1 / 33
プロローグ
「エルゼ・フォン・ブラウベルト! 貴様との婚約を破棄する! 私は真実の愛、聖女ミリアを見つけたのだ!」
建国記念祭を祝う王城の大広間。
数百人の貴族が見守るなか、シャンデリアの輝きに負けないほど自信満々な表情で、王太子アルフォンスが叫んだ。
彼の隣には、桃色の髪をなびかせ、いかにも「守ってあげたくなる弱き乙女」を演じている自称・聖女のミリアが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて寄り添っている。
周囲の貴族たちから、さざ波のような私語が漏れる。
哀れみ、嘲笑、そして「ついに来たか」という好奇の視線。
私、エルゼ・フォン・ブラウベルト公爵令嬢は、持っていた扇子をゆっくりと閉じ、優雅に一礼した。
「左様でございますか。殿下、そのご決断は、アルフォンス・ド・グランゼール王太子としての公式な決定と受け取ってよろしいですね?」
「ふん、今さら命乞いか? 見苦しいぞ! ミリアこそが、この国の真の太陽。政略結婚で結ばれた、氷のように冷徹なお前など、王妃の座に相応しくない!」
「命乞いなどと。ただ、手続き上の確認が必要なだけです。……セバス、例のものを」
私が合図を送ると、背後に控えていた初老の執事セバスが、重厚な革張りの書類鞄から、魔導インクで署名された分厚い束を取り出した。
「殿下。婚約とは、家格を維持し、国を安定させるための『相互扶助契約』です。それが破棄された以上、この10年間に我が公爵家が提供してきた『支援』は、全て遡及して無効となります。……事務手続きに移らせていただきますね」
「何を……事務手続きだと?」
アルフォンスが鼻で笑う。
私は彼を無視し、指先を小さく振った。空中投影魔法が発動し、大広間の空壁に巨大なグラフと数字が浮かび上がる。
「まずはこちらをご覧ください。過去10年、我がブラウベルト公爵家が王家に無利子・無担保で融資してきた『特別軍事維持費』『王都インフラ整備費』、および『王族遊興費代補填分』の総計です」
投影された数字の末尾には、ゼロがいくつも並んでいる。
「総計、金貨1億5800万枚。内訳として、殿下がミリア様に贈られた『女神の涙』を含む宝石類12点、総額金貨800万枚。連日の夜会にかかった食費と人件費、計金貨2200万枚。……さらに、現在この城を維持している魔導回路の触媒代、過去3年分が未払いでございます」
会場の貴族たちの顔から血の気が引いていく。
当然だ。彼らがこの10年、贅沢三昧できたのは、私の実家である公爵家が「未来の王妃の実家」として、国家予算の半分近くを肩代わりしてきたからなのだから。
「なっ……なんだその数字は! そんなもの、私が許可した覚えはないぞ!」
「いいえ、全て殿下と国王陛下の署名入りです。契約書第8条『婚約が一方的に解消された場合、乙(王家)は甲(公爵家)に対し、過去の全融資額を法定利息5%を上乗せして一括返済する』。……殿下、今この場でお支払いいただけますか?」
「ふ、ふざけるな! そんな大金、一朝一夕で用意できるはずがないだろう!」
「でしょうね。ですから、契約書第12条に基づき、即座に『担保権』を行使させていただきます」
私は再びパチンと指を鳴らした。
その瞬間、大広間の天井を彩っていた魔導灯が瞬き、完全に消灯した。
「きゃあああ!? 暗い! 何事!?」
ミリアが悲鳴を上げる。
非常用の燭台が慌てて灯されるなか、私は冷徹に告げた。
「王都の魔力供給システム、および上水道の管理権は、我が家の私有財産です。今、供給をストップしました。あ、ご安心ください。貧民街や病院などの公共施設は予備電力で維持しますが、王城と貴族街への供給は、たった今完全に遮断いたしました」
「エルゼ……貴様、正気か!? 城を闇に包むなど、大逆罪だぞ!」
