今でも後悔している。
取り返しのつかないことをしてしまったと思っている。
自分勝手かもしれないが、二人があのときの傷を癒やしてくれてればと思う。
三鷹から田無に引っ越しをした。
引っ越しをするちょっと前に、先生がコミュニティーセンターでお別れ会を開いてくれた。
そもそも、うちは引っ越しなどしたくなかった。
ずっと三鷹で過ごしたかったのに、継母の“被害妄想”のせいで、引っ越すことになってしまったのだ。
しかも、田無で知り合った人には、てめえの方から継母でうちとは血のつながりがないと話しをしている。
だったら田無なんかにわざわざ引っ越す必要なんてないだろう!!と腹立たしく思った。
「血が繋がってなくても、お母さんはよくやってくれてるじゃない。感謝しないとね」
なんて言われたことがあった。
そういうことを言ってもらいたくて、ペラペラ自分の良いように話をしていたのであろう。
汚いクソババアである。そうやって、味方を作っていたのである。
やっていることがとても醜い。
そこまでして、自分を良く見せたかったのかと思う。
学校は、芝久保小学校というところに転校した。
うちの他に一人、女の子も転校してきた。
井口小学校と芝久保小学校とでは、大きく変わったところが1つある。
それは、井口小学校では、休み時間や体育、放課後など何をやるにしても女の子も一緒に混じってやるのが当たり前だったし、女の子と話をしたりするのも、みんな普通にやっていた。
しかし、芝久保小学校はいつも男の子と女の子がバラバラに別れて、女の子と一緒に何かをするということがなかった。
ちょっとでも学校の中で女の子と話をしようものなら“女たらし”なんて言われて冷やかしを受ける。
最初のころこの学校は、随分と珍しい学校だなと思った。
そしてあまり好きになれなかった。
この頃流行っていた遊びは、テレビゲーム。
友達の家に行ってもみんなファミコンに夢中で、外で遊ぶことがなくなってしまった。
うちも従兄弟のおばさんに、ファミコンを買ってもらった。
この頃の遊びといえば、ファミコンであった。
釣りが好きだったうちは、電車で三駅行ったところに東伏見という駅があって、そこから徒歩二分くらいのところにある関公園に釣りに行くようになった。
関公園には、大きな池があり、ボート乗り場もあった。
鯉が放流されていて、たまに友達と鯉を釣りに行くこともあった。
家から自転車で行っても30分くらいのところだったから、自転車で行くことのほうが多かった。
関公園の鯉は“バカでもチョンでも釣れる”なんて言われるくらい、簡単に釣れる。
30cm級の鯉が、1日で50匹くらい釣れてしまう。
いつ行っても、年金ぐらしをしているような人達がたくさんいる池であった。
芝久保小学校でのクラスは1組で、担任の先生は石橋先生という男の先生で、この先生は怒るときは、
「歯を食いしばれ」
と言って、ビンタをする先生だった。
うちも一回だけやられたことがある。
田無に引っ越しをしたあとも、斎藤の家には毎週一回は行っていた。
行けば、元クラスメイトとも遊べたし、合うこともできた。
そのたびに、やっぱり井口のほうが全然良いなと思ったものである。
田無なんかに引っ越す必要なと、全くなかったと今でも思っている。
継母だけ一人で好きなところに行けば良かったのである。
6年生の思い出が、なぜかあまりない。
大きな思い出といえば、移動教室に行ったことくらいである。
2泊3日で、菅平に行った。
1泊目の朝は、いつもより早い時間に集合場所に集まり、バスに乗っていった。
キャンプファイヤーや、肝試しをやった。
肝試しは、男女でペアを組み、指定されたところを一緒に進んだ。
女の子はとても怖がっていたが、ちょっとした山道を歩くだけで、たいして怖くもなかった。
夜は女の子の部屋に行き、怪談話で盛り上がったが、うちはこっちのほうが怖かった。
2日目は朝から雨が振り、予定していた山登りに行けなかった。
本当はこれが一番の楽しみだったのだが、残念である。
午後は、憎たらしいくらいに晴れた。
4人一組で男女のグループを作り、地図をもらって地点ごとにカードが置いてあり、コンパスを使ってその地点を探すのだが、結局みんな先頭にくっついて歩くから、コンパスの意味は全く無かった。
うちはずっと女の子と喋っていたから、「女たらし」などと言ってからかわれたが、無視をしていた。
そんなことを言われて気にするほど肝は小さくなかった。
全く気にすることなく、女の子と喋りながら歩いていた。
逆に、女の子と話も出来ないなんて随分と可愛そうなやつだなと思った。
三鷹だったら、こんな小さなことを気にするような男の子はいなかった。
きっと、井口小学校の移動教室のほうが楽しかったんだろうなと思った。
田無に移ってから、井口小学校と芝久保小学校を比較してみることが多くなったと思う。
もちろん、軍配はいつも井口小学校に上がったことは言うまでもない。
ここでもやっぱり思うことは、大人の勝手な事情で、転校など軽々しくしてはいけないということである。
長年一緒に過ごした友達をなくす。
新しい環境に変わるというのは、子供にとって大きなストレスになるのである。
きっとSさんもそうだったのではないかと思う。そう考えると、新しい環境に変わって、戸惑っていたであろうSさんをいじめてしまったのは、最低だったとつくづく思う。
Sさん、ごめんなさい。
Sさんを、凄く傷つけて、本当に本当にごめんなさい。
Sさんのことが一番心残りである。
移動教室で一番天気になったのは、3日目の帰る日だった。
この日は牧場に行き、最後に川に行って自由行動となり、みんなで川遊びをして楽しんだ。
3日感は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
田無に引っ越しをしてから、あんまり友達との思い出がない。
釣りに何度か行ったことがあるくらいで、外で遊ぶことがなくなって、ゲームばかりやるようになったからだと思う。
うちは、同窓会をしたことがない。
もし、今後参加をするような機会があったとしたら、井口小学校で共に学んだ友達と再開したい。
そのときには、Sさんにあのときのことをしっかりと謝りたい。
親父や継母にとっては、どこに引っ越しをしようが、どこに住もうが全く関係のないことだったのかもしれない。
しかし、うちにとっては田無に引っ越したというのは、大きく環境が変わり失敗だったと思っている。
住むところは、とても大事だと思う。
後に記すが、うちは16歳で家を出て、それから東京には戻っていない(少年院を出たときは親父に引き取られたから一度戻っている)。
正確に言うと、30代のときに二度だけ板橋に仕事上住んだが、東京はうちの肌に合わない。
東京は、うちにとっては嫌な思い出しかなく、一番行きたくない街ワースト1であり、住みたくない街ワースト1であり、遊びに行きたくない街ワースト1である。
うちには、山に囲まれた田舎があっている。
そういうところで、のんびりと暮らすほうが合っている。
子供の頃に良い思い出が一つもなかったからだろうが、東京は大嫌いである。
東京に住むくらいなら、刑務所に入ってるほうがまだ良いと思うくらい(今はそうは思っていないが)、東京は大嫌いである。
一部例外はある。東京でも、青梅、奥多摩、檜原村は大好きなところで、今うちが一番住みたい街である。
そう、青梅、奥多摩、檜原村にはうちの大好きな山や川、自然がたくさんあるからだ。
コンクリートジャングルなんかより、最高である。
人間は、自然の中で生きるのが良いのである。
大昔のように、自然と共に生活を送れば良いのである。
それが最も人間らしい生き方だと思う。
都会は、大人や子供を駄目にするのである。
事件を見たってそうではないか。必ず事件が起きるのは都会だ。
自然に囲まれたようなところで、大きな事件など聞いたこともない。
都会は人間を狂わすのである!!
