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第1章
【対応記録:第23回】
しおりを挟むギルド本部、特別賓客フロア。地上階の喧騒から切り離されたその場所は、聖女エレナが放つ淡い光の残り香と、高級な香油の匂いが漂っていた。久我は、手に持った是正勧告書の角を揃え、重厚な扉の前に立った。
「久我さん、本当にやるんですか? 聖女様ですよ? 彼女に逆らうってことは、彼女を支持する何百万人もの信者と、ギルド上層部をまとめてクレーマーにするようなもんですって!」
背後で、佐藤が今にも泣き出しそうな声で囁く。クラは久我の足元で静かに座り、コトはシルクハットの中から冷徹な瞳で扉を見つめていた。
「佐藤さん。私は誰とも戦うつもりはありません。ただ、お客様の不利益を解消するために、窓口として適切な確認を行うだけです」
久我が扉をノックすると、中から鈴を転がすような、透き通った声が響いた。
「――どうぞ、お入りなさい」
室内には、純白の法衣を脱ぎ、簡素なワンピース姿になったエレナがいた。彼女は窓から差し込む夕日に包まれ、まるで宗教画のような神々しさを放っていた。だが、その瞳には、連日の浄化によるものか、微かな疲労の色が滲んでいる。
「……あら、あなたは。先日の広場にいた苦情係の」
「お忙しいところ恐縮です。現代ダンジョン管理ギルド、現場対応課の久我でございます。本日は、エレナ様が実施されている浄化に関する、数理的、および倫理的な観点からのご確認に参りました」
久我は、淀みのない所作で名刺を差し出し、ソファに腰を下ろした。
「ご確認……? 私の祈りは、苦しむ魂を安らぎへと導くためのものです。そこに、どのような不備があるというのでしょうか」
エレナの問いは、純粋そのものだった。彼女は心から、自分が善行を積んでいると信じている。久我は、タブレットを起動し、一つのグラフを表示した。
「エレナ様。こちらは、あなたが浄化を行った際に観測される魔素の減衰グラフです。通常、魔物が討伐されると、その魔素は周囲に霧散し、自然界へと還ります。……しかし、あなたの浄化の場合、魔素は消えるのではなく、その構造が完全に破壊されている」
「それは……罪深き魔の力を、清らかな光に変えているからでは?」
「いいえ。……コト君、鑑定結果を」
久我の合図で、コトがシルクハットを脱ぎ、テーブルの上に置いた。
「……お姉さん。ボクには見えるんだよ。あの光が通った後、そこには想い出(レコード)の欠片さえ残らない。……それは救済なんかじゃない。存在したという事実そのものを、上から白いペンキで塗り潰す抹殺だよ」
エレナの頬が、わずかに引き攣った。
「抹殺……? 失礼なことを。私は彼らに、安らかな眠りを与えているのです。彼らは皆、笑って消えていったではありませんか」
「お客様が笑っていたのは、あなたの魔法に含まれる強制的な多幸感(ユーフォリア)による副作用です」
久我の声は、一歩も引かなかった。
「エレナ様。昨日、私の窓口に一人のスケルトン・ナイトが参りました。彼は百年の間、一人の少年の成長を見守ることを唯一の糧として生きてきた。……彼は、あなたの光を拒んでいます。なぜなら、あなたの魔法は、彼が孫のために残してきた想い出ごと、彼を消し去ってしまうからだ」
久我は、一枚の書面をテーブルに滑らせた。
「これは、魔物たち六百八体による連名での浄化拒否申し立て書です。……エレナ様。医療の現場において、患者の同意なき治療は暴行と見なされます。……それと同じく、管理対象の同意なき消去は、ギルドの規定においても重大な生存権の侵害に当たります」
「……そんな。私は、救いたかっただけなのに……」
エレナの澄んだ瞳に、初めて動揺の波が走った。彼女が信じてきた正義が、事務屋の冷徹な正論によって、一つずつ剥がされていく。
「エレナ様。あなたに一つ、お聞きしたい。あなたが日本へ派遣された際、ギルド上層部からどのような指示を受けましたか? 効率的に、目立つ場所で浄化を行え、と言われませんでしたか?」
「それは……。人々を安心させるために、活動を周知するようにと……」
「……やはり。彼らは、あなたの善意を在庫処分の道具として利用しています。あなたが祈りを捧げるたびに、ギルドは本来支払うべき討伐報酬を節約し、手間のかかる魔物との共存問題を無かったことにしている。……エレナ様。あなたの魔法は今、組織の不手際を隠蔽するための消しゴムとして使われているのです」
「……私が、消しゴム……?」
エレナの手が、小刻みに震え始めた。彼女が救いだと信じていた光は、魔物たちの尊厳を奪い、人間の強欲を助長する、あまりにも残酷な道具に成り下がっていた。
「……本日、私がここに参ったのは、エレナ様を糾弾するためではありません。あなたのその強大な魔力……本来であれば、破壊ではなく対話の橋渡しに使えるはずです。……もし、あなたが本気で彼らを救いたいと願うのであれば、まずはその光を収め、彼らの声を聞くことから始めていただけませんか?」
久我は深く、丁寧に一礼し、部屋を後にしようとした。扉に手をかけた時、背後からエレナの、震えるような声が届いた。
「……久我さん。……私は、これからどうすればいいのでしょうか」
「窓口は、いつでも開いております。……定時内であれば、いつでもご相談に乗りますよ」
久我は一度も振り返ることなく、静かに扉を閉めた。廊下に出ると、佐藤が魂の抜けたような顔で壁に寄りかかっていた。
「……久我さん。あなた、本当に……。聖女様を泣かせるなんて、地獄に落ちますよ、きっと」
「地獄の苦情対応なら、クラ君が詳しいですから、心配ありません」
久我は、足元で尻尾を振るクラの頭を撫で、夕闇の迫る廊下を歩き出した。聖女の迷い。それが、ギルドという巨大な組織の歯車を、少しずつ狂わせ始めていた。
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