「大逆? いいえ、これは正当な権利の行使です。対価を払わない者にサービスを提供する義理はありませんわ。殿下、真実の愛があれば、魔法の光など不要でしょう? 愛の温もりで夜を明かしてはいかがかしら」
暗闇の中、ミリアが震えながら口を開く。
「ひ、ひどいわ! 聖女である私が祈れば、神様が光をくださるはずよ!」
「ああ、ミリア様。ぜひお願いします。ついでに、王都の食料搬入路である『ブラウベルト運河』の封鎖も解いていただけますか? あそこ、我が家の領地を通らないと船が入ってこられないんですよ。明日の朝から、王都の市場に並ぶ小麦はゼロになりますが、聖女様の祈りでパンが増えるのを民衆も期待していることでしょう」
ミリアの顔が、非常用の火に照らされて真っ青になる。
彼女には聖なる魔力など微塵もない。ただの「少し魔力が高いだけの娘」であることを、私は調査済みだ。
「さあ、殿下。返済の意志がないと見なし、差し押さえを続けます。セバス」
「はい、お嬢様。……アルフォンス殿下、失礼いたします」
セバスと二人の騎士が、アルフォンスの左右を固めた。
「なっ、何をする! 私に触れるな!」
「殿下がお召しのその『金糸の礼服』。そしてその『竜革の靴』。これらは我が家の工房が、将来の夫のために特注した非売品です。所有権は我が家にあります。……今すぐ脱いで、お返しください」
「な……ここで、脱げというのか!?」
「はい。さもなくば、窃盗罪としてその場でお引き摺りいたしますが?」
王太子は屈辱に顔を歪めながら、衆人環視の中で靴を脱ぎ、上着を剥ぎ取られた。
靴下姿で立ち尽くす王太子。その姿に、さっきまでの威厳はどこにもない。
「あ、ミリア様も。そのドレス、我が家が支援している絹織物ギルドの最高級品ですわ。それから、その首飾りも。……身に付ける資格のない方に貸し出せるほど、我が家は寛容ではありませんの」
「や、やめて! 来ないで!」
ミリアが必死にドレスを抑えるが、無情にも騎士たちが宝飾品を回収していく。
結局、彼女は薄汚れたシュミーズ一枚になり、床にへたり込んだ。
「これでおしまいです。ああ、最後にお知らせが」
私は扉へと向かいながら、振り返って微笑んだ。
「王家が抱えたこの1億5800万枚の債権、先ほど『隣国の帝国』へ譲渡することを決定いたしました。帝国皇帝陛下からは、債権と引き換えに私を『財務卿』として迎えたいと、直々に熱烈な招待状をいただいておりますの」
会場に衝撃が走る。
この国の債権を帝国が握る。それは、この国が実質的に帝国の支配下に入ることを意味する。
「ま、待て! エルゼ、私が悪かった! 婚約破棄は取り消しだ! お前が必要なんだ!」
裸足のアルフォンスが、無様に這いずりながら私の靴を掴もうとする。
私はそれを、汚いものを見るような目で見下ろした。
「殿下、勘違いしないでください。私は『氷の令嬢』ではなく、ただの『有能な経営者』なのです。不採算部門を切り捨て、優良な投資先へ乗り換えるのは、商売の基本でしょう?」
私はセバスから差し出された、白真珠が埋め込まれた新しい扇子を広げた。
「ゴミの分別は、淑女の嗜みですわ。……さようなら、無能な元婚約者様。暗い城の中で、せいぜい『真実の愛』とやらを噛み締めてください」
私は一度も振り返ることなく、豪奢な扉を押し開けた。
城の外には、帝国の皇帝が差し向けてくれた、豪奢な飛空艇が待っている。
夜空には満月。
これから始まる帝国での生活に、私は胸を躍らせる。
数字は裏切らない。そして、私の価値を正しく評価できない男に、これ以上費やす時間は一秒たりとも残っていないのだ。
(完)
あなたにおすすめの小説
落第貴族だった俺を見捨てた元家庭教師が、後に“本当の価値”を知って後悔することになる
まさき
恋愛
王立学院で、俺は「落第貴族」と呼ばれていた。
魔力も才能もなく、家柄だけで在籍している出来損ない。
そんな俺に唯一、真剣に向き合ってくれた人がいた。
年上の家庭教師であり、宮廷魔導士でもある女性。
彼女だけは、俺を否定しなかった。