もし、うちが新宿で生まれず、三重で生まれて、三重で育てられていたとしたら、もう少し違った人生を歩めたのではないかと思う。
三重で育てられなかったとしても、親父が再婚などしなければ良かったのである。
卒業式が終わったあと三鷹に引っ越しをした。
三鷹に引っ越しをすると、親父、おばあちゃんに加わって継母の四人での生活が始まった。
継母が来てからうちの生活パターンが、ころっと180度変わってしまった。
まず、今までは朝起きると着替えてそのまま外に遊びに出れたのが出来なくなり、当然夜も出歩くことが出来なくなってしまった。
そして、小学校は休むことなく毎日通うようになった。
継母と一緒に生活をするようになると、うちは家に帰るのがとても嫌だった。
小学校はうちのいい逃げ場所になってしまったから、毎日通っていたのである。
また、体にも大きな変化をきたした。それまでおねしょなどしたことがなかったのに、おねしょをするようになってしまったのである。
うちは、親父も嫌いだったがそれ以上に継母は大嫌いだったし、恨んでもいた。
親父とは親父の仕事が夜だったことと、引っ越しをしたことにより顔を合わすことはほとんどなくなった。
仕事が終わると始発で帰ってくるのだが、うちが朝起きる頃には寝ていたし、学校から戻るともう仕事に行っていたので合うことがなかった。
おばあちゃんも一緒に生活をしていたときはまだ継母に怒られたりすると庇ってくれたから良かったのだが、おばあちゃんが田舎に帰ってからは、ひどい怒られ方ばかりしていた。
今なら間違いなく“幼児虐待”で大騒ぎになっていたことと思う。
そのことについては、もう少し後で述べることにする。
うちは、三鷹市にあるイグチ小学校に入学をした。
ランドセルは、継母の兄嫁が入学祝いとしてプレゼントしてくれた。
入学式は、親父と継母の三人で行き、うちは1年3組になった。
担任の先生は女の先生で井上先生という。
普段はとても優しい先生だった。井上先生は、1年生と2年生の2年間お世話になった。
2年生になってから少し厳しくなったと思う。
1年生のときはまだ引っ越してきたばかりだったこともあり、学校が終わるとあちこちを探検した。
新宿と違い、森や野原、畑が身近になり遊ぶところがたくさんあった。そういった意味からも、新宿よりも三鷹の方がうちにはあっていた。
三重で過ごした数カ月間が影響しているのだと思うが、都会でビルばっかりのところよりも、山や川があるところ、人工的なものばかりあるところよりも、自然の多いところが今でも大好きである。
小学校に入学したばかりの頃は、継母もまだ仕事をしていた。
しかし、夏休みに入った頃から継母は仕事を辞めて しまった。
継母は美容師だった。だからうちは小学校からは、継母に髪を切ってもらっていた。
継母と一緒に住むようになってそれまでしたことのなかったおねしょをするようになったと述べたが、もう1つそれまで風邪さえひいたことがなかったうちが、しょっちゅう風邪をひいたり、熱を出したりするようになった。
これも継母と一緒に生活をするようになって、うちの体が拒否反応を起こした結果ではないかと思う。
一番嫌だったのは、夏休みに入ってから大好きだったおばあちゃんが三重に帰ってしまったことである。
しかも、おばあちゃんが三重に帰るとき、まさかもう帰ってこないとは思っていなかったから、継母の兄嫁の実家である栃木に泊まりに行ってしまったのである。
継母に、三重と栃木のどっちが良いかと聞かれ栃木を選んでしまったのである。
あの時、三重ではなく栃木に行ってしまったことを今でも後悔している(普通は聞かないで三重に行かすよ)。
こうしておばあちゃんが三重に帰ってしまってからは、三人の生活になった。
おばあちゃんがいなくなってから、うち毎日継母に日記を書かされるようになったのだが、うちは日記を書くのが大嫌いであった。
なぜかというと、字を間違ったりするだけで、毎日ひっぱたかれていたからである。
まだ、字も覚えたてで“今日は”とか“○○へ”といった字を書くときに“今日わ”とか“○○え”などと間違って字を書くたびに、
「何度教えたら覚えるの!!」
と言って、ひっぱたかれていたからである。
日記はいつも泣きながら書いていた記憶しかない。
日記だけではない。勉強をさせられるのだが、算数の計算でもなんでも理解できなくて間違うたびにひっぱたかれたり、外に追い出されたりした。
最初の頃は手でひっぱたかれたりしていたが、だんだんエスカレートしていき、足で体中を踏みつけられたり、プラスチックの定規で体中を叩かれたり、お盆、布団たたき、インスタントコーヒーの瓶などありとあらゆるもので殴られた。
小学校2年生のとき、布団たたきで全身を叩かれて、全身に布団たたきの跡がつき学校の先生がビックリしていたことがあったがそれだけである。
今だったら虐待を受けているということで大問題になっていただろうに、あの時は問題にもされなかった。
全身ミミズ腫れになっていたのにである。
うちは継母に暴力を受けるたびに、いつか大人になったら仕返しをしてやろうといつも思っていた。
たまに内緒で女子プロレスを見ていたことがあった。確か小学校4年生前後だったと思うが、ダンプ松本やブル中野を見るたびに、継母をボコボコにやっつけてくれないかな?と、本気で思っていた。
お盆で頭を殴られて、お盆の底が突き抜けて壊れたことがあった。その時の一言が、
「お前の頭は石頭だ!!お盆が壊れたじゃないか!!」
である。
お盆の底が突き抜ける程の力で子供の頭を殴っておいて、あの言いぐさはないと思う。
一歩間違えば、死んでいたかもしれないのに。だから、継母を許すことなど絶対にありえないのである。
逆にもし許されるのであれば、やられたことをそっくりやり返して殺してやりたいくらいである。
間違ってもおばあちゃんと同じお墓には入れたくない。それだけは絶対に許さない。
風邪をひいて熱を出し、食欲がないのに無理やり食事を取らされ(このときの無理矢理とは、言葉通りの無理矢理である)、気持ち悪くなり食べたものを全部吐き出すと、 ひっぱたかれたこともあった。
普通、熱を出して体調の悪い子供をひっぱたいたりするだろうか。
とても考えられないし、食べれないものを無理矢理食べさせるから吐いてしまうのだ。
どっちが悪いんだ!!という話である。
無理矢理食事をさせられることがなければ、気持ち悪くなって吐くこともなかったのである。
吐くといえば、学校の廊下に吐いてしまったこともあった。
授業中気持ち悪くなり、先生が気付いてくれてトイレに行かせてくれたのだが間に合わず、教室を出た瞬間に、ゲロゲロ!!
廊下中に吐いてしまった。あの時は、子供ながらにとても恥ずかしかった。
小学校に入学してから毎年春休み、夏休み、冬休みは継母の兄嫁の実家である栃木に行っていた。
おじさん、おばさん、そして従兄弟に混じって電車や車で連れて行ってもらっていた。
電車で行くときは、“氏家”という駅まで行くと、従兄弟のおじいちゃんが迎えに来てくれていた。
氏家から車で20分くらいのところに家があった。
おじいちゃんの家は農家で、周りは田んぼに囲まれたところで、三重の次にうちのお気に入りの場所だった。
夏に行くと、稲がとてもきれいで、うちのお気に入りの風景である。
夏はいつもより早く起きると、おじいちゃんとおじさんと従兄弟とで山に連れて行ってもらい、カブト虫やクワガタをたくさん捕まえていた。
山には軽トラで向かうのだが、従兄弟とうちは軽トラの荷台に乗りいつもはしゃいでいた。
おじいちゃんの家から車で30分くらい走ると山に着くのだが、人の手を加えられていない山で藪の中に入っていく。するとカブトムシやクワガタがあちらこちらの木に沢山いた。
おじいちゃんとおじさんはカブトムシやクワガタがいない木を蹴飛ばす。すると、木の上からカブトムシやクワガタが落ちてくる。
楽しくて楽しくて仕方がなかった。
うちも真似をして木を蹴飛ばすのだが、力がないので落ちてこなかった。
クワガタはいろんな種類のクワガタを捕まえたが、“ミヤマクワガタ”はとても強いクワガタだった。
カブトムシと一緒に入れておくと喧嘩をしてしまい、カブトムシはズタズタにされて死んでいた。
だから、ミヤマクワガタを捕まえたときは必ず別の入れ物の中に入れるようにしていた。
夏休みといえば、毎年カブトムシやクワガタを捕まえに行くのが楽しみだった。
