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第1章
【対応記録:第02回】
しおりを挟む世の中には、物理的な暴力よりも遥かに効率的に、人間の精神を磨り潰す場所がある。
久我にとってそれは、新宿にある大手通信販売会社のカスタマーセンター、その最奥に位置する「特別対応室」だった。
午前九時。フロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、空気の重さが物理的な圧力となって肩にのしかかる。
数百人のオペレーターが放つ、焦燥、困惑、そして受話器の向こう側から溢れ出す純粋な悪意が混じり合った、熱を帯びた澱み。久我は無表情のままデスクにつき、戦場へ赴く兵士のような手際でヘッドセットを装着した。
シニアマネージャー。それが久我の肩書きだったが、その実態は「最終防衛ライン」に過ぎない。
部下の手に負えなくなった、いわゆる地雷客。理屈が一切通じず、ただ怒りをぶつけることだけを目的としたクレーマーたちを、久我は一人で引き受けていた。
「……はい。左様でございます。誠に申し訳ございません。お客様のご指摘、痛心に堪えません。仰る通り、弊社の配送管理に重大な不備がございました。はい、はい……。誠に、誠に……」
ヘッドセットから漏れ出す怒号は、隣の席のオペレーターが震え上がるほどの音量だった。
相手は、商品の色がウェブサイトの画像とわずかに異なると主張し、三時間近くも罵声を浴びせ続けている。
「死ね」「無能」「お前の親の教育を疑う」
そんな言葉は、久我にとってはもはや、雨音と同じ日常の背景音に過ぎなかった。
かつては久我も、一言ごとに胸を痛め、動悸を覚え、夜も眠れない時期があった。
だが、ある一線を越えた時、彼の脳は自己防衛のために、言葉を意味として受け取ることを拒絶し始めたのだ。
受話器の向こうで叫ぶ人間が、もはや同じ言語を操る種族には思えなかった。
怒り狂う声は、特定の波形を持ったノイズ。
罵詈雑言は、不快な周波数の振動。
久我は、相手が発する音の中から、彼らが真に求めている「納得の着地点」というパズルピースだけを抽出する精密機械へと変貌していった。
(……あ、この人、今は内容なんてどうでもいいんだな。ただ、自分の優位性を確認したいだけだ。あと十五分謝り続ければ、満足して電話を切るな)
そんな冷徹な分析が、秒単位で脳内を駆け巡る。
久我の表情は、完全に死んでいた。
鏡を見れば、そこには三十一歳という若さに見合わない、深い隈と虚無を湛えた男が映っていた。
その日の残業が四時間を超えた頃。
最後の一件を「円満」に終わらせた久我は、ふと、自分の限界を悟った。
パソコンのモニターに映る「対応完了」の文字が、水底にあるかのように歪んで見える。
耳の奥では、ヘッドセットを外してもなお、幻聴の怒号が止まない。
「……辞めよう」
誰に言うでもなく、久我は呟いた。
その決断に、迷いはなかった。これ以上ここにいれば、自分は人間ではなく、ただの謝罪する石像になってしまう。
退職届を叩きつけたのは、その翌日のことだった。
引き止める上司の声も、彼にはもはや、聞き流すべきノイズの一つでしかなかった。
数日後。
久我は、久々の平日の昼間を、地下鉄のホームで迎えていた。
行き先のない外出。ただ、静かな場所へ行きたかった。
だが、運命は彼に休息を与えるつもりはなかったらしい。
地下鉄大江戸線のホーム。
突如として空間が歪み、コンクリートの壁が内側から弾け飛んだ。
「現代ダンジョン」の自然発生。通称、アウトブレイクだ。
悲鳴を上げて逃げ惑う人々。その中央に鎮座したのは、全長三メートルを超える、筋骨隆々の魔獣、ミノタウロスだった。
「グオォォォォォォォォォォォォッ!」
その咆哮は、地下ホームの空気を物理的に震わせた。
居合わせた警備員が震える手で警棒を構えるが、魔獣の一振りで壁まで吹き飛ばされる。
凄まじい威圧感。普通の人間にしてみれば、それだけで心臓が止まりかねない恐怖の権現。
だが、久我は、ただ棒立ちのまま、その魔獣を見つめていた。
逃げる気力さえ湧かなかったというのもあるが、それ以上に、奇妙な感覚が彼を支配していた。
(……なんだ、この音は)
ミノタウロスの咆哮。
他のみんなには死の宣告に聞こえるその音が、久我の脳内では、驚くほどクリアな言葉として翻訳されていた。
(熱い! 熱いぞ! どいつもこいつもチカチカしやがって! どこだ、ここは! 暗いし、息が苦しい! 誰か助けろ!)
