現代ダンジョンの苦情係 〜元クレーム処理担当の俺、魔物の言葉がわかるので菓子折り一つで世界を救う〜

ぱすた屋さん

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第1章

【対応記録:第03回】

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会社を辞めてから三日が経過した。
久我にとって、これほどまでに長く、そして何も予定のない時間は、社会人になってから初めてのことだった。

朝、アラームに叩き起こされることもない。
満員電車で他人の体温と不快な匂いに耐える必要もない。
そして何より、ヘッドセットから流れ込んでくる、どこの誰とも知らぬ人間の罵詈雑言に神経を磨り潰されることもない。

「……静かだ」

昼過ぎの代々木公園。久我はベンチに深く腰掛け、淹れたてのコーヒーを片手に空を仰いだ。
青空には白い雲がゆっくりと流れ、木々の葉が風に揺れて微かな音を立てている。
かつて夢にまで見た、完璧な休息。

だが、久我の表情は、決して晴れやかなものではなかった。
コーヒーを一口啜り、ゆっくりと目を閉じる。
すると、どこからか「音」が聞こえてくる。
それは物理的な振動としての音ではなく、彼の脳内に直接書き込まれる、翻訳された「訴え」だった。

(……狭い。暗い。誰だよ、こんなところにガムを捨てたのは。粘ついて、羽が動かせないじゃないか)

久我の眉間に、無意識にシワが寄る。
声の主は、ベンチの裏側に潜んでいる、現代ダンジョン産の小型魔物、ウィング・ラットだろう。本来なら地上にいるはずのない存在だが、昨今のアウトブレイク多発により、都市の生態系にはこうした「害獣」が紛れ込んでいた。

無視しろ。俺はもう、苦情を受ける立場じゃない。
久我は自分に言い聞かせ、コーヒーの香りに集中しようとした。
だが、一度聞こえてしまった「不満」は、彼の職業病を容赦なく刺激する。

(痛い……。喉が渇いた。なんで人間は、こんなに汚いものばかり吐き出すんだ。……助けてくれ)

「……チッ」

久我は小さく舌打ちをした。
結局、コーヒーを飲み干す前に、彼は腰を上げた。
ベンチの裏側に回り、隙間に手を差し込む。そこには案の定、翼を粘着性のゴミで汚し、身動きが取れなくなっている紫色のネズミがいた。

久我はバッグから、除菌用のウェットティッシュを取り出した。
「失礼いたします。少々、失礼な触れ方をいたしますが、清掃のためですのでご容赦を」
いつものビジネス敬語が、口を突いて出る。

(……えっ、なんだ、お前。俺の声がわかるのか? 痛い、優しくしろよ!)

「承知いたしました。できる限り低刺激な方法を選択いたします。ですが、お客様。このような公共の場での不法滞在は、周辺住民の方々とのトラブルの原因となります。以後は、指定の居住エリアへの帰還を強くお勧めいたします」

久我は淡々と、しかし丁寧な手つきでネズミの翼を拭き上げた。
汚れが落ち、自由になったウィング・ラットは、驚いたように久我の顔を見つめ、そのままどこかへと飛び去っていった。
感謝の言葉はなかった。だが、その背中からは、先ほどまでの刺々しい怒りが消えていた。

「……何をやっているんだ、俺は」

久我は、汚れたティッシュをゴミ袋に入れ、独りごちた。
仕事は辞めたはずだ。それなのに、街を歩けば、あるいは静かに座っていれば、世界のあらゆる場所から「魔物の苦情」が飛び込んでくる。

排水溝の中から聞こえる「水質汚濁」への怒り。
街灯の影から漏れる「光害」への不満。
自販機の裏で震える「騒音」への訴え。

魔物の言葉がわかる。
それは、アウトブレイクでミノタウロスと対峙したあの日から、呪いのように彼に定着してしまった。
前職での限界を超えたストレス。そして、ダンジョン発生時に浴びた未知の魔素。
それらが久我の「聴覚」を、人類で唯一の、異種族間コミュニケーションツールへと変質させていた。