藪の中を進むから蜂の巣があるのがわからず、おじさんの後を追いかけてハチに刺されまくり大泣きしたこともある。
緊急退去したのは言うまでもない。だから今でも蜂は大の苦手で、蜂を見るとフリーズして動けなくなる。
午後になるとおじさんに鬼怒川に連れて行ってもらい、従兄弟と二人で川で泳いだりして遊んだ。
従兄弟はうちより2つか3つ年下だったが、スイミングに通っていたから泳ぎは上手かった。
普段出掛けないときは、従兄弟と田んぼや畑の周りで遊んでいた。
おじいちゃんの家からちょっと車で行くと、田んぼに水を引くための川があった。
イメージ的には多摩川上水みたいなところで、そこにはザリガニがたくさんいた。
従兄弟とうちは川に入るとザリガニをバケツに溢れるくらい捕まえて遊んでいた。
冬はお正月の3日前くらいから行く。餅つきをしたり、田んぼでタコを上げたりして遊んでいた。
おじいちゃんは、猟銃を持っていて、イノシシや鳥を狩ったりしていた。狩り用の犬も飼っていた。
犬はタコを上げるとタコを鳥と勘違いしてものすごく興奮する。それがとても面白かった。
たまに綱を解いてあげて、ボールを思い切り投げて取りに行かせたりして遊んでいた。
うちは猟にもとても興味があって、たまにおじいちゃんに連れて行ってもらっていた。
猟に連れて行ってもらうのはうちだけだった。
山の中に入っていき、一緒になって鳥を探した。
都会で遊ぶよりも遥かに楽しかった。
今も思うことだが、うちは都会より田舎での生活のほうが性に合っていると思う。
田舎で生活をしていたら、少年院や刑務所なんかに入ったりすることもなかったんじゃないかな……なんて思うことがよくある。
栃木に行くと、1つだけうちがやる仕事があった。
おじいちゃんが猟をして狩ってきた鳥の羽をむしる仕事である。
その日の夕方は、食卓に鳥の料理が並ぶ。新鮮な鳥の刺し身は最高に美味しかった。うちの大好物である。
イノシシの猟は危険だからといって連れて行ってもらうことはなかったが、本当は凄く行きたかった。
イノシシの肉も最高に美味しかった。
田舎はうちにとって最高の場所である。飽きるということがまったくないところである。
冬はおじいちゃんの家から車で2時間くらいのところにスキー場があり、そこへ連れて行ってもらったが、うちはスキーが全然だめでもっぱらソリ遊びばかりしていた。
上まで登っていき、ソリで下まで滑り降りるだけだったが最高のスリルだった。
しかし、スキー場に連れて行ってもらったのは低学年までで、それ以降は一度もスキー場には行ってない。
春休み、夏休み、冬休みといつ行ってもその季節季節で楽しいことが田舎にはたくさんあった。
人間は人工物しかない都会なんかに住むより、自然に囲まれたところで生活をするほうが人間らしい生き方ができるのではないかとうちは思う。
都会はろくなことしか起こらない。
1年生のとき、女の子が転校をしてきた。その女の子はアメリカ人で“エリカ”という名前の子だったが、うちの初恋の女の子でもある。
エリカは日本語もペラペラだったからよく話をしたりもした。
うちはこの頃から、外国人とも全然気にすることなく遊んだり、話しかけたりしていた。
小学校2年生のときにも男の子が転校してきたが、その子は全然日本語が話せない子だったが、いつもエリカに通訳をしてもらい一緒に遊んでいた。
男の子は“ジョン”という名前の子だった。
同じクラスの男の子たちは、いつもジョンをからかったり、いじめたりしていたからジョンが覚えた日本語は“バカ”と“アホ”である。
井上先生もあまり英語は話せなかったらしく、よくエリカに通訳をしてもらっていた。
外国人が好きだったうちはジョンとばかり遊んでいたが、残念なことにジョンはすぐに転校してしまいいなくなってしまった。
1年生の頃は学校にいるときは友達ともよく遊んだが、学校が終わってから遊ぶということはあまりなかった。
2年生になってから、学校以外のところでも友達と遊ぶようになった。
三鷹は森や公園、野原がたくさんあったからそういうところでよく遊んでいた。遊ぶ場所に困ることはなかった。
うちの住んでいた家の近くにコミュニティーセンターがあり、そこは体育館もあった。
卓球をしたり、バドミントンをしたり、夏はエアコンが効いていてとても良い遊び場であった。
屋上にはプールがあり、夏休みにはよく友達と泳ぎに行ったものである。
家ではしょっちゅう継母から虐待を受けていた分、目の届かない外でやんちゃばかりしていた。
2年生のときに学校で流行っていた遊びがドッジボールである。
クラスのみんなでチームを作ってやったり、よそのクラスと試合をしたりしていた。
たまにヒートアップして喧嘩になってしまうこともあったが、男の子も女の子も関係なく一緒に遊んだものである。
うちが通っていた井口小学校は、いつでも男の子と女の子が一緒になって遊んでいた。
うちは男の子と女の子が一緒に遊ぶのは当たり前のことだとずっと思っていた。しかし、後に転校する小学校は男の子と女の子は必ず分かれてしまい、一緒に遊ぶということはなかった。
結構うちは女の子に人気があった。
学校でみんなと何かをして遊ぶときは、大体うちが中心になっていた。
指示されたり、命令されたりするのが嫌いなうちは、学校では先生の言うこと以外は聞かなかった。
同じクラスの男の子で、いつもうんちを漏らす子がいた。
最初は誰も気付かなかったのだが、あるとき凄く臭くて、犯人探しが始まった。
みんなで「お前だろう」「お前臭いぞ!!パンツ脱いでみろ!!」とはやし立てる。
犯人はM君。
うんちを漏らして気持ち悪いはずなのに、本人は絶対にしていないと言い張る。しかし、明らかに臭い匂いを発しているのは、M君しかいない。
結局、本人は絶対に違うと言い張るから、最終的にはみんなで先生に
「先生!!M君がうんち漏らしてます!!」
と言われ、M君は先生にトイレに連れて行かれる。
この出来事以来、クラスの男の子の間ではしばらくM君のお尻の匂いを嗅ぐのが流行った。
M君は大体毎日うんちを漏らしていたから、いつも
「先生!!M君がまたうんち漏らしてます!!」
と言われ、毎回先生にトイレに連れて行かれていた。
M君はいつも否定していたが、子供ながらに恥ずかしいなら漏らさなきゃいいのにと思っていたものである。
M君は別に知能遅れだったりしたわけではない。
そういえば、M君の机の中には絶対にパンが入っていた。
井上先生は好き嫌いを許さない先生だったから、多分パンが嫌いなM君はパンを食べたふりして、机に隠していたのであろう。
結局M君はウンコ事件でクラスの中心人物になってしまいパンのこともバレてしまったのである。
一度、M君の家に遊びに行ったことがある。
その時、M君の家の洗面台にうんちが付いたパンツがつけておいてあった。
パンツを発見してしまったうちにM君が行った一言は、言うまでもないだろうが、
「僕じゃないよ」
だった......。
うんちといえば、小学校の頃はなぜか皆、学校のトイレでするのを嫌がった。
臭いとかとバカにされるからだ。
便器にドンとしてあって、流さずに残っていようものならそれだけで大騒ぎである。
そんなある時、催したうちはトイレに行きブリブリ!!とてつもない長さのものが出て嬉しくなってしまい、わざと流さずにそのままにしておいた。
しかし、誰にも気付いてもらえなくて自分から
「でっけえうんこがあるぞ!!」
と言ってみんなに見せたことがあった。
あの時のものは本当に立派なものだった。
2年生になってからよく遊ぶようになった子が、斎藤君だ。
斎藤とは本当に仲が良かったし、斎藤のおじさんとおばさんには色々と助けてもらったり、家族ぐるみで付き合いをしていた。
斎藤のおばさんは、絵を教えていた。うちも毎週水曜日に絵を習っていたが、全然上手く描くことはできなかった。
今でも絵を描くことが一番苦手で、絵を描ける人がとても羨ましく思う。
絵を教わっていたこともあり、おばさんのことは“先生”と呼んでいた。
先生は、非行少年とか、問題のある家庭に関わるような仕事もしていた。
その関係でも斎藤家とは家族ぐるみで付き合いをしていた。
家族ぐるみで付き合うようになったきっかけは、親父と継母の夫婦喧嘩が元である。
夫婦喧嘩の原因は、いつもうちのことだった。
その日が、記念すべき初の夫婦喧嘩だった。