久我は、呆然とした。
魔獣の咆哮の中に混じっているのは、純粋な殺意ではない。
それは、急激な環境変化に対する、パニックに近い不満と訴えだった。
(……なんだ。電話の向こうで騒いでいた連中と、何も変わらないじゃないか)
久我の恐怖は、その瞬間に霧散した。
怒鳴るクレーマーに比べれば、この魔獣の方が、よほど感情が素直で、分かりやすい。
前職での地獄の日々が、彼の脳の言語中枢を、魔力の波動にさえ適応させてしまっていた。
「……あの、失礼いたします」
逃げる人々とは逆方向に、久我は一歩、踏み出した。
ビジネスバッグを脇に抱え、いつものプロの顔を作る。
「グガァッ!?(なんだ、お前! 殺すぞ!)」
ミノタウロスが血走った目で久我を睨む。
だが、久我は足を止めない。むしろ、相手のパーソナルスペースに、自然な動作で侵入した。
「左様でございましたか。急な転居に伴う環境の変化、並びにこの区画の照明の不備。さぞかし、ご不安な思いをされたことと存じます。まずは、私共の管理不足により、お客様をこのような騒がしい場所にお呼びしてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
久我は、完璧な角度で、腰を折った。
地下ホームという非日常。目の前には巨大な怪物。
そんな光景の中で、一人のサラリーマンが平伏している。
(……え? お前、何言ってるんだ? てか、俺の気持ちがわかるのか?)
ミノタウロスの動きが、止まった。
久我は顔を上げると、バッグの中から、帰宅途中に買ったコンビニのミネラルウォーターと、冷えピタの袋を取り出した。
「お身体の火照りは、急激な魔素濃度の変化によるものでしょう。こちら、冷却用のシートでございます。角の付け根あたりを冷やされますと、少しは楽になられるかと」
久我は、慣れた手つきで冷えピタを剥がすと、自分を殺そうとしていた魔獣の額に、そっと貼り付けた。
ミノタウロスは、一瞬だけ身構えたが、ひんやりとした感覚が伝わると、拍子抜けしたように鼻を鳴らした。
(……あ。気持ちいい。……冷たくて、落ち着く)
「よろしければ、こちらの飲料水もどうぞ。軟水ですので、お口に合うかと存じます」
ペットボトルのキャップを空け、差し出す。
ミノタウロスは、巨大な手でそれを慎重に受け取ると、一気に飲み干した。
駅構内に、荒い鼻息だけが響く。
数分後。
駆けつけた特殊探索部隊が見たのは、額に冷えピタを貼り、お行儀よくホームに座り込んでいるミノタウロスと、その隣で「定時後の対応は、本来なら時間外手当が出るはずなんだけどな……」とぼやく、一人の男の姿だった。
久我は、事情聴取を適当に切り上げると、足早に現場を去った。
その背中に、また一つ、新たなノイズが混じり始めていたが、彼はまだそれに気づいていない。
「……さて、帰って寝よう。もう、誰の怒鳴り声も聞きたくない」
だが、彼の願いとは裏腹に、耳に届く世界の不満は、日を追うごとに鮮明になっていくのだった。
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