声は優しく、距離は近く、気づけばそれが救いになっていた。
やがて、指導という名目の時間は変わっていく。
会話は増え、距離は縮まり、夏の祭りの夜——
俺たちは、一線を越えてしまった。
それが正しいのかどうか、考える余裕もなかった。
だがその後、彼女は静かに俺から離れていく。
「立場が違う」「これ以上は続けられない」
そう言い残して。
残されたのは、何も持たない俺だけだった。
しかし——それは始まりに過ぎなかった。
学院の評価は一変し、
誰も知らなかった俺の“本当の価値”が明らかになっていく。
そして気づいた時には遅かった。
かつて俺を見捨てた彼女だけが、
失ったものの大きさに気づき始めていた。
これは、
捨てられた落第貴族が、すべてを逆転させる物語。
もう二度と、あなたの傷を引き受けません ~死に戻った治癒師伯爵夫人は、冷血公爵の最愛になる~
ゆぷしろん
恋愛
傷を癒やすたび、自分が同じ傷を負う――そんな代償つきの治癒魔法を持つ伯爵夫人セレフィナは、夫を救い続けた末に裏切られ、罪を着せられて処刑される。
しかし死の直前、「もう二度と、あなたの傷は引き受けない」と誓った瞬間、彼女は夫の凱旋祝賀会の日へ死に戻っていた。
今度こそ搾取されるだけの人生を捨てると決めたセレフィナは、夫との治癒契約を破棄し、離縁を宣言。そんな彼女に手を差し伸べたのは、“冷血公爵”と恐れられるディートハルトだった。
彼が求めたのは命を削る奇跡ではなく、治癒師としての知識と才能。北辺境で広がる奇病を調査する中で、セレフィナは研究者として認められ、本当の居場所と誠実な愛を見つけていく。
搾取の愛を捨てた治癒師伯爵夫人が、自分の人生を取り戻し、冷血公爵の最愛になる死に戻り逆転ロマンス。
離縁を望んだ私に、旦那様の執着が始まりました
なつめ
恋愛
四年続いた、形だけの結婚。
公爵夫人レヴェティアは、夫ゼルフェインから一度も愛を告げられず、ただ静かな屋敷の中で“都合のいい妻”として扱われてきた。
冷たい夫。
消えていく手紙。
義家からの軽視。
そして、公爵には昔から想う女がいるという噂。
もう十分だと悟った朝、レヴェティアは離縁状を差し出す。
これで終わるはずだった。自分がいなくなれば、夫はようやく望む人生を選べるはずだった。
けれど、その日から様子がおかしくなったのは、無関心だったはずの旦那様のほうだった。
食事の席で視線を外さない。
屋敷の移動先を勝手に潰す。
社交の場では手を離さない。
今さら知ったような顔で、彼女の四年間を奪った者たちを一人ずつ叩き潰していく。
「出ていくつもりなら、なぜ俺の知らない顔をそんなに増やした」
これは、終わらせるために差し出した離縁状から始まる、
遅すぎた恋と、寡黙な公爵の重すぎる執愛のやり直し婚。
亡き姉の身代わりとして嫁いだ私ですが、離縁状を置いた翌朝、夫が私の「真実」に気づいたようです』
まさき
恋愛
「サインはもう、いただきました。あとは私がこの屋敷を出るだけです」
五年間の結婚生活。侯爵令嬢エルゼが演じ続けたのは、亡き姉・ロザリーの「身代わり」という配役だった。
夫であるカイル公爵が愛していたのは、かつて雪の中で自分を救ってくれた初恋の少女・ロザリー。
生き写しの妹であるエルゼを娶りながらも、彼は一度も彼女を「エルゼ」と呼ぶことはなかった。
冷淡な視線、姉と比較される日々。
「君はどこまでいっても、ロザリーの代わりにはなれない」
その言葉を最後に、エルゼは静かに離縁状を置き、屋敷を去る決意をする。
しかし、彼女が消えた翌朝。
カイルは、エルゼが大切に遺していった古い小箱を見つける。
そこにあったのは、十五年前のあの日、彼が「命の恩人」に預けたはずの片方のカフスボタン。
そして、幼いエルゼが綴った、あまりにも切ない真実の日記だった。
――「あの日、雪の中で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私だったのです」