親父は、仕事が休みのときはいつも家でお酒を飲んでいた。その日もやっぱりお酒を飲んでいた。
何がきっかけで喧嘩に発展したのかは知らないが大喧嘩になり、継母は外に逃げてしまった。
親父も継母を追いかけて外へ出ていってしまったがしばらくすると帰ってきて、なぜかうちに「お前の友達のところに行こう」と言いだし、斎藤の家に行くことになった。
なぜ親父がいきなりそんなことを言い出したのかは分からないが、夜だったのに斎藤の家まで親父を連れて行った。
その途中、継母が後ろからついてきてどこへ行くのかと聞いてきたが、うちも親父も何も言わなかった。
こうして家族ぐるみの付き合いが始まったのである。
春休み、夏休み、冬休みは斎藤の家がうちにとってはちょうど都合の良い逃げ場所でもあった。
継母と少しでもいたくなかったうちは、ほとんど毎日斎藤の家に行っていた。そして、斎藤の家で勉強や宿題をやっていた。
先生もうちのそういった事情は知っていたから、いつも裏で助けてもらっていた。
継母に怒られて、
「家に帰ってくるな!!」
と言われたことがあった。その日は家に帰らないで斎藤の家に行った。
ところが、誰もいなくて外で暗くなるまで待っていた。みんなで出かけていたようだったが、待ってると先生が声をかけてくれて家にあがり、継母に帰ってくるなと言われたから家には帰りたくないということを話した。
継母は継母で、うちが暗くなっても家に帰ってこないから大騒ぎして斎藤の家にも連絡をしてきた。
先生は、うちが一緒にいるということを内緒にしてくれて電話を切る。
そして親父の仕事場に電話をして親父にはうちと一緒にいるということを話して、事情を説明してくれて、継母にはそのことを内緒にしておくことと、心配はいらないということを伝えると一度電話を切る。
その間うちは何をしていたかというと、斎藤と遊んだり、夕食を食べさせてもらったりしていた。そして1時間ちょっとすると、先生が継母のところにうちを見つけたと言って連絡をする。
斎藤のおじさんは車を持っていた。
おじさんと斎藤が車でうちを探し、歩いているところを見付けたと継母に話をする。
継母に帰ってくるなと言われたから交番に行こうとしていたところを見付けたと、先生が話してくれる。そして先生と一緒に家に戻る。
継母は家の周りをウロウロしていて、
先生とうちの姿を見ると駆け寄ってきた。その時、初めて継母が泣いている姿を見た。
うちは継母が泣いている姿を見て、内心は愉快で愉快で仕方がなかった。
気分がスッキリしたことを今でもはっきりと覚えている。
普段、継母に虐待を受けていたことを考えるとほんの些細な仕返しである。
怒られて外に追い出されたりすれば、うちはそのまま斎藤の家に逃げていた。その度に、先生がうまく対応をしてくれていた。
何回か同じことをやるうちに、継母もうちには「帰ってくるな」ということを言わなくなったし、外に追い出そうとすることもしなくなった。
力ではかなわなかったうちは、何かをやることによって継母を困らせることをいつも考えていた。
そもそもうちは生まれてから小学校に入るまで自由気ままに朝から晩まで遊んでいたし、ほとんど怒られたこともない生活を送っていたのである。
継母の手におえるはずがないのだ。だから継母は暴力でうちを思うように従わせようとしていたのだろうが、そもそもそこが間違っているのである。
“三つ子の魂百まで”というではないか。継母が来る前のうちの生き方が生き方なのだから、どうこうできるわけがないのだ。
うちに継母なんか不必要だったのである。変に継母なんかがうちのことを何も知りもせずに来たからいけないのである。
親父が再婚などして継母を連れてきたから、少年院や刑務所に入るようなことになったのである。
親父も継母も世間の体裁をすごく気にする。うちが少年院や刑務所に入ったことを、とても恥だと思っている。
そう、うちが少年院や刑務所に入ることで、精神的なダメージを与えることができる。
いわばこれが復讐である。そればかりで入っているわけではないが、奴等にとっては、うちがそういうところへ入るのは耐え難いことであり、恥なのである。
とうのうちはそんなこと何とも思っていないのにである。
もし、継母が来ることさえなかったら、暴力をふるわれることはなかったのである。
学校にはもしかすると、あまり行くことがなかったかもしれないが、継母を恨むほどの傷を心に負うことは絶対になかったのである。
継母なんかが来なかったら、少年院や刑務所にも入るようなことも、のちのち家出をすることもなかったのである。
大人の勝手な事情が、子供に与える影響はものすごく大きいのである。だから今だに親父と継母をものすごく恨んでいる。
もっともっと、滅茶苦茶にしてやりたいと思ってもいる。
よく、親には感謝をしなくてはいけないなどと、偉そうに言うやつがいる。
事情も何も知らないやつが偉そうなことを言ってるんじゃねぇよ!!と思う。
うちは、親なんかに感謝など何一つしていないし出来ない。
子育てもろくにできないやつが、子供のことも考えずに、簡単に離婚をするようなやつが子供を作るなと言いたい。
いつでも子供が大きな犠牲を受けて、傷を受けるのも子供である。
大人にとってはたいしたことじゃなくても、小さな子供にとっては一生傷を負うのである。親父と継母のことは一生死ぬまで許すことはないし、感謝も一切していない。
よく親を亡くしたとき、初めて親のありがたみを知ると一般的には言われているようだが、うちにはそんな日は来ないと思っている。
うちは特殊な家庭環境だったから、一般論は当てはまらないのである。
むしろ、親父も継母もうちに感謝をしてもらいたいくらいである。
なぜなら、殺されずに未だに生きているのだから。
2年生の誕生日に自転車を買ってもらった。それまでは自転車を持っていなかったから友達に借りて乗っていた。
初めて自転車を借りて乗ったときも、練習することなくすんなりと補助輪無しで乗ることができた。
斎藤にもよく自転車を借りていた。
自転車を買ってもらってからは、斎藤とも色んなところに出かけたりした。
斎藤とは家族ぐるみの付き合いをしていたこともあり、バーベキューに行ったり、斎藤の家のベランダでバーベキューをしたりもした。
そんなときの二人の遊びが自転車だった。ただ二人であちこち走り回るだけだったが、それはそれで楽しかった。
うちは、小学校に入学するようになってから、もっというと、継母と一緒に暮らすようになってから、季節に関係なく風邪を引くようになり、体を鍛えるためにスイミングスクールに通わされる
ようになった。
うちが風邪を引いたり、熱を出したりしていたのは、体が弱いから?笑ってしまう。見当違いも良いところである。
なぜならうちが覚えている限り、3歳から小学校に入学するまでの間で、風邪な熱で寝込んだことなど一度もないのである。
原因は、継母以外に考えられない。
継母との生活に重いストレスを感じて風邪を引いたり、熱を出していたのである。
継母さえいなかったら、それまで風邪を引いたことさえないうちがそう簡単に風邪など引くはずがないではないか。
スイミングスクールには2年間通っていたが、バタフライ以外の泳ぎは全てマスターした。
バタフライだけはどうしてもできない。
小学校の3年生になるとクラス替えがあり、うちは二組になった。
斎藤とはクラスが離れて別々になってしまったが、毎週水曜日には必ず斎藤の家に行っていたし、春休み、夏休み、冬休みも行っていたからクラスが別々になっても問題はなかった。
斎藤との関係は引っ越しをする五年生の1学期までは変わらなかったし、引っ越しをしたあとも小学校を卒業するまでは毎週行っていた。
クラスが変わることによって、遊ぶ友達も変わった。
それまでは斎藤と遊ぶことが多かったが、3年生、4年生のときは、五十嵐君とよく遊んだ。
うちはいつも“いがちゃん”と呼んでいた。いがちゃんとのことはもう少し後で述べることにする。
先生も変わった。大久保先生という女の先生で、とても優しい良い先生だった。
3年生のときのうちは自分で言うのも恥ずかしいのだが、クラスの人気者だった。
20分休みや、昼休みはクラスの男の子、女の子から引っ張りだこ状態であった。
流行っていた遊びは“ドロ刑”である(場所によっては“刑ドロ”というところもある)。
2チームに別れて追いかけっこをしていた。
雨の日は外で遊べない。そんなときは、学校の中でドロ刑をしていた。学校内をあっちこっち駆けずり回っていた。