「この街は、うるさすぎる……」

久我は公園を後にし、新宿の雑踏へと戻った。
静寂を求めていたはずなのに、今の彼にとって、街はコールセンターのフロア以上に騒がしかった。
人間たちの無関心な歩行の陰で、魔物たちがその生態を歪められ、苦しみ、憤っている。
そして、その声が理解できてしまう自分だけが、彼らにとっての唯一の「窓口」となってしまっているのだ。



夕暮れ時。久我は自宅近くの交差点で、一人の少女とすれ違った。
少女は、現代ダンジョン管理ギルドの制服を身に纏っていた。
手には、魔力を検知するためのレーダーを持っている。

「……おかしいな。さっきまで、このあたりに強い反応があったはずなんだけど」

少女が首を傾げている。
その視線の先には、一階のレストランの排気口があった。
久我には見えている。その排気口の奥で、熱風に晒され、今にも暴走しそうなサラマンダーの幼体が、怒りを溜め込んでいるのを。

(……熱い。殺す。全部焼き払ってやる。この熱風を吐き出す機械も、それを作った人間も!)

魔物の怒りゲージが、レッドゾーンに達しようとしている。
このままでは、あと数分もしないうちに、このレストランの壁が爆発し、炎が通行人を襲うだろう。
ギルドの少女は、まだ具体的な原因を特定できていない。

久我は、足を止めた。
そのまま通り過ぎれば、自分は平穏な無職でいられる。
関われば、またあの「責任」と「ストレス」の世界に引き戻される。

だが、久我の足は、吸い寄せられるように排気口へと向かっていた。

「……あの、失礼ですが」

久我は少女に声をかけた。
少女は驚いたように振り返る。

「はい? ええと、一般の方は危ないので離れてください」

「管理ギルドの方ですね。その排気口の奥、フィルターに目詰まりが発生しており、内部の個体がオーバーヒートを起こしています。放水魔法による急冷は避けてください。蒸気爆発の恐れがあります」

「えっ……? なんでそれを……」

久我は少女の困惑を無視し、レストランの入り口へと向かった。
「ちょっと、勝手なことを……!」という少女の制止を背に、久我は店員を呼び出した。

「新宿ダンジョン管理事務局……の、協力者の者です。一階厨房の排気システムに不備がございます。大至急、出力を停止し、清掃業者……いえ、我々に現場を確認させてください」

久我は、まだ持ってもいない肩書きを堂々と名乗った。
その表情、その声、その圧倒的な「現場感」。
店員は、相手が本物の役人であると錯覚し、慌てて奥へと引っ込んでいった。

数分後、排気システムが停止し、温度が下がると、奥にいたサラマンダーは大人しくなり、少女の魔力ケージの中に収容された。

「……ありがとうございました。おかげで、惨事にならずに済みました」

少女は、ヘルメットを脱いで深々と頭を下げた。
「あの、あなたは一体? 協力者って仰いましたけど、本部のリストにはお名前が……」

「……ただの、通りすがりの無職ですよ。お疲れ様でした」

久我はそれだけ言うと、今度こそ、逃げるようにその場を去った。
だが、確信があった。
自分の平穏な休息は、もう二度と戻ってこないのだという確信が。

自宅のアパートに辿り着き、鍵を開ける。
暗い部屋の中で、久我は一人、ソファーに倒れ込んだ。
「静かだ……」

そう呟いたが、心はざわついていた。
魔物の言葉がわかる。その力が、彼に「何か」を求めている。
それは、前職のような一方的な搾取ではない。
人間と、この世界に突如現れた魔物たちとの、歪な関係を調整する。
そんな、誰にもできない、自分だけの「仕事」があるのではないか。

その日の夜、久我のスマートフォンのメールボックスに、一通の通知が届いた。
差出人は、先ほど会った少女の上司にあたる人物……現代ダンジョン管理ギルドの、人事部からだった。

『本日、新宿三丁目にて弊社の職員をサポートいただいた記録を拝見しました。……貴殿のような人材を、我々は探し求めていたのです』

久我は、スマートフォンの画面を消し、天井を見つめた。
「……結局、仕事はしないとな……」

苦笑いしながらも、彼の指は、返信のボタンを求めて動いていた。
定時退社、残業なし。
その甘美な条件を盾に、彼は新たな戦場へと身を投じる決意を固めつつあった。
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