真実を知り、絶望の中でエルゼを追うカイル。
だが、すべてを捨てて「自分」を取り戻したエルゼは、もう二度と、彼の隣で微笑む仮面の妻には戻らない。
これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの、静かで鮮やかな再生の物語。
婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~
なつめ
恋愛
侯爵令嬢ネフェリナ・ヴァルケインは、幼い頃から決められていた婚約を守るため、十年近くローディアス・フェルゼンの母に耐え続けてきた。
作法を否定され、贈り物を笑われ、亡き母の思い出まで踏みにじられても、婚約者がいつか自分を守ってくれると信じていたからだ。
けれど結婚式を目前にしても、ローディアスは一度として母を止めなかった。
そのうえ最後には、ネフェリナの我慢を当然のように求める。
もう十分です。
そうして彼女は婚約を解消し、以前から打診のあった北方の名門公爵家へ嫁ぐことを選ぶ。
冷徹と噂される若き公爵セヴェリオ・アルスレイン。
だが彼は、誰よりも静かで、誰よりも確実にネフェリナの尊厳を守る男だった。
去られて初めて焦る元婚約者一家。
けれどその頃にはもう、ネフェリナには新しい居場所ができていた。
これは、長く耐えた令嬢が自分で自分を救い、静かな溺愛の中で本当の幸福を選び直す物語。
白い結婚十年目、ようやく離縁できると思ったのに 〜冷酷公爵は今さら私を手放さない〜
なつめ
恋愛
十年前、家のために嫁いだ公爵家で、イゼルディナは結婚初夜に告げられた。
「この結婚は白い結婚だ。十年後、お前を離縁する」
愛されない妻として、公爵家のためだけに尽くした十年。
社交、屋敷、領地経営、赤字整理、人脈づくり。夫の隣には立てなくても、公爵家を支えたのは間違いなく彼女だった。
だからこそ、約束通りの離縁状に署名した時、彼女はようやく自由になれると思った。
けれど、冷酷なはずの夫セヴェリオンは、その離縁を認めない。
しかも今さら執着するように、優しく、激しく、取り戻すように迫ってくる。
遅すぎる。
そう突き放すイゼルディナだったが、やがて公爵家に巣食っていた悪意と、セヴェリオンが十年間ひた隠しにしていた真実が明らかになる。
これは、失った十年を「なかったこと」にはせず、
それでも自分の尊厳を取り戻した女が、最後は自分の意志で幸福を選び直す物語。
愛を知らないアレと呼ばれる私ですが……
ミィタソ
恋愛
伯爵家の次女——エミリア・ミーティアは、優秀な姉のマリーザと比較され、アレと呼ばれて馬鹿にされていた。
ある日のパーティで、両親に連れられて行った先で出会ったのは、アグナバル侯爵家の一人息子レオン。
そこで両親に告げられたのは、婚約という衝撃の二文字だった。
『愛人を連れて帰ってきた翌朝、名前すら呼ばれなかった私は離縁状を置いて旅に出ます。これからは幸せになります――そう思っていました。』
まさき
恋愛
夫に名前すら呼ばれず、冷たく扱われ続けた私は、ある朝、ついに限界を迎えた。
決定打は、夫が見知らぬ女性を連れて帰ってきたことだった。
――もういい。こんな場所に、私の居場所はない。
離縁状を残し、屋敷を飛び出す。
これからは自由に、幸せに生きるのだと信じて。
旅先で出会う優しい人々。
初めて名前を呼ばれ、笑い、温かい食事を囲む日々。
私は少しずつ、“普通の幸せ”を知っていく。
けれど、そのたびに――背中の痣は、静かに増えていた。
やがて知る、自らの家系にかけられた呪い。
それは「幸せを感じるほど、命を削る」という残酷なものだった。
一方その頃、私を追って旅に出た夫は、焦燥の中で彼女を探し続けていた。
あの冷たさも、あの女性も、すべては――。
けれど、すべてを知ったときには、もう遅くて。
これは、愛されていなかったと信じた私が、
最後にようやく“本当の愛”に気づくまでの物語。