何をするにも、クラスのみんなといっしょにやった。
冬になると学校では、縄跳びをやらされる。縄跳びには級があって、みんなで一緒に練習をしたり、競い合っていた。
うちは好きな女の子が3人いた。友達とも好きな子の話をしたりしていた。
そんなある時、一人の女の子から手紙をもらった。それが初めて女の子からもらったラブレターである。
“吉野ありさ”という子で、その子は誰かからうちが吉野のことを好きだということを聞いたらしい。そしてうちに手紙をくれたのである。
手紙の内容は、吉野もうちのことが好きであるといったことが書かれていた。
うちも返事を書いて渡した。
その後もよく手紙を貰ったり、返事を書いたりしていた。
学校ではいつも一緒にいた。一緒に遊んだりしていた。
席も隣だったから、授業ではお互いに教え合ったりもしていた。
テストのときもお互い分からないところがあったりすると、先生の目を盗んで答えを教え合ったりしていた。
学校が終わると、用事のない日は大体いがちゃんと遊んでいた。
いつもいがちゃんに家に来てもらっていた。
理由は、継母に遊びに行くというと、駄目だと言われるのではないかといつも思っていたからである。
いがちゃんの方から来てもらうことで、確実に遊びに出れる形を取っていた。
いがちゃんとはよく自転車で色々なところに行った。
自転車で右、左、右、左と路地があるたびに曲がり、行き止まりになったりすると戻ってその先の道を曲がり、また同じことを繰り返すという遊びをよくしていた。“阿弥陀サイクリング”である。
出発地点はその日、その日でどこにするか決めていた。
いつも最終的には、二人の知らないところまで行っていた。
大体帰りは迷子になる。そんなときはいつもバスを探して、バスを追いかけていた。
三鷹駅行きのバスさえ見つけてしまえば、知らないところへ行っても全然問題はなかった。生活の知恵(?)である。
夏は井の頭公園に行き、エビを釣ったりして遊んだり、夏休みは朝早くから起きて、カブトムシを捕まえに行ったりしていた。
家の近くには畑や森もたくさんあったから、コオロギ、バッタ、カミキリムシ、カマキリ、カブトムシ、トンボなど色々な昆虫を捕まえることができた。
いがちゃんとうちは、“西部警察”が好きだった。
西部警察に出てくる車が好きで、プラモデルやミニカーも売っていたが、うちは全部持っていた。
プラモデルは、継母の財布からお金を毎日少しづつ、少しづつ盗んで買った。
いがちゃんのお母さんは山形県の出身で、継母と同じだった。
3年生のときだったか、4年生のときだったかは忘れてしまったが、三鷹にも大雪が降ったことがある。
いがちゃんのお母さんは、鎌倉を作ってくれたり、雪でアイスを作ってくれたりした。
継母にそんなことをしてもらったり、教えてもらったことは一度もない。
いがちゃんのお母さんは、雪での遊びを色々と教えてくれた。山形の話もしてもらった。
継母にそういったことをしてもらったことは何もない。親父もそうだった。
例えばテレビを見ていて、分からないことを親父に聞いてもただ一言、
「黙って見てろ」
と言うだけで、教えてくれるということはなかった。
まだ、掛け算の習いたてで、100×100といった計算をまだ知らなかったころ、親父に「100×100は、100だよね?」と聞いたときに言われた一言は「馬鹿か」である。
子供がわからなくて聞いているのに、それはないだろう。
教えてくれたって、バチは当たらないはずだ。
そういうこともできない奴が、偉そうにするなと思う。
家にいるときはテレビを見ながらゴロゴロして酒を飲んで酔っ払って、最低なクソ親父だった。
なんでこんなクソ親父の子供として生まれてきてしまったのかと思う。
そういえば、一つ疑問がある。それは、腹違いの妹のことである。
確か妹は、うちが1年生のときの12月27日に生まれたと思う。
逆算するとまだ結婚していなかったはずである。“できちゃった結婚”なのではないだろうかという疑問である。
もしそうだとしたら、親父も継母もだらしがなかったということではないか。
“できちゃった結婚”で、大迷惑を被ったのはうちだ。
その当時のできちゃった結婚は、かなりの恥さらしではなかっただろうか。
親父の女を見る目は、全然なかったとしか言えない。
1人目は淫乱女!!2人目は暴力女!!こんな家に生まれてきたうちは本当に不運だとしか言えない。
子供の頃のうちは、友達の家族とうちとをいつも比較してみていた。
小学校5年生になるまでうちは、継母だということを知らなかったのである。
自分の本当の(血のつながりのある)母親だと思っていたのである。
その話はまた後ほど。
いつも友達の家と比較しては、友達を羨ましく思っていた。
親父も継母も世間体ばかり気にしていたが、仕事中にてめえのオーナーに“嫁を好きにされていた”なんて話のほうが、よっぽど恥さらしな話ではないか。チャンチャラおかしな話である。
継母にしたって、時代が時代であれば犯罪者(つまりは、うちと何も変わらない)に変わりないのである。
幼児虐待は立派な犯罪である!!
それに、親父も警察沙汰は起こしている。詳しいことは後ほど記すが、本来ならこのときパクられていてもおかしくないことをやらかしている。
継母が訴えていたら、立派な前科者になれたのである。
そういう都合の悪いことは忘れて、人のことばかりよくも偉そうなことを言えたものである。
世間体を気にするなら、うちのことよりも先に、自分の行動を振り返ってもらいたいものである。
都合の悪いことは棚上げして、よく人のことをいけしゃあしゃあと言えたものである。
自分たちは常に正しいと思っているのかもしれないが、大きな勘違いである。
むしろ無抵抗な小さな子どもに向かって、精神的暴力や身体的暴力を振るって何とも思っていないことのほうが卑劣で、非人道的であり、非難されてもおかしくないはずである。
簡単に離婚したり、再婚したり大人はそれで良いかもしれない。しかし、子供の立場からしたら冗談ではない。
子供は何もできない無抵抗者であり、いつの時代も心に深い深い傷を負っている。
それでも、我慢して耐えるしかないのである。
小さな子供は、一人で生きていくことができないのだから。
だから、結婚や離婚を簡単に考えているような奴、子供を傷つけておいて何とも思っていないような奴は、結婚などするものではない。
そういう人間をうちは、とても軽蔑する。
親父と継母はたまにうちのことで夫婦喧嘩をした。
口喧嘩で終わるときもあれば、暴力に発展することもあった。
継母が親父に暴力を振るわれ、
「痛い、痛い!!やめて!!」
なんて大声で叫んでいようものなら嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
心の中で“いいぞ、いいぞ、もっとやれ!!”と思っていた。
継母がうちに向かって、
「おじさんのところに電話して!!」
と言ってうちに助けを求めるが、もちろんそんなものは無視である。
うちだって継母からそれ以上の暴力を受けていた。
ちょっとくらいやられてうちに助けを求めるなどフェアではない。
継母が叫べば叫ぶほどうちの心はとても弾んで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。
親父はお酒を飲んで酔っ払っているから、なかなか止まらないのである。
うちにとっては、夫婦喧嘩は毎日でも起きてほしいくらいだった。
一番大きな夫婦喧嘩は、小学校4年生の夏休みに起きた。
このときの夫婦喧嘩は本当に凄いものであった。
継母は妹を抱いて外に逃げ出し、親父はそれを追いかけて外へ出た。
その直後ものすごい音がした。
継母と妹は外の家を支えている鉄柱に頭を打ち付けられて血だらけになったのである。
継母の血だらけになった姿を見て、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
さすがに、妹は少しかわいそうに思った。
うちは、妹の頭をティッシュでおさえたりしたが、とてつもない血の量で、傷もとてもひどくかち割れたようになっていた。
継母より、妹のほうがひどい怪我を負っていた。きっと、妹を盾にでもしたのであろう。酷い女である。
第一、喧嘩の最中になぜ、妹を抱いて逃げる必要があったのだろうか?
わざわざ寝ていた妹を、抱いて逃げる必要はなかったはずである。
土地狂っていたとしか思えない。
継母がわざわざ妹を抱いて逃げなければ、少なくとも妹は頭をかち割られることはなかったのである。
寝ていた妹をわざわざ抱かずに、一人で逃げ出せばよかったのである。
そう、初めて夫婦喧嘩をしたときのように。
冷静に考えて、子供を抱いてまともに逃げ出せるはずがないではないか。ガキだってわかることである。
救急車がサイレンを鳴らして家の近くに来たのを知ったうちは外に出て、救急車に向かって手を降って合図を送った。
うちはその時、継母に突き飛ばされて、憎々しげな目つきで睨まれた。
その時の形相は本当にすごかった。
土地狂って いたとしか思えない顔つきをしていた。
今でもあの顔はハッキリと覚えている。
恨みのこもった化物みたいな形相をしていた。
救急車に向かって合図を送っていたうちを平気で突き飛ばすのだから、土地狂っている。
夫婦喧嘩の原因はうちも知らない。いかし、お酒を飲んで酔っ払っている親父に喧嘩をふっかけたのは継母である。うちを恨むのは、お門違いも甚だしい。
正直なところ、このときに継母が死んでくれればよかったのにと心の底から思った。それだけが残念である。
この件で警察も来た。
そして警察は、親父を逮捕するはずだった。しかし、継母が警察に親父を逮捕されては困るからやめてほしいと頼んだらしい。
だから親父は逮捕されることも、前科がつくこともなく助かったのである。
うち的には、鉄柱に頭を打ちつけられた継母が出血多量で死亡して、親父がパクられるというのが一番良かったのだが、人生はなかなか思い通りにはならないものである。
この喧嘩のおかげで、うちは一週間斎藤の家に預けられた。
一週間、継母の顔を見ずに過ごすことができた。しかし、それだけである。
それ以来、夫婦喧嘩も暴力まで発展するような大きなものはしなくなってしまった。
せめて離婚だけでもしてもらえたら、邪魔者が一人減り、うちはまたおばあちゃんと一緒に生活をできたのである。
多分離婚をしなかったのは、妹がいたからではないかと思う。うちのときとは、大違いである。
ちょっと話がそれてしまうが、昔こんな話を聞いたことがある。
それは、アメリカの話である。
アメリカの刑務所では、殺人や強盗、傷害といった事件を起こした人は、レベルの低い低能者が犯す犯罪であり、誰からも相手にされない。
日本はその逆で、殺人や強盗といった犯罪を起こして刑務所に入った人は一目置かれる。
アメリカでは、詐欺事件など頭を使った犯罪を侵した人は、英雄扱いされる。バカには絶対に考えつかないからである。
しかし日本はその逆で、詐欺犯では箔が付かないと見なされるようである。
そう、親父と継母は、アメリカ流で行くと、暴力でしか物事を解決できない低脳者!!つまり、早い話が“バカ”ということである。
考えてみたら、映画やテレビ、アニメの世界でも、ルパン三世やキャッツアイ、ねずみ小僧はヒーローであり、英雄扱いされているが、刑事ものや戦争ものなどは、最終的には悪党は殺されているではないか。
親父と継母は後者。うちは前者。
うちのほうがランク、レベル(?)的には上なのである。
だから本来、親父と継母はうちに敬意を払わなくてはならないのである。
そして、うちが子供だったときのうちの扱い方について、深く深く反省し、後悔をしながら地獄へ旅立たなくてはいけないのである。
畜生道と餓鬼道を半年ごとに彷徨い、深く深く反省をした頃、天国からうちが慈悲の心を持って蜘蛛の糸を垂らしてあげよう。
200年くらい先のことになるとは思うが……。
針山地獄や血の池地獄なんかも、親父と継母には似合っているかもしれない。
もう200年くらいプラスしないと、200年では短すぎるかもしれない。
親父と継母がしてきたことは、決して軽くない。
3年生の夏休みに、継母の実家がある山形県のの酒田市に行った。
酒田には、おばあちゃんが一人で住んでいた。
家のすぐ裏は海で、天気が良ければ毎日海に行って泳いだ。
このときは、継母の兄弟姉妹が揃い、3家族が集まった。
この年は、群馬県にジャンボ機が墜落した年で、このニュースはうちも酒田で見た。
三重と栃木は大好きだったが、酒田はあまり好きではなかった。
田舎ではあったが、どうも田舎としてもあまりピンとこなかった。
うちにとっての田舎とは、山と川、そして田んぼと畑があるところであって海ではない。
継母の実家ということも、大きな理由だったと思う。
生理的に受け付けなかった。
おばあちゃんのこともあまり好きではなかった。
海で泳げばクラゲに刺されるし、防波堤で釣りをすれば竿を海の中に落としてしまうし、嫌な思い出しかない。
3年生のときの担任、大久保先生は、4年生も本来なら受け持ちになるはずだったが、1年しかお世話になっていない。
学校を辞めてしまったからである。
4年生のときの担任の先生は金子先生と言って、初めて男の先生になった。
金子先生は話がとても上手な先生で、社会の授業などのとき、色々な話をしてくれた。
先生は普段、メガネをしていたが、話が長くなるときは必ず決まってメガネを外す。
先生がメガネを外すと、今日はどんな話をしてくれるのだろう?と思い、ワクワクしながら先生の話を聞いたものである。
金子先生は初老に近い先生だったが、元気で凄く助平な先生でもあった。
忘れ物をしたり、宿題を忘れると、1列に整列させられるのだが、男の場合はげんこつ一発で終わる。
しかし、女の子の場合椅子に座り、女の子に足を絡めてニタニタと笑いながら、お尻や太ももを撫で回したりする。
うちはいつもそれを友達と見て、「始まった、始まった」
と言って笑いながら見ていた。
金子先生はきっとロリコンで、少女が好きだったのではないかと思う。
そんな先生ではあったが、うちは好きな先生の一人だった。
4年生になって悲しい出来事が二回起こった。
三重のおばあちゃんが倒れて、病院に入院をしたのである。
親父の兄貴(親父は三人兄弟だった)、おばさん、従姉妹とうちの家族とで学校を休んで三重に行った。
おばあちゃんは食欲もなくて、食事もあまり食べていなかったようである。
うちはおばあちゃんに、学校の授業のときに作った鈴をあげた。
うちがおばあちゃんにあげた最初で最後のプレゼントである。
この年、おばあちゃんが亡くなった。
おばあちゃんが亡くなった日は12月27日で、妹の生まれた日である。
亡くなった時間も、妹が生まれた時間とほぼ同じ時間に亡くなった。
継母は、
「おばあちゃんに恨まれていたんだ」
と言っていた。
きっとおばあちゃんは、うちが継母にひどい仕打ちを受けていたことを分かっていたのではないかと思う。
しかし、継母もよくそんなことをうちのいる前でぬけぬけと言えたものである。
常識のかけらもない言葉である。
子供はそういった自分がやられた仕打ちや、大切な人を傷つけるような言葉を一生忘れないのである。
大人はそういうことを、しっかりと肝に銘じるべきである。
子供の小さな心は、そういう大人の良識のない一言一言で傷付いているのである。
てめえがやられたときだけ、ピーピーピーピー喚くなと言いたい。
うちはそれ以上のことを毎日のようにやられていた。
恥をしれ!!と言いたい。
三重のお葬式は土葬だった。しかもそこの風習で、死者が暴れださないようにということで、縛ってから棺に入れるのだが、それがとてもかわいそうだった。
そうしてから、お墓まで皆で棺を担いだりして向かう。
うちは、おばあちゃんが天国で使う杖を持って歩いた。
きっと天国で、その杖を使ってくれていることと思う。
こうして、おばあちゃんとさようならをした。一人のおばさんに、
「もう、おばあちゃんと会えないね」
と言われたのを覚えている。
とても悲しかった。
おばあちゃんとの最後のお別れの日、うちは泣かなかった。しかし、三鷹に戻ってから、布団の中で位牌を見ていたら寂しくなってしまい、声を押し殺して泣いた。
本当に悲しかった。
4年生の頃から友達と釣りの話をしたり、友達同士で釣りに行く計画を立てたりした。
しかし、友達同士で釣りに行ったのはたったの一回だけである。
いつも計画を立てても継母に反対されて、行くことができなかったのである。
それでも、いがちゃんとは年中、井の頭公園公園の行けに行ったり、多摩川に行ったりしていた。
要するに、言わなければ近くで遊んでいると思っていた継母である。
まさか、自転車で1時間以上もかかるところまで行って遊んでいたなどとは思っていない。
要するに、バレなければ良かったのである。
それは、うちの最も得意とする分野であった。
4年生のとき、うちは友達とKという子をいじめていた。
休み時間になると、使われていない教室にKを呼び出し、プロレス技をかけたり、殴る蹴るの暴力を振るっていた。
まるで継母にやられていたことを、そのままKにするような感じであった。
自習で先生が来なかったりすると鉛筆を全部折ったり、鉛筆削りで短くなって使えなくなるまで鉛筆を削ったり、鉛筆を削ったカスを頭にかけたりしてKをいじめていた。
それが原因で、吉野に嫌われてしまった。
最終的には思い切り蹴飛ばして、机の角に頭を打ち付け、病院に運ばれるほどの大怪我を負わせてしまった。
このときは流石にまずいことをしたと子供ながらにも思い、反省し、自分からKの家に謝りに行った。
うちも、継母にやられていた暴力を、クラスメイトにやってしまったのである。
最低なことをしてしまったと思う。
虐待を受けて育った子は大人になると、あれだけ憎んでいた暴力を自分の子供にもやると言われている。
なぜなのかは分からないが、うちはそれをクラスメイトに向けてやってしまった。恐ろしい話である。
どんなことがあろうと、子供には暴力を振るいたくないと思っている。
小学校5年生になるとクラス替えとなり、1組になった。
先生は男の先生で、秋山先生という先生だった。
秋山先生は若い先生で、放課後はいつもみんなとレクリエーションに楽しんで参加してくれる先生だった。
4年生のときはあまり女の子と遊ぶということはなかったが、5年生のときは毎日のように放課後になると、校庭て、女の子たちとも一緒になって遊んだ。
5年生になると、委員会に入らなくてはならない
うちは放送委員会を希望した。
しかし、放送委員会はとても人気があり、じゃんけんで決めることになった。
じゃんけんの結果うちは……見事放送委員になれた。とても嬉しかった。
放送委員の仕事は、朝一からある。
音楽を流したり、朝礼で使うマイクの用意をしたり、昼食時間は音楽や物語が録音されたカセットテープを流したり、放課後の放送を流したりと、仕事はたくさんあった。
放送を流すときは、放送室に行く。
マイクで放送をしたりするのがとても楽しかった。
放送委員の担当の先生は、4年生のときの担任だった金子先生で、毎日先生のところに行き、放課後の放送を何時に流せばよいかを聞いた。
時間が来ると音楽を流し、マイクで
「放課後の時間になりました。また、明日も元気に投稿しましょう。今日の担当は、唯、山本(同じクラスの友達)でした」
と言って、1日の放送が終わる。
この放送の声は、斎藤の家まで聞こえていたらしい。先生が言っていた。
放送委員は朝一番に学校に行き、最後まで学校に残れたから、ちょっとでも長く家にいたくなかったうちにとっては、とても都合の良い仕事だった。
5年生のときに、一人の女の子が転校してきた。Sさんという。
とても大人しい女の子だった。
うちは色々と話しかけたりするのだが、それがエスカレートしてしまい、最終的にはその子を口でいじめていた。
うち的には、もっと明るくなってもらおうとしてやったことが、結果的にはその子を精神的に追い詰めていたのである。
「お前、暗すぎるんだよ!!もっと明るくしろ!!」
「お前と一緒にいるとこっちまで暗くなるじゃないか!!」
「飯を食べるときは大きな声で“あっ”ていってからパク、“いっ”ていってからパクと食え」
などと毎日ひどいことを言って、傷付けていたのである。
言葉の暴力というものを知らなかったうちは、暴力を振るわなければ、それはいじめにならないと思っていたのである。
しかし、力の暴力より言葉の暴力のほうが、人は傷をつくのだということを後になって知ったのである。
Sさんはうちのいじめが原因で、学校を休んでしまった。
うちは秋山先生に呼び出され、Sさんの家に誤りに行くことになった。
学校が終わってから一度家に帰り、Sさんの家に行った。
Sさんの家に行くと、Sさんの友達(クラスメイト)の女の子もいた。うちはSさんに謝り、二度とやらないと約束をした。
そして誤ったあとみんなと遊んでから、家に帰った。
あのとき二度とやらないと約束をしたのに、またやらかしている。
やった内容は違えど、Sさんからしたら同じことだったのであろう。
2回目のとき、自分ではそれほど大したことを言ったつもりはなくても、相手によってはひどく傷つくのだと知った。
このあと、夏休みに入りうちは転校をしてしまい、Sさんには会っていない。
しかし今でもたまに、Sさんのことを思い出すときがある。
うちが転校したあと学校に行ってくれてたのか、あのときの心の傷をまだ背負っていないだろうかと。
Sさんひどく傷つけていたことを、今でも後悔している。あのときのことを、Sさんにもう一度謝りたい。
5年生のときに、斎藤の家に行ったとき、先生から継母の話を聞いた。
このとき初めてうちは、母親が継母だと知り、怒りを覚えた(もしかすると、6年生のときだったかもしれない)。
うちはそれまでずっと、本当の母親だと思っていたからだ。
なんで本当の母親でもないやつに殴られたり、蹴飛ばされたり、怒られたりしなきゃいけないのかという気持ちでいっぱいであった。
そのことを知ったうちは、親父に生みの母親に会いたいといった。
先生と親父は母親の居場所を探して、どこに住んでいるかを調べた。
しかし、親父はうちを生みの親には合わせたくないの一点張りで、なぜ合わせたくないのか、理由は一言も教えてくれなかった。
「お前が会いに行くなら二度とうちには戻ってくるな」
とか、
「会いに行くなら二度と敷居をまたがせない」
などと言われた。
そんなに合わせるのが嫌なら、そもそもなぜ、先生にその話をしたのかと思う。
親父が話をしたのか、継母が話をしたのかは分からないが、そんな話がうちの耳に入らないとでも思っていたのだろうか。
それとも、そういう話をしても、うちがそんなことを言い出すとは思っていなかったのであろうか。
考えが甘すぎる。
理由も何もいいもせず、合わせたくないなどと、卑怯そのものである!!
「お前がまだ小さかったときに、俺が仕事に行っていた間に、俺のオーナーと浮気をしてたんだ。だから会ってほしくない」
と男らしく言えば良いではないか。
いくら格好つけても、それが事実なのだから。
格好つけるところを勘違いするのも甚だしい。
それができないなら、そんな話を最初から先生にしなければ良いのである。本当に情けのない男である。
結局この話は、うちが諦めるという形で終わった。
毎日、毎日親父と継母に、
「母親のところに行って知らない人の子供がいても良いのか」
「お前の知らない人と結婚していてもよいのか」
「こっちのお母さんより怖い人でもよいのか」
などとうちが嫌になりそうなことばかり言ってくるのである。
卑怯で卑劣なやり口である。
てめえらのことしか考えていない。子供の気持ちを全く無視したやり口である。
こんな情けない女々しい野郎だから、てめえのオーナーに嫁をつまみ食いされるのである!!
男としての器量がまったくなかったから、つまみ食いなんかされるのである!!
大人の勝手な事情は、子供には全く関係のない話ではないか!!そこを一緒にしてもらいたくないものである。
それ以来、母親の話をすることは一度もない。
しかし、うちはそれ以後母親に怒られるたびに、“何でこんなおばさんに怒られたり、殴られたりしなきゃならないんだ”と、反発心しかなかった。
早く二人とも死んでくれないかと、いつも思っていた。
うちは、小学校と中学校時代は身長も低く、いつも前の方に並んでいたし、体も小さかった。
もし、体も大きくて力もあったら、継母か親父を殺していたかもしれない。
実際、中学生のころ、寝てる親父を包丁で刺殺してやろうと何度か考えたことがあった。
しかし、血が苦手だったうちは、刺した後の血を見るのが嫌だった。
もっというと、血を見るのが怖かった。だから、やれなかったのである。
それさえなかったら、中学1年生のときに親父はとっくにうちに刺されて死んでいる。
その時うちは12歳だったし、まだ少年法も全然ゆるい時代だった。
血さえ克服できていたら、間違いなく親父を殺していた。
うちが血を見ることが苦手だったことを、感謝したほうが良い。
ちなみに今は、克服している。
夏休みが終わる頃に引っ越しをした。理由は、うちがあっちこっちで継母のことを本当の母親じゃないと言いふらし、住みづらくなったからと継母はうちに言った。
しかし、うちはそんなことを言いふらした覚えはない。
継母の被害妄想である。子供のせいにして、引っ越しをするなど情けのない話ではないか。呆れてしまう。
虐待をしてたことを恥ずかしがるならわかるが、理由はそっちかよ!!
被害妄想になるくらいなら、先生にも話をしなければ良かったのである。
もっと言うなら、最初から親父と結婚などしなければ良かったのである!!
そこまでの覚悟がなくて、結婚などするのがいけないのだ!!
うちは、母親など一度も求めたことなどない。母親、否暴力女などうちには不必要だったのである。
こんなことになるくらいなら、ずっと三重で生活をしていたかった。おばあちゃんと、ずっと暮らしていたかった。
そうしていたら、おじさんもおばあちゃんも、あんなに早く亡くなることはなかったのである!!
親父と継母が、おじさんとおばあちゃんを殺したと言っても過言ではない。
親父と継母のことは、恨んでも、恨んでも、恨みきれない。憎んでも、憎んでも、憎みきれない。八つ裂きにしてやりたいものである。
うちがどれだけ恨んでいるかを知らしめしてやりたい。
だから今回自伝を投稿しようと思ったのである。
子供も小さいながらに、こういうことを考えているのだということを知らしめしてやりたかったのである。
全国の子供を持つ親に、自分の子供を平気で殺すような野郎に、幼児虐待をなんとも思っていない最低な野郎に、DVをなんとも思っていない野郎に、子供の心の叫びを知らしめしてやりたい。
子供は親を選べないのである。
全国の最低最悪、手の施しようのない馬鹿者たちよ!!
子供に責任はない。子供を傷つけるな!!と、声を大にして言いたい。
責任を持てないやつが、子供を作る資格などない。
子供を守れないやつが、家庭など持ってはいけない。
だからうちは、KとSさんをいじめてしまったこと、心に深い傷を負わせてしまったことを、今でも後悔している。
取り返しのつかないことをしてしまったと思っている。
自分勝手かもしれないが、二人があのときの傷を癒やしてくれてればと思う。
三鷹から田無に引っ越しをした。
引っ越しをするちょっと前に、先生がコミュニティーセンターでお別れ会を開いてくれた。
そもそも、うちは引っ越しなどしたくなかった。
ずっと三鷹で過ごしたかったのに、継母の“被害妄想”のせいで、引っ越すことになってしまったのだ。
しかも、田無で知り合った人には、てめえの方から継母でうちとは血のつながりがないと話しをしている。
だったら田無なんかにわざわざ引っ越す必要なんてないだろう!!と腹立たしく思った。
「血が繋がってなくても、お母さんはよくやってくれてるじゃない。感謝しないとね」
なんて言われたことがあった。
そういうことを言ってもらいたくて、ペラペラ自分の良いように話をしていたのであろう。
汚いクソババアである。そうやって、味方を作っていたのである。
やっていることがとても醜い。
そこまでして、自分を良く見せたかったのかと思う。
学校は、芝久保小学校というところに転校した。
うちの他に一人、女の子も転校してきた。
井口小学校と芝久保小学校とでは、大きく変わったところが1つある。
それは、井口小学校では、休み時間や体育、放課後など何をやるにしても女の子も一緒に混じってやるのが当たり前だったし、女の子と話をしたりするのも、みんな普通にやっていた。
しかし、芝久保小学校はいつも男の子と女の子がバラバラに別れて、女の子と一緒に何かをするということがなかった。
ちょっとでも学校の中で女の子と話をしようものなら“女たらし”なんて言われて冷やかしを受ける。
最初のころこの学校は、随分と珍しい学校だなと思った。
そしてあまり好きになれなかった。
この頃流行っていた遊びは、テレビゲーム。
友達の家に行ってもみんなファミコンに夢中で、外で遊ぶことがなくなってしまった。
うちも従兄弟のおばさんに、ファミコンを買ってもらった。
この頃の遊びといえば、ファミコンであった。
釣りが好きだったうちは、電車で三駅行ったところに東伏見という駅があって、そこから徒歩二分くらいのところにある関公園に釣りに行くようになった。
関公園には、大きな池があり、ボート乗り場もあった。
鯉が放流されていて、たまに友達と鯉を釣りに行くこともあった。
家から自転車で行っても30分くらいのところだったから、自転車で行くことのほうが多かった。
関公園の鯉は“バカでもチョンでも釣れる”なんて言われるくらい、簡単に釣れる。
30cm級の鯉が、1日で50匹くらい釣れてしまう。
いつ行っても、年金ぐらしをしているような人達がたくさんいる池であった。
芝久保小学校でのクラスは1組で、担任の先生は石橋先生という男の先生で、この先生は怒るときは、
「歯を食いしばれ」
と言って、ビンタをする先生だった。
うちも一回だけやられたことがある。
田無に引っ越しをしたあとも、斎藤の家には毎週一回は行っていた。
行けば、元クラスメイトとも遊べたし、合うこともできた。
そのたびに、やっぱり井口のほうが全然良いなと思ったものである。
田無なんかに引っ越す必要なと、全くなかったと今でも思っている。
継母だけ一人で好きなところに行けば良かったのである。
6年生の思い出が、なぜかあまりない。
大きな思い出といえば、移動教室に行ったことくらいである。
2泊3日で、菅平に行った。
1泊目の朝は、いつもより早い時間に集合場所に集まり、バスに乗っていった。
キャンプファイヤーや、肝試しをやった。
肝試しは、男女でペアを組み、指定されたところを一緒に進んだ。
女の子はとても怖がっていたが、ちょっとした山道を歩くだけで、たいして怖くもなかった。
夜は女の子の部屋に行き、怪談話で盛り上がったが、うちはこっちのほうが怖かった。
2日目は朝から雨が振り、予定していた山登りに行けなかった。
本当はこれが一番の楽しみだったのだが、残念である。
午後は、憎たらしいくらいに晴れた。
4人一組で男女のグループを作り、地図をもらって地点ごとにカードが置いてあり、コンパスを使ってその地点を探すのだが、結局みんな先頭にくっついて歩くから、コンパスの意味は全く無かった。
うちはずっと女の子と喋っていたから、「女たらし」などと言ってからかわれたが、無視をしていた。
そんなことを言われて気にするほど肝は小さくなかった。
全く気にすることなく、女の子と喋りながら歩いていた。
逆に、女の子と話も出来ないなんて随分と可愛そうなやつだなと思った。
三鷹だったら、こんな小さなことを気にするような男の子はいなかった。
きっと、井口小学校の移動教室のほうが楽しかったんだろうなと思った。
田無に移ってから、井口小学校と芝久保小学校を比較してみることが多くなったと思う。
もちろん、軍配はいつも井口小学校に上がったことは言うまでもない。
ここでもやっぱり思うことは、大人の勝手な事情で、転校など軽々しくしてはいけないということである。
長年一緒に過ごした友達をなくす。
新しい環境に変わるというのは、子供にとって大きなストレスになるのである。
きっとSさんもそうだったのではないかと思う。そう考えると、新しい環境に変わって、戸惑っていたであろうSさんをいじめてしまったのは、最低だったとつくづく思う。
Sさん、ごめんなさい。
Sさんを、凄く傷つけて、本当に本当にごめんなさい。
Sさんのことが一番心残りである。
移動教室で一番天気になったのは、3日目の帰る日だった。
この日は牧場に行き、最後に川に行って自由行動となり、みんなで川遊びをして楽しんだ。
3日感は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
田無に引っ越しをしてから、あんまり友達との思い出がない。
釣りに何度か行ったことがあるくらいで、外で遊ぶことがなくなって、ゲームばかりやるようになったからだと思う。
うちは、同窓会をしたことがない。
もし、今後参加をするような機会があったとしたら、井口小学校で共に学んだ友達と再開したい。
そのときには、Sさんにあのときのことをしっかりと謝りたい。
親父や継母にとっては、どこに引っ越しをしようが、どこに住もうが全く関係のないことだったのかもしれない。
しかし、うちにとっては田無に引っ越したというのは、大きく環境が変わり失敗だったと思っている。
住むところは、とても大事だと思う。
後に記すが、うちは16歳で家を出て、それから東京には戻っていない(少年院を出たときは親父に引き取られたから一度戻っている)。
正確に言うと、30代のときに二度だけ板橋に仕事上住んだが、東京はうちの肌に合わない。
東京は、うちにとっては嫌な思い出しかなく、一番行きたくない街ワースト1であり、住みたくない街ワースト1であり、遊びに行きたくない街ワースト1である。
うちには、山に囲まれた田舎があっている。
そういうところで、のんびりと暮らすほうが合っている。
子供の頃に良い思い出が一つもなかったからだろうが、東京は大嫌いである。
東京に住むくらいなら、刑務所に入ってるほうがまだ良いと思うくらい(今はそうは思っていないが)、東京は大嫌いである。
一部例外はある。東京でも、青梅、奥多摩、檜原村は大好きなところで、今うちが一番住みたい街である。
そう、青梅、奥多摩、檜原村にはうちの大好きな山や川、自然がたくさんあるからだ。
コンクリートジャングルなんかより、最高である。
人間は、自然の中で生きるのが良いのである。
大昔のように、自然と共に生活を送れば良いのである。
それが最も人間らしい生き方だと思う。
都会は、大人や子供を駄目にするのである。
事件を見たってそうではないか。必ず事件が起きるのは都会だ。
自然に囲まれたようなところで、大きな事件など聞いたこともない。
都会は人間を狂わすのである!!
もし、うちが新宿で生まれず、三重で生まれて、三重で育てられていたとしたら、もう少し違った人生を歩めたのではないかと思う。
三重で育てられなかったとしても、親父が再婚などしなければ良かったのである。
応援ありがとうございます!
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